仏の地名、最初の訪問地
古い神社と寺院は地域の記憶の貯蔵庫で、地名とも深い関りを育んできました。前回の神地名に続いて今回は仏地名の特集です。
日本に仏教が伝来して千数百年。遠い昔の話のようですが、地名は今の暮らしの話。地名にかつての記憶が刻まれているのなら、足もとの地名から千数百年前の昔を語る声も聞こえてくるかもしれません。
最初に訪ねたのは太子町①です。大阪府に9つある町のひとつで、エリアは南河内。奈良県と境界を接し、人口約1万3千人。町名の由来はいうまでもなく聖徳太子です。実在かどうかが話題の聖徳太子ですが、地名の世界での存在感は今も際立っています。
太子の時代、仏教をめぐって日本は揺れ動きました。太子町には天皇として初めて仏教に帰依した用明天皇の陵墓があります。太子は用明天皇の子で、父の没後、叔母の推古天皇、大伯父の蘇我馬子とともに仏教興隆に尽くしました。反対派の物部守屋との戦いに馬子とともに勝利した太子は593年、四天王寺(天王寺区)を造営。翌年には推古天皇が三宝(仏・法・僧)を敬うべしとの詔(みことのり)を出し、太子はその後も多くの寺院を建立しました。
太子町には推古天皇陵があり、聖徳太子廟(霊を祀る所)②、蘇我馬子の墓があります。推古天皇は、太子廟の守護に香華所(こうげしょ)を設けました。香華所とは廟に香や花を供えるために陵墓などに隣接して置かれる寺院。これが現在の叡福寺で、数ある太子ゆかりの寺院の中でも特別な地位を占め、上ノ太子とも呼ばれています。最寄り駅も近鉄南大阪線上ノ宮太子駅。太子町は今も太子の町で、仏教が古代国家に根づいた足跡そのものです。
住所は太子町太子
聖徳太子は第8回仕事地名・北摂編に登場した継体大王の曾孫(ひまご)です。継体は近江出身の天皇として歴史に新風を吹き込み、継体以後の日本は政治・文化の両面で転換期を迎えます。
継体の子の欽明天皇は太子の祖父で、欽明の時代に仏教が大陸から伝来。これに反発した物部氏によって仏像が難波の堀江(現在の大川)に捨てられる事件が起きました。仏教を受け入れるかどうかが国家の大問題になり、物部氏は争いの末、太子と馬子に敗れます。古代の河内が合戦場になり、大阪は仏教興隆の舞台でした。
叡福寺③の所在地は南河内郡太子町太子。太子の町の中心です。太子の逝去からおよそ100年後、聖武天皇が叡福寺の境内を整えました。現在、叡福寺のまわりに点在する南林寺、西方院、東福院の3寺院はかつて叡福寺にあった諸堂の一部だそうです。今の町域でいうと太子エリアと隣りの春日の西半分をあわせた広域が、叡福寺の境内にすっぽりおさまっていたのです。
太子信仰の故郷
没後の太子は仏教興隆の祖として敬われます。救世観音あるいは日本の釈迦とも讃えられ、叡福寺は太子信仰の聖地になりました。隣接する太子廟④には空海、親鸞、日蓮、一遍など名僧たちが訪れ、昼夜こもっての祈願で霊験をあらわして、聖地の名をさらに高めます。平安から鎌倉時代にかけて太子信仰は各地に広まり、室町時代以後は数々の寺院建立により大工など多くの職人を生み出したことから、工匠の祖としても崇められました。こうして太子信仰はさまざまな階層の人々に浸透します。
聖徳太子の命日は旧暦2月22日です。現在も叡福寺で催される命日法要の大乗会(4月11・12日)は、親しみこめて太子参りとも呼ばれ、毎年多くの参拝客を集めています。叡福寺、聖徳太子廟の周辺には上宮太子中学、上宮太子高校、磯長台太子団地、太子学園、太子霊園など太子にちなんだ命名が目立ちます。
「太子の市も立つんやて」と、ここで叡福寺門前の青空マーケットの噂を耳にした方の声が届きました。名物の市の呼び名は「たいし聖徳市」で毎月第3日曜に開催。会場の「太子・和みの広場」には聖徳太子絵伝の石碑とともに太子の定めた十七条憲法を刻んだ石碑が17あり、買い物がてらに太子と出会えます⑤。「太子・和みの広場」の名も、十七条憲法の「和を以(もっ)て貴(とうと)しとなす」のアレンジでしょうか。令和3年(2021)は聖徳太子1400年遠忌。永い年月を隔ててもなお、太子は親しい存在なのですね。
上もあれば、下も中もある
太子堂という町名が八尾市にあります⑥。
「そうそう、こっちで太子堂いうと大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ)のこと」
飛びこんできた声はもちろんJR大和路線八尾駅前の地元から。叡福寺が上ノ太子なら、大聖勝軍寺は下ノ太子と呼ばれ、四天王寺と同じ頃に聖徳太子が創建したとの由緒を誇ります。
勝軍寺と名前が勇ましいのは、太子が物部守屋との戦いで、仏法を守護する四天王に戦勝祈願したのを建立の起源とするため。門前の守屋池は、物部守屋の首をとって池で洗った跡とされ、周辺には守屋を射た鏑矢(かぶらや)が埋められた鏑矢塚もあります。近くの楠本神社にも守屋の首洗池と伝える池が残り、守屋の墓も同じ太子堂の町内にあります。戦いのさまを生々しく物語る地名もまた太子の一面です。
上ノ太子、下ノ太子と並んで、中ノ太子もあります。羽曳野市野々上(ののうえ)の野中寺(やちゅうじ)は南北朝時代の戦乱で焼失しましたが、残った礎石が法隆寺式の伽藍配置を示し、太子の時代を物語っています。再建された本堂に、現在は重要文化財の弥勒菩薩像があり、毎月18日に開帳され、仏像の研究者、愛好家の来訪が多いとのこと。
上ノ太子、下ノ太子、中ノ太子の三つの寺をあわせて河内三太子と称します。聖徳太子といえば法隆寺や太子が住んだ斑鳩宮(いかるがのみや)で有名な斑鳩町(奈良県)がありますが、太子はご覧のとおり河内の人でもありました。
古代史のビッグネームが太子橋で顔合わせ
聖徳太子にまつわる地名、太子町、太子堂に続いて登場するのは太子橋です。
太子橋は昭和46年(1971)生まれの旭区の町名。由来はこの地域がかつて天王寺庄と呼ばれ、聖徳太子の四天王寺建立計画地だったとの伝承によります。四天王寺はここに建つはずだったという想いを、昭和の新町名に感じます。
「太子橋の太子はわかったけど」と、ここで地元からの声。「橋ってどの橋」との質問が後に続きます。ごもっとも。太子橋に架かる橋といえば、昭和45年(1970)に完成した豊里大橋が当時最大級の橋として有名で、それ以前は平田の渡し⑦と呼ばれる渡し船が名物でした。しかし、昭和中頃の地図⑧で太子橋エリアを見ると、あらわれたのは橋寺という町名です。
当地には鎌倉時代に橋寺荘、江戸時代には橋寺村がありました。明治半ばに豊里村に編入されてからも大字名で橋寺が残り、大正14年(1925)には新設の東淀川区に属する橋寺町として再スタート。昭和17年(1942)に旭区橋寺町⑦となり、同46年(1971)太子橋に町名変更しました。太子橋の名は、昭和の市電の太子橋停留所⑦、現在の大阪メトロの太子橋今市駅にも見られます。
昭和時代にこうして橋寺は太子橋になりました。太子橋とは「太子」の記憶に橋寺の「橋」をくっつけたモザイク地名だったわけですが、命名の背景は何でしょう。
ここで登場するのが行基(ぎょうき)です。伝記『行基年譜』には数多くの行基建造の寺院や橋が載っていますが、橋寺の地には高瀬橋、高瀬橋院(寺の名)を残したとあります。この寺は地元では橋本寺あるいは略して橋寺と呼ばれたとのこと。後の発掘調査により橋寺は焼失したとされますが、中世以後も荘園や村の名になり、昭和の橋寺町にまで継がれました。
1970年・大阪万博の翌年、町名の太子橋が誕生。飛鳥時代に仏教興隆の道をひらいた聖徳太子(574~622)と奈良時代に仏教を民衆の間に広めた行基(668~749)。古代史のビッグネーム2人の足跡が、旭区太子橋で交わりました。万博という祭りの後に産声をあげた新町名が足元の歴史を振り返ったのは、時代の風の移り変わりを物語る出来事だったようにも思えます。
ちなみに行基ゆかりの高瀬は旭区の隣りの守口市の町名に残り、高瀬橋は現在の豊里大橋の上流にあったと推定されています。豊里大橋の河川敷はかつての天王寺庄村だったエリアです。
行基の古寺に白いハンカチを
ここから話題を太子から行基に移します。行基は各地の寺院建立、橋や道、溜池の整備を通して民衆への布教に尽くした名僧。東大寺の大仏造営にも協力して大僧正となり、生前から菩薩と呼ばれ、平安時代には聖徳太子と並んで日本仏教の祖師と仰がれました。
行基は、この連載第3回で登場した「咲くやこの花」の歌を詠んだ王仁(わに)の子孫で堺の生まれです。JR阪和線津久野駅近くにある家原寺(堺市西区)は、行基が自分の生家を寺院としたもの。これが生涯をかけた布教の始まりで、家原寺ができたのは慶雲元年(704)、行基37歳の時でした。本尊の文殊菩薩は行基の自作と伝えます。所在地の家原町はもちろん家原寺にちなむ町名です。
今、家原寺を訪ねると、本堂を覆うようにしてぺたぺた貼られた白いハンカチに目をひかれます⑨。ハンカチには「合格お願い!」「今年こそ!」などの言葉がびっしり。知恵の象徴である本尊の文殊菩薩にあやかっての合格祈願です。以前は壁や柱に願い事を記したので落書き寺とも呼ばれたのですが、今は祈願ハンカチで有名に。
歴史が長く、衰微した時代もあった家原寺はしばらく高野山真言宗に属していましたが、行基誕生から1350年を経た平成30年(2018)、念願かなって行基宗を創設し、その本山となりました。平成元年(1989)には三重塔も再建していて⑩、境内は改修と整備が継続中。行基菩薩誕生塚の石碑⑪が存在感を示しています。
土と6万枚の瓦でできた塔
家原寺町の東にある土塔町は、堺市中区の町名です。由来は行基とその弟子たちが作った十三重の土塔(どとう)。十三重というと空に伸びる高塔を想像しますが、行基の土塔は土と粘土の壇に瓦をのせたもので、目にした第一印象は階段になったピラミッド⑫。近づくにつれ、瓦葺きの檀が重なる姿の細部があらわれ、まさしく土で築いた塔なのだとわかります。まわりをめぐると発掘調査の成果を伝える解説板が点々とあり⑬、土塔には6万枚を超える瓦が使われ、その多くに人名が記されていたとのこと。土塔の築造に大勢の人々が関わったのが伺えます。
道路をはさんで向かいに行基がひらいた大野寺が建っています。同寺の由来書によると、土塔は大野寺の仏塔でした⑭。現在、土塔は国の史跡で、周辺はオープンスペースの土塔町公園。地元の町名は土塔町。土と粘土と瓦の塔が、古代を身近に感じさせてくれます。
御堂筋にも行基の寺
先述の東大寺の大仏造営を望んだのは聖武天皇です。大事業をすすめるにあたって行基の力を借りた聖武天皇は、大阪にも寺院の建立を命じました。
心斎橋の大丸百貨店前から御堂筋を南へぶらぶら歩いて数分、左手にひときわ目につく白い壁。その角を曲がると寺の山門があらわれます⑮。その名は三津寺。行基開創の大福院が前身で、行基作の十一面観音を本尊とする古寺ですが、現在の通称はみってらさん、あるいはミナミの観音さん。民衆への布教を志した行基がひらいた寺らしく呼び名にも親しみがこもっています。
行基の名がそのまま寺の名になった例もあります。枚方市の町名の釈尊寺町は、京阪交野線郡津駅近くの釈尊寺に由来しますが、この寺のもとの名は行基寺でした。開創者はもちろん行基です。後に宋から伝来の釈迦如来像を本尊として有名になり、平安時代には釈尊寺と改められました。
東淀川区の崇禅寺は阪急京都線崇禅寺駅近くにあり、天平年間に行基がひらいたのが始まりとされます。本尊は最澄作と伝える釈迦如来像。後に室町幕府の6代将軍足利義教の菩提所となって栄え、細川ガラシャの墓所としても有名になりました。江戸時代には浄瑠璃「敵討崇禅寺馬場」の舞台になり、ますます名所の名を高めます。行基ゆかりの寺のたどった道はさまざまです。
行基ゆかりの地名
大阪メトロ都島駅がある善源寺町⑯はもと善源寺村で、中世は善源寺荘。名前の由来は善源寺という寺でした。この寺は津守郷(西成区・浪速区にあった地名)に行基がひらいた善源院(尼院)が当地に移転したもので、明治時代に廃されたとのこと。隣りの町名の城北善源寺は城北村がルーツです。
北大阪急行緑地公園駅前にある豊中市の町名の寺内(てらうち)は、発掘調査で瓦などが発見された古代の石蓮寺(せきれんじ)にちなむ地名。石蓮寺は行基開創で、千軒寺とも呼ばれるほど多くの坊舎があったとの伝承があります。その坊舎のひとつが寺内小学校近くの観音寺とされ、同寺は「行基菩薩開創」「行基作と伝える観音像が安置されている」と案内板を掲げています。