大阪駅前に神の山があった
さて、今回のテーマは神です。連載中、すでにいくつもの神社の名前が登場しましたが、神にまつわる地名は神社だけではありません。科学万能の時代になっても、街のあちこちで息づく神の呼び名。意外とふだん意識しないまま、口にしている神地名もあったりするかもしれません。
オープニングは梅田から。大阪駅の東、阪急東通商店街を抜けたところに神山町という町名があります。駅前散歩にちょうどいいくらいの近さです。神山町の南には太融寺町があり、そこは昔、稲荷山と呼ばれていました。稲荷山といっても山はなく、神山町にも山はありません。どうして稲荷の山、神の山というのでしょう。地図を広げると近くに神明町という町名も見えます。
神山町、稲荷山、神明町……並べただけではつながりの見えない3つの地名について、このあとの話は続きます。太融寺町という寺にまつわる地名が、神の地名とどう関わるのかも見ていきたいと思います。
神山に祀られた2人
神山町には、菅原道真を祀る綱敷(つなしき)天神社があります。綱敷の名は、京の都を追われて大宰府に向かっていた道真が当地で梅の花を愛でた時、船の綱を巻き置いて座ったのにちなみます。船で来たのは、昔の梅田は川筋が縦横に流れていたから。なぜ、ここで梅見をしたかといえば、ここが特別な場所だから。
というのは、綱敷天神社が生まれる前、そこにはすでに先客がいました。皇大神宮、もとの名は神野神社です。祀られているのは嵯峨(さが)天皇。祀ったのは嵯峨天皇の第八皇子で左大臣の源融(みなもとのとおる)です。
嵯峨天皇(786~842)は政治の安定と文化の発展に尽くし、自身も秀でた書家として後世に名高い天皇ですが、死後の供養は不要と遺言したため、墓が長い間つくられませんでした。源融(822~895)はそんな父のために神野神社を建てたのです。神野の名は嵯峨天皇の死後の称号からとりました。建立地は兎我野(とがの)を見下ろす小高い丘で、兎我野(連載第2回に登場)は嵯峨天皇のかつての訪問地でした。
神野の丘と兎我野の間には、嵯峨天皇の命で開かれた寺もありました。その寺の境内地を広げ、太融寺と名を改めたのも源融です。死後の供養を拒んだ嵯峨天皇の遺言を源融は守らず、父とゆかりの深い稲荷山、兎我野、神野で追悼を重ねました。丘の上に神野神社を建てたのは、丘を陵墓に見立てたのでしょうか。
今に残る神山という町名は、神野神社の建立地が小高い丘だったのにちなみます。菅原道真(845~983)がやって来たのは、創建から半世紀以上経た頃の神野神社の丘でした。眺めを楽しみ、梅を愛で、源融と嵯峨天皇の時代を偲びつつ、道真は都を追われて大宰府に向かう我が身の運命を省みたことでしょう。後に自分も神山の地に祀られるとは、思いもよらないことでした。
稲荷山から駅前ビルへ
太融寺が開かれたのは稲荷山という場所だったと、先に述べました。その名は源融の子孫が祀った稲荷社にちなみます。ここにも源融とつながる縁がありました。その後、稲荷山は花見の名所になり、明治維新後は大阪駅誕生でさらに賑わいをみせていきます。
何度か危機も乗り越えました。明治42年(1909)の北の大火では堂島川の北側一帯が焼けても稲荷社は残り、「焼けずの稲荷」と呼ばれました。大正~昭和は開発による風景の変貌が激しく、戦時中は空襲にもあい、神山も稲荷山も平地になってしまいましたが、稲荷社は今も無事です。
現在の鎮座地は、梅田の賑わいを見下ろす駅前第一ビルの屋上。稲荷社のかたわらに建つ碑には、源融の10代目の子孫の渡辺伊豆三郎が当地を開墾し、18代目の渡辺十郎が守護神として稲荷社を祀ったと記されています。空襲で梅田一帯が被災した時も、地元有志の手で再建されたとのこと。高層ビルの屋上はいわば都市にそびえる山の頂上。稲荷山で生まれ、梅田の変遷を見てきた稲荷社にふさわしい鎮座地といえそうです。
現在の名は正一位(しょういちい)福永稲荷。もとは神の最高の位階の呼び名で、後に全国の稲荷神社の別称にもなった正一位を冠したところに、梅田の稲荷再建を望んだ人々の崇敬が表れています。
明るい神の町という町名


源融が梅田に残した神地名は、まだ他にもありました。昭和19~53年(1944~78)の間、北区にあった神明町です。今の町名でいうと西天満と曽根崎のエリア。大阪駅の目と鼻の先で、神山町との距離は約500メートル。阪急東通商店街の賑わいもすぐ近くという界隈です。
昔、神明町のあたりは川が流れ、中洲にあったのが神明社。祀られた神は伊勢神宮の天照大神と豊受大神(とようけのおおかみ)で、祀ったのは源融です。天照大神は日の神で皇室崇敬の象徴。豊受大神は天照大神とともに伊勢神宮の主神とされる食物の神。神明社の神明とは、明るく照らす日の神である天照大神をあらわす呼び名です。
神山町と神明町。神の山の町のご近所の明るい神の町。その原風景には、山もあれば川もあるかつての梅田がありました。
神地名が語るもうひとつの梅田の賑わい史
こうして梅田の山川は一大霊場になりました。源融は『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルとされた人。京の都で地上の栄華を極めつつ、梅田では彼岸の栄光を願って、神野神社・太融寺を開き、伊勢神宮の2神を迎えたのです。
梅田の歴史について、しばしば、「明治になって大阪駅ができる前は、梅田墓地があるだけのさびしい場所だった」と言われます。じつのところ、梅田墓地は大阪駅の西側の話です。東側の一帯はここまで見てきたように、地名の神山・稲荷山・神明町、神社の神野神社・福永稲荷・神明社が連なる神域でした。いずれの逸話にも源融及びその子孫が関わっています。梅田の賑わいはまず東から、神々の賑わいとともにはじまったのです。
源融が建てた神明社は、夕日神明社と呼ばれるようになりました。社殿が夕日の沈む西向きなのが名の由来です。江戸時代には、歴代の大坂城代が城に赴任した時、必ず参拝したとの由緒を誇りました。
明治の末に曽根崎の露天神社の境内に移されて残り、現在は難波神明社と称しますが、昔のままに夕日神明社とも呼ばれています。
朝日の神明、春日の神と此花で出会う
大阪には他にも神明社があります。大阪メトロ長堀鶴見緑地線・松屋町駅の北の神崎町(中央区)は、当地にあった朝日神明社に由来する町名です。朝日を冠したのは、朝日が昇る東を向いた神明社だったため。前身は熊野街道沿いの参拝所(王子社といいます)のひとつだった坂口王子社とされ、創建は文治元年(1185)。建仁元年(1201)に後鳥羽上皇が熊野参詣の途中で訪れたと藤原定家の日記『明月記』に記されています。後には源義経が戦勝祈願をしたともされ、逸話の多い社でした。
明治40年(1907)、朝日神明社は春日出中(此花区)に遷座しました。町名の春日出は、江戸時代の新田開発の折りに殺された鹿を開発者の雑賀七兵衛が弔い、春日神の社を建てたのにちなみます。鹿は春日神社の神獣で、春日出もまた神地名でした。
遷座にあたって朝日神明社は、此花区川岸町の皇大神宮(天照大神を祀る)、春日出町の春日神社、西区阿波座の安喜良神社(天神を祀る)を合祀。明治の近代化で神の世界も合理化が進みましたが、発祥の地の神崎町には今でも朝日神明宮旧跡の碑が建っています。
大大阪時代の神明の鎮座地
「これって、大阪三神明の話やね」と、古書市の露店から声が聞こえます。神明社はまだ2つしか登場していないのですが、確かに3つ目の有名な神明があり、戦前の頃まで大阪三神明と呼ばれていました。大阪の古い話を集めた本に載っているよ、と声はさらに教えてくれました。
すでに述べた朝日神明社は朝日の神、夕日神明社は夕日の神。もうひとつの神明は昼の日の神で、社殿は南向きでした。名前は日中神明です。
日中神明は後陽成天皇が京都西院に伊勢の天照大神を祀ったのが起源。江戸時代の初めに大坂城に近い内平野町に移されたのは、城の守護神、大坂三郷(江戸期の市街地)の祈願所とするためでした。
大正13年(1924)に大正区鶴町に遷座したのも、時代の要請によります。翌年、大阪は市域拡張で面積・人口日本一の大大阪になり、人口最大区となった港区は大正区エリアを含む巨大区で、港湾を中心に大躍進を遂げました。日中神明社は、そんなフロンティアの地の守護神として招かれたのです。
夕日神明社は神明町、朝日神明社は神崎町という町名を生みました。日中神明社は町名にはなりませんでしたが、大阪三神明のひとつに数えられ、その名を残しました。
稲荷と神明と春日の地名
このへんで、ここまで登場した稲荷、神明、春日の神にまつわる地名の例をもう少し挙げておきましょう。
江戸時代には玉造稲荷(中央区)の門前に、稲荷門前町(図中では稲荷前町)・稲荷仲之町(図中では稲荷中町)・稲荷新町の3町名がありました。玉造稲荷が大坂城の守護神として豊臣秀頼の信仰厚く、江戸時代にも歴代の城代に崇敬されためです。明治5年(1872)、稲荷門前町の一部は神職を意味する禰宜(ねぎ)町に改称。他は東雲町通・岡山町と、城の東、玉造の岡にちなんだ改称で、玉造稲荷を偲んでいます。
浪速区の町名の稲荷は、地元の赤手拭(あかてぬぐい)稲荷にちなむ町名で、今も健在。上方落語の「ゾロゾロ」にも登場するお稲荷さんとして知られています。
堺市の町名の稲荷町・稲荷屋敷は、高須稲荷神社(現・高須神社)に由来。明治5年(1872)にそれぞれ北半町・北旅籠町東に改称しました。堺市には神明町も江戸期からあり、今も続いています。由来はもちろん神明宮です。
茨木市と枚方市の町名の春日、高槻市の春日町、豊中市の宮山町はいずれも春日神社の所在地で、春日神社の神は藤原氏の守護神で祖神です。
神地名をたどっていくと、神々が地名に根をおろし、あるいは移り、地域の歴史と交わりながら、時代を経てきたのがわかります。
神山・神並・神内……なんと読む?
大阪府には神の1字が入った地名も数多くあります。【前編】の最後に、その中から神社や神話的な伝承に由来する地名をいくつか挙げます。
東成区の神路(かみじ)は大正5年(1916)に南新開荘村が改称して誕生。村内を東西に横断する暗越奈良街道が、神武東征の通路になったとの伝承にちなむ町名で、神武天皇は古代のさまざまな事蹟を神格化した存在と考えられています。
岸和田市の神於山(こうのやま)は和泉山脈の一角を占め、古くから山そのものがご神体として信仰の対象でした。山名も神の尾根、神のいる峰の意味。奈良時代に金峯・熊野・宇佐・白山の神々を祀る鎮守の社が置かれ、後に神於町という町名も生まれました。
河南町の神山(こうやま)は金剛山地の西にある町名。天磐船に乗った饒速日命(にぎはやひのみこと)の降臨の地で、饒速日命を祀る鴨習太(かもならいた)神社があるのにちなみます。
東大阪市の神並(こうなみ)は、神の降臨するところを意味する神奈備(かんなび)が転じた町名で、石切剣箭神社の鎮座に由来。大正9年(1920)より石切の一部に編入されました。
高槻市の神内(こうない)は安満山の南東の丘の麓の町名。古い呼び名の神奈備(こうなび)が、神内に転じたと伝えられます。神奈備は神の鎮座する山や森をさす言葉。
豊中市の神洲町(かみすちょう)は神崎川下流の町名で、八幡神社が鎮守の洲到止(すどうし)と菰江(こもえ)の各一部が昭和38年(1963)に合併したもの。
池田市の神田(こうだ)は天元元年(978)創建とされる素戔嗚尊神社(現・八坂神社)があったことによる地名です。