• その16

語る地名、働く地名。(北摂編)【後編】 ―鉄道と空港とハニワの地名物語― 2022年9月8日

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自己紹介する町名

⑮正雀駅から線路の網の目の奥に車両工場を見下ろす⑯阪急電鉄正雀車輛工場の住所は阪急正雀

 後編の最初の訪問地は摂津市です。連載の第1回では摂津市の鳥飼が登場しましたね。大和朝廷時代に設置された鳥養部にちなむとされる地名で、平安時代には乳牛を飼育する味原牧があり、江戸時代から明治・大正にかけては米づくりと綿や菜種の栽培が盛んでした。風景が一変したのは昭和3年(1928)、新京阪鉄道(現・阪急京都線)が開通してからです。正雀駅が誕生し、駅前から市街地化がはじまり、鐘淵化学(現・カネカ)、ダイキン工業などの大工場が次々と開設されました。
 昭和41年(1966)には、正雀駅前に阪急正雀という町名が生まれます。全域が阪急電鉄の正雀工場で、「私は阪急の車両工場の所在地です」と町名が自己紹介しています⑮⑯。第7回河内編で地名が物産名・企業名と結びつく例(河内ワイン・飛鳥ワインなど)を見ましたが、企業名がそのまま町名になった例は、これが連載初登場。電鉄と地域の結びつきの深まりを物語るエピソードです。
 昭和43年(1968)、正雀工場は西宮工場を統合し、当時の民間鉄道としては東洋一と呼ばれる巨大な車両工場になりました。検査・整備・修理・改造のための仕事場であり、鉄道ファンには毎年恒例の阪急レールウェイフェスティバルの会場として広報役もつとめています。コロナ禍以後もフェスティバルはオンラインで開催され、阪急正雀の名をネットの世界にも広げています。

阪急、ダイハツ、東芝……企業名が地名になる昭和後半

⑰池田市神田・脇塚[現・ダイハツ町](中央左)大阪府近郊地図昭和27年頃(1952)朝日新聞社

 昭和生まれの町名には、阪急正雀以外にも企業名登場の例があります。池田市のダイハツ町は川西市、伊丹市と境界を接し、昭和41年(1966)に誕生。昭和36年(1961)にダイハツ工業の工場ができ、昭和40年(1965)に大阪市中からダイハツ工業本社が移転して、翌年にダイハツ町になりました⑰。
 茨木市の太田東芝町は昭和48年(1973)からの町名。全域が東京芝浦電気の大阪工場で、旧町名の太田が企業名に冠されました。中世の太田郷や豪族の太田氏が太田城を構えた歴史に、現代の企業活動が接ぎ木された格好です。
 企業名ではありませんが、江戸時代以来の名高い商業地の名前が新地名になった例として、箕面の町名の船場西・船場東も挙げておきます。誕生は昭和47年(1972)。かつての農村地帯に、大阪市中の船場の繊維卸売業者を誘致して生まれた商業団地にちなんだ町名です。
 昭和後半、戦後の成長期は企業の活動に勢いがありました。パワーがついに地名の世界にも及んだわけです。江戸時代には土地を開発した商人の名が地名になる例が少なくありませんでしたが、昭和のケースは人名ではなく、企業名もしくは商業地名が主役になりました。働けば暮らしがよくなるといわれた高度成長時代、地名も企業名とタッグを組んで働いたのです。

空港のさらにその先に……

⑱北今在家・宮ノ前・東轟木[現・池田市空港]下新田・走井・箕輪・山ノ上・勝部・桜塚・福井[現・豊中市南空港町](中央)大阪府近郊地図昭和27年頃(1952)朝日新聞社

 時代の流れに乗って現れた町名の中でもひときわ異彩を放っているのが、昭和40年(1965)生れの空港(池田市)、昭和50年(1975)生れの南空港町(豊中市)です。いずれも町域の大部分が大阪国際空港で、空港の北側エリアは伊丹市域(兵庫県)にあり、北東側が池田市、南側が豊中市で3市域にまたがっています。
 昭和14年(1939)にできた滑走路2本だけの大阪第二飛行場が戦後に拡張され、大阪国際空港と改称した後も大阪万博開催直前の新滑走路完成など成長し、池田に空港、豊中に南空港町という町名が誕生しました。鉄道に続いて空港が新時代を象徴する仕事のステージになったのが、こんな形であらわれたのです。
 第7回河内編、第6回泉州編では述べませんでしたが、八尾空港には空港、関西国際空港にも泉州空港という名の町名があります。
 「私は空港です」と町名に名乗られても、初めて聞く人はとまどうかもしれません。試しに、空港エリアの旧町名の地図⑱の上部に載っている東市場・西市場という地名をご覧ください。空港も市場も仕事場の名であることに変わりはないのに、市場の方が地名として自然な感じがするのは、空港がまだ歴史の浅い言葉だからでしょうか。
 空港は国や自治体が主導する大規模な事業です。ひとつの空港から多くの仕事が創出されます。一方で、大規模ゆえの環境への負荷という問題も生み、大阪国際空港は廃止論が出た時期もありました。空港という町名には、地名と仕事の交わり方が、どこかの時点で大きく変わったと感じさせるものがあります。
 試練を経て空港は今も健在で、今も時は留まることなく流れていきます。空港のさらにその先の新しい仕事地名が生まれる頃には、仕事という言葉の意味も、これまでとはかなり違うものになっているのかもしれません。

地名にもOEMが

⑲平通・銅山(左下)新改正摂津国名所旧跡細見大絵図・天保7年(1836)河内屋喜兵衛(清林文庫蔵)

 話題が未来にまで飛びそうになりました。
 再び時代をさかのぼり、中世の能勢町を訪れたいと思います。能勢町は大阪府最北端の町。かつては多田銀銅山の銅の採掘所がありました。多田銀銅山は兵庫県と大阪府にまたがる大鉱山で、豊臣時代に採掘が盛んになり、有名になりました。江戸時代には能勢の平通村(ひらどおりむら)⑲をはじめとする村々が幕府領の銀山村とされ、採掘した鉱石を運び出す坑道があり、精錬用の炭を焼いていました。呼び名は銀山村でも、能勢で採れたのは銅です。伝承では多田銀銅山の採掘も銅からはじまり、その銅は東大寺の大仏造営時献上されたとのこと。現在の多田銀銅山遺跡は、兵庫県猪名川町の銀山(町名)⑲にあり、かつての坑道などが公開されています。
 精錬用の炭焼きの話が出ましたが、炭は能勢町の重要な産業で、後に茶席用の「池田炭」に発展していくのは、【前編】で紹介したとおり。隣りの豊能町も茶席用の「池田炭」の産地でした。能勢・豊能の両町ともに特産の炭が池田のブランド名を冠して流通したわけです。今でいうOEMのような仕組みが江戸時代にもあったのですね。

伝統野菜になった地名

⑳三島村・茨木町(中央)「地形図」昭和7年(1932)大日本帝国陸地測量部

 北摂は河内、泉州と同様に早くから開けた地で、近世にも大消費地の大阪を控えた農業地として発展しました。江戸時代から続く大阪独自の野菜を対象に大阪府が認定している「なにわの伝統野菜」も19品目のうち6品目が北摂産です。
 茨木市では天保年間(1830~44)にみずみずしく甘い三島独活(うど)が名産になりました。三島はかつての郡名で、その一地域だった茨木市には現在も阪急総持寺駅の北に三島・三島丘という町名があります⑳。三島独活は今、伝統の栽培技術を受け継いだ千提寺(せんだいじ)の農家一軒が生を続けていて、三島という地名との結びつきは見えなくなっていますが、名称は三島独活のまま変わりません。
 吹田慈姑(くわい)は小粒で柔らかく甘みがあるのが特徴。地下の塊茎を食べるクワイが、千里丘陵の良質で豊富な地下水に育まれ、独特の風味をもつ吹田慈姑(くわい)になりました。
 摂津市の鳥飼茄子(なす)はまん丸い形が見た目にも可愛らしく、食感がさっくりとして甘みがあります。能勢町には香り高くやわらかい高山牛蒡(ごぼう)、くせのない茎野菜の高山真菜(まな)があり、高槻市には旧服部村の服部越瓜(しろうり)が漬物で人気。いずれも地名が野菜に冠された名前で親しまれてきました。
 「知らんと食べてたら、地名やったん」という声が聞こえました。今日からは野菜の味はもちろん、名前にも注目を。消えた地名も野菜といっしょに思い出してもらえたら……。
 「なにわ伝統野菜」は河内、泉州、大阪市中にもあり、それぞれ地名とかかわりが深いです。ここまで触れる機会がありませんでしたが、またいずれ紹介したいと思います。

ハニワ工人たちの仕事場へ

㉑ハニワ工場公園へようこそ(公園入口の案内) ㉒ハニワ工場公園に復元された窯と調査中の窯(左端) ㉓ハニワづくりの作業場(ハニワ工場館内部)

 いよいよ北摂編の最後の話題です。  高槻市のJR摂津富田駅から北へ約2キロ、古代の氷の貯蔵所があったとされる氷室町(ひむろちょう)を通り抜け、上土室(かみはむろ)の町内に入ると見えてきます。
 木々の緑の向こう、池の畔の斜面に長々と延びる屋根がひとつふたつ……
 その名はハニワ工場公園です!
 フルネームは史跡今城塚古墳附・新池埴輪製作遺跡ハニワ工場公園!㉑
 日本最古・最大のハニワ工場の跡地で、周辺の今城塚(いましろづか)古墳、太田茶臼山古墳などの築造にともなうハニワを焼いた窯18基と工房3棟が復元されています。長い屋根に見えたのは、窯を覆う粘土製のドームでした㉒。今城塚古墳が近年の発掘調査で6世紀の継体大王の墓と判明し(それまでは太田茶臼山古墳が継体天皇陵とされた)、注目を浴びたのに応えて、ハニワ工場跡が史跡公園として整備されたとのこと。オープンしたのは平成7年(1995)です。
 ハニワと工場がくっついたネーミングに興味をそそられ、ハニワ工場公園を訪れました。ハニワが並ぶ遊歩道、斜面に復元された窯、保存されたハニワづくりの作業場㉓……青空の下の池の畔というオープンな空間に、古代のハニワ工人たちの制作現場が再現されています。ハニワ工場公園は今城塚古墳と合わせて国史跡にも指定されている本格的な遺跡ですが、案内板はどれもマンガ付き。近所の子供たちの探検コースみたいな雰囲気もかもしだされていて、親近感がもてます。
 ちなみに公園の所在地の町名、土室(はむろ)もハニワ作りの小屋を意味するハニイオ(埴廬)から転じたとのこと。納得です。

ハニワ、土によみがえるもの

㉔マップ・ハニワ工場(左上)今城塚古墳(中央)摂津富田駅前の案内板より ㉕今城塚古墳を囲む円筒ハニワ ㉖ハニワは今も1500年前の祭礼を続けている ㉗ハニワ馬、ハニワ鳥も行進中

 ハニワ工場公園から足をのばして、今城塚古墳にも行ってみました㉔。円筒ハニワの行列㉕でまわりを囲まれた大きな古墳です。かたわらに古代の祭礼を模したハニワ群㉖があり、武人、力士、家、馬、鳥㉗などがずらりと並んで、古代の風景を再現しています。
 次の文は古墳の案内板の解説より。
「ハニワをつくるには、よい粘土と燃料になる木、粘土をこねる水がたくさん必要です。それにハニワを焼くカマは斜面につくるために、台地のはしっこのようなところがなければなりません。ここがハニワ工場に選ばれたのはすべての条件がそろう、理想的なところだったからです。」
 巨大な古墳には数千~数万のハニワが必要で、ハニワ工場の工人たちも腕のふるい甲斐があったでしょう。
 ちなみに、今城塚古墳に葬られた継体(けいたい)大王は近江出身で、応神天皇の子孫とされ、大和から迎えられて天皇になりました。古代の三島は高槻市・茨木市・摂津市にまたがり、継体大王を支えた北陸や東海地方の豪族たちと瀬戸内海を結ぶ要路でした。三島を縦断する淀川は大王の故郷である近江が源でした。土と水と火でできたハニワから、古代の風が舞い上がり、彼方の大空へ吹いていきます。

 第8回・後編はこれにておしまい。第5回から仕事地名をテーマに大阪府下を一周してきたシリーズも完結です。摂津市の阪急正雀は企業名が町名に冠された例ですが、鉄道というインフラ名が顔になった地名と考えれば、池田市空港の先駆といえるかもしれません。企業名がそのまま町名になった例には池田市のダイハツ町があり、北摂の仕事地名の変遷は池田エリアに凝縮されている感があります。
 一方で、トリに登場した高槻市のハニワ工場公園は、北摂の古代史と現代をつないだ地名でした。河内編で登場した藤井寺市の土師とともに古墳にまつわる仕事地名として注目されます。他地域とのつながりでいえば、池田市と河内編の交野市が共有している織物・織姫の伝承も興味深いものでした。
 仕事地名は人の営みに直結しています。動物、花、緑の地名をテーマにしてきた第1回~第4回までの話と比べると、仕事地名の中身の変貌ぶり、変化のスピードはずいぶん速いようです。それがいったいどのくらい速いのか、感じる間もなく、時代は過ぎていきますが、地名の声はいつもそばにいて、話しかけてくれます。

 さて、今回登場の仕事地名の集計結果は、池田市が17箇所で最多。続いて箕面市5箇所、能勢町4箇所、高槻市3箇所でした。第5回~第8回まで大阪市中・泉州・河内・北摂をめぐってきた仕事にまつわる地名の話はこれで完結。次回のテーマは大阪の神様地名です。お楽しみに!