弁天と大坂城と淀君の物語
JR大阪城公園駅前といえば、大阪城公園や大阪城ホールがおなじみの風景。では、駅のすぐ北にある弁天橋はご存じでしたか?
弁天橋を渡って西へ行くと、大阪城と川を挟んで対面に弁天抽水所(雨水の排水施設)もあります。城の直近に2つの弁天地名……何か、いわれがありそうです。弁天とはもちろん七福神の唯一の女神、弁財天をさしています。
弁天橋の北詰の町名は城見(中央区)で、弁天抽水所も同じ町内です。城見は大手企業の超高層ビル、イベントホール、ホテルなどが建ち並ぶ大阪ビジネスパークの所在地。大阪城を間近に見る立地にちなむ町名です。
さて、城見という町名が生まれたのは昭和54年(1979)で、その前の名は弁天町でした。さらに前は弁天島でした。川に挟まれた砂洲が弁天島と呼ばれたのは、弁天堂という弁財天の祠があったから。
弁天堂を有名にしたのは豊臣秀頼の母、淀君でした。生前は熱心に弁天堂に参拝し、死後はかたわらに淀姫神社ができました。淀君が祀られたのは、江戸時代の大坂城には異変が度々起こり、大坂夏の陣で自害した淀君の祟りとされたから。
弁天島には京橋口定番(警護役)の下屋敷、大坂城の焔硝蔵(火薬庫)があり、鴫野村の一部だったので、弁天堂・淀姫神社は鴫野の弁天さんの名で親しまれました。今、城見は中央区、鴫野は城東区に分かれていますが、もとはひとつの鴫野村が弁天島にあったわけです。
明治10年(1877)弁天島の一帯は、陸軍の兵器工場である大阪砲兵工廠の一部になりました。鴫野の弁天さんは、鴫野神社として谷町9丁目の生國魂神社の境内に移されて現在に至ります。生國魂神社はかつて大阪城の敷地にあったので、淀君の安住の地になったのも縁でしょう。今の鴫野神社の通称は淀姫の社で、女性の守護神とも呼ばれています。
大坂夏の陣以後、城を見守る弁天の地名はめまぐるしく変遷しました。城見に残った弁天橋、弁天抽水所は、大阪城と淀君、弁天さんを結んで偲ぶ糸でした。
もうひとつの弁天町と2つの神明
城見の前は弁天町という町名だったと述べました。今、弁天町といえば、大阪メトロとJR大阪環状線の弁天町駅を思い浮かべる方が多いでしょう。ショッピングセンターやホテル、温泉、放送局がある大阪ベイタワーが駅前の賑わいの中心。駅前の町名は弁天で、その前は弁天町といいました。駅名とともに弁財天との縁を物語っています。
町名の弁天町の誕生は昭和2年(1927)。さらに前は市岡町で、ルーツは江戸時代に開発された市岡新田にたどりつきます。新田には村人が集まる会所が設けられ、弁財天が祀られていました。昭和の初め、周辺の町々を再編してできた新しい町の名に、江戸時代の村人のよりどころだった弁天の名を復活させたのです。
港区では弁天埠頭も、かつてのフェリーターミナルの賑わいで知られ、周辺には弁天埠頭公園、弁天公園など弁天地名があちこちに見られます。
【前編】では日中神明が大正13年(1924)、大正区(当時は港区に所属)の鶴町に遷座しました。その翌年に人口日本一の大大阪が誕生。弁天町の発足はさらにその2年後。大大阪の名で大阪が躍進した頃、湾岸の神地名にも異動が続きます。【前編】でお話した朝日神明社の明治40年(1907)此花区春日出中への遷座も時代の流れ。結果として此花区・大正区に大阪三神明のうちの2つの神明が鎮座し、弁天町のある港区を中心に湾岸3区に神地名が揃い踏みをしました。大坂城・大大阪・弁財天の三題噺が、江戸時代と近代を結ぶ形で締めくくられたのです。
議会で決まった毘沙門池の顕彰
「七福神やったら、ここにもおられます」と、教えてくれた声は天王寺区役所の方面から。江戸時代に有名だったという毘沙門池のことですね。
江戸時代の地図には大きく載っている毘沙門池。古くは池畔が紅葉の名所でした。毘沙門池の名の由来は不詳ですが、仏法守護の四天王に数えられる毘沙門が北方の守り神で、池が四天王寺の東北にあったのが理由と思われます。灌漑用の水源でもありましたが、周辺の市街地化により明治末に埋め立てられました。
後に、地元名所の消滅を惜しむ声があがり、区議会の決議を経て、昭和3年(1928)に天王寺区役所に毘沙門池記念碑が建ちました。区役所の建物は昭和2年(1927)完成で、大正末に大大阪時代を迎え、地域の歴史を顕彰する機運が市中で高まっていたのです。区役所は平成の改修時にも建設当時の外観を保存し、毘沙門池記念碑も玄関脇に残されています。
区役所と四天王寺の中間点には、四天王寺建立の頃の創建と伝えられる五條宮があり、その境内にも旧毘沙門池跡碑が建ちました。2つの碑の間に、約17,000㎡の池が広々と身を横たえていたのです。
大黒さんとえべっさんへの参道に
「七福神、しょっちゅう渡ってます」何かと思えば、道頓堀川に架かる大黒橋のことでした。大黒橋の東隣りは新戎橋、戎橋が連なる賑やかな界隈。大黒天の打出(うちで)の小槌にあやかりたいとは、ミナミのお店の方たちの声でしょう。大黒橋の名は、橋の南詰が木津大黒天社(浪速区元町)への参道になっていたことにちなみ、大黒天社は旧木津村の村社の摂社です。
同じく浪速区の大国(だいこく)は敷津西にある敷津松之宮の摂社・大国主神社にちなむ町名。祀られている大国主(おおくにぬし)は大黒天の別名ですね。周辺には町名の大国、大阪メトロの大国町駅、大国小学校、大国南公園などもあります。
浪速区の七福神にまつわる地名では、戎が目立つ存在です。十日戎で名高い今宮戎があり、その門前の町名は今宮で、南海電鉄の今宮戎駅もあります。並行して走る阪堺線には恵比須町停車場があり、周辺の町名は戎本町・恵比須東・恵比須西とまさにエビス沿線。道頓堀に目をやれば観光名所の戎橋があり、その名は橋の南詰から続く今宮戎への参道にちなみます。江戸時代には市中から戎橋を渡ると村々の田畑が広がり、十日戎には参道が福笹を持つ人の行列で埋まったといいます。
堺市の戎島町は、寛文4年(1664)縁起の良いしるしとして霊亀(れいき)が現れたことから亀島と呼ばれた洲に蛭子(えびす)神社を建てたのが起源。神社は海で見つけた蛭子神の石像が祀られ、島の鎮守とされ、戎之町・戎之町浜という町名の由来にもなりました。
宮の1字は神地名のサイン
今宮戎の話題が出ました。今宮の「宮」は神社をさし、神地名のサイン。ここで宮の付く大阪の神地名をいくつか挙げておきましょう。
泉大津市の宮は、泉州を代表する古社のひとつ泉穴師(いずみあなし)神社の鎮座地の町名。宮はそのまま泉穴師神社をあらわしています。祀られているのは天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)と織物の神の𣑥幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)で、泉大津市は現在も繊維産業が盛んです。
堺市の宮下町(みやしもちょう)は、地元の踞尾(つくの)八幡神社の下にひらけた町。岸和田市の宮前町は、西之内町の浜主神社の前面にあたるのに由来。いずれも今に続いている町名です。
次はかつてあった宮の地名。中央区に昭和54年(1979)まであった宮林町は、江戸時代の当町が稲荷神社の近くの鬱蒼とした森だったことに由来。現在の町名は玉造と中道です。北区の宮之前町は明治5年(1872)までの町名で、現在の町名は天神橋筋。大阪天満宮の門前町をあらわす名が、参道筋の賑わいを願う名になりました。 池田市の宮之前は、宝亀元年(770)創建とされる地元の住吉神社にちなむ町名。昭和40年(1965)に住吉と空港(第8回登場の町名)に分割、改称されました。羽曳野市の宮村は江戸期の村名で、百済(くだら)から渡来した津連(つのむらじ)の氏神の大津神社があるのに由来。和泉市の宮里は地元の丸笠神社にちなみ、現在の国分町・仏並町・下宮町付近一帯の地名だったとされます。
北区は天神と天満の神地名ラッシュ
今回、すでに天神・天満の名が何度か出ていますが、どちらも菅原道真を神として呼ぶ名前で、天満は天満大自在天の略です。大阪府下には多数の天神社、天満宮がありますが、ここでは町名あるいは町名の由来になった天神・天満の例をとりあげます。
大阪天満宮のお膝元、北区では大川沿いに天満、西天満、天満橋の町名が広い範囲を占め、大川には天満橋、天神橋が架かっています。日本一長いといわれる天神橋筋商店街の東に沿って町名の天神橋が続き、西側には天神西町という町名も見えます。
京阪電車、大阪メトロ谷町線の天満橋駅、JR環状線の天満駅、JR東西線の大阪天満宮駅、大阪メトロ堺筋線・谷町線の天神橋筋6丁目駅も名をつらね、天満市場をはじめ、天満を冠した商業施設も多数。上方落語の常設寄席の天満天神繁盛亭が賑わいに花を添え、北区エリアはまさに天神・天満の神地名ラッシュ。
江戸時代には、大川の北側一帯の広域が天満組と呼ばれ、豊臣時代に天満堀川が開削されて商業地が繁栄し、北区のルーツになりました。天満組の中心が天満宮で、明治以後も天神祭りや天神橋筋商店街の賑わいのよりどころでした。天神・天満の地名が大阪天満宮の周辺に集中しているのも頷けます。
ここまで、ずらりと並んだ天神・天満の地名から、神社名はもちろん森や山、町や駅、さらには商店街の名前にもなるフットワークの軽さが身上といえるかもしれません。上方落語の常設寄席として知られる天満天神繁盛亭は、天満と天神を重ねたネーミングに千客万来の願いをこめています。
北区以外の天神地名
天神地名の最後に北区以外の例を3つ。第3回に登場した高槻市の天神町は昭和39年(1964)生れの町名で、太宰府天満宮に次いで2番目に古い天神社の上宮天満宮の門前町なのが由来。町域には天神山があり、天神山遺跡からは大量の土器が発掘されました。第4回に登場した西成区の天神ノ森は、地元の天神ノ森天満宮にちなむ町名です。
岸和田市の天神山町は昭和54年(1979)からの新町名で、もとは神須屋町をはじめいくつかの町域が再編成されてできました。
堺市には明治5年(1872)まで近隣の菅原天神にちなんだ天神東片原町という町名がありました。
天王寺区の天神坂は、坂の上の安居天神が名の由来ですが、この天神はもともと天照大神など天津神(あまつかみ)と呼ばれた神々のこと。後世になって菅原道真も祀られ、安居天満宮とも呼ばれるようになったとのこと。
海をめざす神地名、それは……
大阪の神地名の特集もいよいよ終わりに近づいてきました。ラストを飾る神の名は何でしょう。
それは住吉の神地名です!
神の名に順位はつけ難いですが、大阪の地名の世界で、住吉の名が示す存在感は天神・天満とともに大きく、かつ次の地名が神地名としての住吉を強力にプッシュしています。
その地名とは、住吉区です!
区名の由来はもちろん住吉大社。住吉区の誕生は大正14年(1925)で、当時は現在の住吉区だけでなく東住吉区・住之江区・阿倍野区・平野区の5区域を含む広域区で、大阪市の歴史で最大の区でした。そのエリアは奈良時代の律令制で定められた住吉郡にほぼ重なります。古代の住吉郡も住吉大社にちなむ命名で、神地名としての住吉には長い歴史の裏付けがあります。
住吉の神は海中から出現したことから海の神とされ、大阪湾に抱かれた大阪にはとりわけ重要な神でした。和歌の神、農耕・産業の神でもあり、住吉にちなむ地名は各地に広がりをみせています。
住吉公園に桜咲く
住吉大社の住所は住吉区住吉です。住吉の周囲には上住吉・南住吉の町名があり、南海本線の住吉大社駅、南海高野線の住吉東駅、阪堺電軌上町線の住吉公園停車場、阪堺電軌阪堺線の住吉停車場・住吉鳥居前停車場があって、各路線が並行、あるいは交差して走っています。
住吉高校、住吉団地など住吉のつく地名は多く、なかでも住吉大社の目の前にある住吉公園は明治6年(1873)開設の大阪最古の公園。もともと住吉大社の境内地だった場所が公園として整備されたもので、ふだんは参拝がてらの散歩道、春は桜の花見で親しまれ、令和5年(2023)に開設150周年を迎えます。
住吉公園の南と木津川の間を流れる住吉川は、江戸時代は海だった一帯の新田開発にともない、物資輸送の水路として利用されたもので、流域は住之江区に属します。
住之江も住吉から派生した地名で、住之江区には昭和23年(1948)まで住吉浦町(現・柴谷町)がありました。もとは住吉浦と呼ばれた海浜が、江戸時代の埋め立て開発で新田となり、一部に残った水路が住吉浦と呼ばれた後、住吉川に姿を変えたとのこと。
地名の変遷の例として興味深いのが、北区にあった住吉町です。住吉の神が出現した松の木があったので住吉町と呼ばれていた町が、江戸後期に老松町(第4回参照)となり、昭和53年(1978)に天神西町・西天満に改称されました。北区は先述のとおり、天神・天満の勢力圏です。
最後に府下の住吉地名も挙げておきます。堺市の住吉橋町は昭和34年(1959)からの町名で、前身は明治5年(1872)生れの住吉橋通。住吉大社の御旅所の宿院頓宮に近く、夏には住吉大社の神輿が通ります。堺はかつての住吉大社の社領です。泉佐野市の住吉町は昭和43年(1968)からの新町名。由来は未詳ですが、大阪湾に突き出た埋立地で、海の神である住吉の神にあやかったものと思われます。
池田市の石橋駅近くにある住吉は昭和40年(1965)からの町名で、地元の住吉神社に由来します。住吉の地名は大阪南部を中心に広がり、北部にも進出しました。
住吉と天神は大阪の2大神地名。大阪天満宮が梅の名所で、住吉大社門前の住吉公園は桜の名所というように、第3回の花地名の話題ともつながるところがあります。人の世の日々、四季のうつろいに神や花の地名が寄り添っているのを感じます。