• その15

語る地名、働く地名。(北摂編)【前編】 ―織姫と酒と炭の地名物語― 2022年9月8日

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7市3町の北摂

①池田駅周辺マップ(阪急池田駅前の案内板)

 連載第5回・6回・7回は、仕事にまつわる地名を訪ねて大阪市中・泉州・河内をめぐってきました。今回の北摂で、大阪府一周です。
 北摂エリアには大阪府の北部を占める高槻市・茨木市・摂津市・吹田市・豊中市・池田市・箕面市の7市、島本町・能勢町・豊能町の3町が属します。「摂」は8世紀初めに定められた旧国名の摂津をさし、その北部なので北摂です。もともとの摂津には、今の兵庫県内の尼崎・伊丹・有馬なども含まれていましたが、明治以後に行政区分が変わりました。
 北摂は、大阪府の他のエリアと同様に古代以来の長い歴史を持っています。一方で近隣の諸地域と大阪市中の中間に位置し、文化が交差する場所でもありました。
 そんな北摂の仕事と地名は、どうなっているでしょうか。最初に訪ねるのは池田市①です。

古代近畿の機織はたおりのはじまり

②伊居太神社の境内は森の中にある③呉服神社の本殿は朱色が鮮やか④呉服神社本殿に舞うステンドグラスの鳳凰

 池田市の綾羽(あやは)町に、伊居太(いけだ)神社があります②。市内最古の神社とされ、大陸から招いた穴織媛(あやはとりのひめ)を祀っています。招いたのは応神天皇で、祀ったのは仁徳天皇。後には両天皇も伊居太神社の祭神になりました。
 伊居太神社は阪急池田駅の北に広がる五月山公園の麓にあります。穴織媛とともに招かれた呉服媛(くれはとりのひめ)を祭神として祀る呉服(くれは)神社③④も池田駅近くにあり、駅前の石鳥居が参道への道案内になっています。
 呉の国の人だった穴織媛と呉服媛は機織りの技術を日本に伝え、没後に「裁縫の神」として祀られました。呉とは中国の南部にあった国の名前です。今でも着物のことを呉服(ごふく)と呼ぶのは、呉から織物の技術が伝来した歴史の名残り。呉は「くれ」とも読み、「くれはとり」とは呉機織(くれはたおり)が訛った呼び名ともいわれます。また「あやはとり」とは漢機織(あやはたおり)に由来し、機織技術を持つ渡来人をさしていました。

絹を洗う川、干した川原

⑤伊居太神社境内の猪名津彦大明神社 ⑥絹延小橋の石碑。橋が架かっていた小川は暗渠になったという

 ここまで読んで、連載第7回登場の交野市の機物(はたもの)神社、あるいは藤井寺市の衣縫(きぬぬい)廃寺に織物の発祥にまつわる話があったのを思い出した方もいるかもしれません。
 さらに付け加えると、池田市の伊居太神社、呉服神社の由来は『日本書紀』に記され、そこには穴織媛と呉服媛が古代宮廷で裁縫の仕事を担った飛鳥衣縫(あすかのきぬぬい)、伊勢衣縫(いせのきぬぬい)の祖であるとも述べられています。
 これらの話は、古代の近畿に広まった織物の技術のルーツは同じと語っています。「衣」は昔も今も生活の大事な基盤で、豊かな彩りです。池田の地で穴織媛、呉服媛の技を受け継いだ人々は、神社を建て、二人を祀り、感謝の念をあらわしたのでしょう。「衣」を織り、縫う仕事のはじまりが、こうして今に伝えられました。
 日本に穴織・呉服を連れてきたのは阿知使主(あちのおみ)という渡来人です。無事に任務を果たした功績で猪名津彦(いなつひこ)の名を賜り、伊居太神社の境内の猪名津彦大明神社に祀られています⑤。猪名とは、社前を流れる猪名川をさし、穴織・呉服はその川でが染色した絹織物を洗い、川原に延べて干したといいます。現在の猪名川に架かる絹延橋(きぬのべばし)、橋の対岸にある能勢電鉄の絹延橋駅、駅の所在地の絹延町(川西市域)の絹延の2字は、穴織・呉服の伝承にちなんだものです。
 池田市と川西市の境を流れる小川に架かっていた絹延小橋はなくなりましたが、呉服神社の隣りの歴史民俗資料館の前に、橋名を刻んだ小さな石碑が建っています⑥。

北摂と河内をつなぐ織姫伝説

⑦明星大神を祀る星の宮の由来書⑧星の宮はとても小さい祠(ほこら)

 池田市には、機織り仕事にまつわるファンタジックな伝承も残っています。
 昔、中国から、あやはとり、くれはとりの二人の姫が渡ってこられ、夜遅くまであやにしき(絹の織物)の機織りをしていました。すると、そこへ多くの星が降りてきて、おりどの(織殿)を真昼のように明るく照らしてくれました。これが、二人の織姫を助けた星々を明星大神として祀り、星の宮を建てたはじまりです。
 この話が載っているのは、星の宮の案内板です⑦。星の宮の別称は明星太神宮。伊居太神社の近くにある御旅所です⑧。
 「機織りと織姫ならこっちにも……」という声が、北河内の方面から届きました。そうですね、星の宮の伝説は確かに第7回登場の交野市の機物(はたもの)神社と七夕の織姫伝説を連想させます。機物神社が七夕祭りで有名な神社になった背景には、「はた(秦)」という名の一族がありました。声が言うように、交野と池田の伝承には共通点があります。
 池田市には古代から中世にかけて秦上郷(はたのかみのごう)、秦下郷(はたのしものごう)という地名があり、渡来系氏族で養蚕・機織に従事した秦氏が住んでいました。一説には、秦氏と並ぶ渡来系氏族の東漢(やまとのあや)氏の居住地でもあり、呉国から「あやは」「くれは」を連れ帰ったのは東漢氏の祖であったともいわれます。
 北摂の池田と北河内の交野は、機織りと星にまつわる伝承を共有し、歴史を受け継いできました。大阪府の北西と北東に分かれながら、ふたつの街には近しいものがあるようです。

もうひとつの穴織と呉服

⑨江戸時代にできた東(下渋谷村)の穴織神社の縁起⑩石鳥居をくぐって石段を上ると東の呉服神社

 「駅の東も、あやは、くれは……」とアナウンスのような声が流れたのは阪急池田の駅前です。そうでした、ここまでの話に出た伊居太神社は池田駅の北、呉服神社は西側にあり、どちらも夏祭りの賑わいで知られています。一方、東側にある穴織神社、呉服神社は知る人ぞ知る。祀っているのは同じ「あやはとりのひめ」「くれはとりのひめ」なのに、いったいなぜ、と、さっきの声は言いたかったのですね。
 池田駅の東口前は、市役所のある中心街です。さらに東に行くと歴史民俗資料館があって、近くに小さな「あやは」「くれは」の神社がありました。両神社には同じ内容の縁起を記した案内板⑨があって、それによると、どちらの神社も、東の村の人々が、西側の神社から「あやは」「くれは」の神霊を分けてもらい、鎮守として祀ったとのこと。
 案内板にはさらに、村人たちは待兼山(まちかねやま)で神霊の到着を今か今かと待ちかねたと書いてあります。待兼山は今の大阪大学の所在地で豊中市域ですが、昔から和歌で人待ちの想いが詠まれた名所なので、こんな伝承が生まれたのでしょう。村人の待望ぶりがわかります。東の村に新しい穴織神社・呉服神社⑩が生まれたのは、江戸時代の寛永年間(1624~44)でした。
 江戸時代の池田は、池田酒、池田炭と並んで池田木綿が特産品でした。第7回で河内木綿の話があったように、江戸時代は木綿の栽培が各地で盛んになります。絹織りを伝えて神になった「あやは」「くれは」は、新しい産業の時代になってからは、地域の守り神に変じ、村の繁栄、村仕事の無事を願う人々の願いに応えたのでした。

呉服の里の池田酒

⑪池田酒・呉春のレトロな広告板⑫「呉春株式会社」の表札を掲げた蔵元・呉春

 池田酒と池田炭の話が出ました。仕事地名の話題ではもうおなじみの地名を冠した産物の登場です。
 まずは池田酒。そのはじまりは応仁年間(1467~69)に萬願寺村(兵庫県川西市の旧村名)から池田に移って酒造業を営んだ萬願寺屋です。江戸時代の中頃には、酒造家が40軒近くあり、大阪府下で最大の酒どころに成長。現在の西本町・米屋町・中野町の一帯が酒造の中心地で、池田酒は元禄期には数十万樽が船で出荷されました。送り先は主に江戸です。
 現在も地元に2つの蔵元が健在。そのひとつ呉春株式会社は、江戸時代の池田ゆかりの絵師・松村呉春の名にちなんだ命名とのこと⑪⑫。呉春とは、呉服の里の池田で春を迎えた感銘をあらわす号。松村呉春は与謝蕪村に絵を学び、後に日本画の一大勢力になる四条派の祖で、司馬遼太郎の『天明の絵師』の主人公にもなった人物です。

池田炭、地名と産物の新たな関係

⑬能勢の丹州街道(左上)野間街道(中央)・川西の一庫(中央下)大阪府近郊地図昭和27年頃(1952)朝日新聞社

 続いて池田炭の話です。池田酒ほど知られてはいませんが、江戸時代には、クヌギを原材に諸国第一の上質とされ、切り口が菊花状になるのが美しいことから茶席で珍重されました。但し、生産地は現在の能勢町の一帯、または兵庫県川西市の一庫(ひとくら)です。池田には西本町・中新町・北新町に炭屋・炭商が集まり、池田を通して各地に出荷していました。池田炭とは、集散地の名を冠しての命名でした。池田酒が産物名に生産地名が冠されているのとは、成り立ちが違います、これまで紹介してきた仕事地名を見渡しても、池田炭のような例はありません。
 池田炭というネーミングがなされた背景には、商業地としての池田の名がブランドの地位を獲得し、産地名を冠するよりも販売に有利だったという事情があります。江戸時代が商業の時代であり、大坂が商都と呼ばれて繁栄した時代の流れに池田も乗りました。池田炭が茶席で好まれたのも、ブランドが求められる一因になったでしょう。池田では定期市も賑わいました。商業地としての繁栄を支えたのは西国街道、能勢街道など各地に延びる往来の道でした⑬。

箕面の萱野米・粟生米

⑭箕面(中央左)萱野(中央上)粟生(右上)日本交通分県地図[大阪府]大正12年(1923)毎日新聞社

 さて、池田市に続いて登場するのは箕面市です。箕面は酒どころの池田に隣接し、酒造の原料となる良質の酒米(さかまい)を産出して、萱野米(かやのまい)、粟生米(あおまい)と呼ばれました。萱野も粟生も箕面の地名で、酒米の産地としてブランド名になったのです。背景には街道筋がひらけた箕面が、池田の酒造と一体化して発展できたという地の利があります。
 一方で箕面は、箕面滝、瀧安寺などの名所が古くから知られ、江戸時代には観光地として名声を高めます。元禄年間(1688~1704)には滝と紅葉を求めて京・大坂など近在から人々が来訪。文人墨客が多くの詩歌、絵画を残しました。町人に文化が広まる時代になると、新しい仕事も生まれました。大坂・伊丹で流行した俳諧は、著名な俳人になれば選者や編者として生計をたられる道をひらいたのです。箕面でも俳諧は人気を呼びました。今、萱野3丁目には、萱野三平重実(かやのさんぺいしげざね)を偲ぶ萱野三平記念館が建っています。俳人としての名は消泉。赤穂義士の一人といわれ、記念館は萱野の名物になっています。

 前編はここまで。池田市の話が多かったのは、西国街道、能勢街道など交通の要路で、物資の集散地、市の立つ商業地として古くから発展し、産業と地名が結びつく機会が多かったからでしょう。池田酒はその代表。能勢の炭、豊能の炭が池田を経由して池田炭の名で流通したケースには、現代のブランドビジネスに通じるものを感じます。箕面もお隣りの池田の繁栄に浴しながら、北摂の観光名所として独自の道を歩いていきました。時代の流れと街の文化がどんなふうに交わっていくのか、後編では、現代につながる事例を見ていきます。