• その20

仏地名は難波(なにわ)から大坂、大阪へ【後編】 ―広まる・交わる・伝えあう― 2022年11月14日

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法円坂の法案寺、日本橋の聖天さんになる

⑱法円坂町【現在の町名は法円坂】(中央下)大阪都市計画街路及土地区画整理事業計画区域図・昭和39年(1964)大阪市区画整理局 ⑲今では日本橋の聖天さんと親しまれる法案寺

 【後編】の最初に登場するのは大阪市中央区の町名、法円坂⑱です。そこには古代の都の難波宮跡があり、中世の大坂本願寺門前町の記憶が継がれ、近世の商都繁栄を象徴する大阪城が健在です。難波から大坂、大阪へ。法円坂から歴史のパノラマが見渡せます。
 法円坂の名は聖徳太子の創建と伝える法案寺にちなみます⑲。寺の名はここで仏法弘通(ぶっぽうぐつう)の公案を行ったのに由来するといわれます。仏法弘通は仏教を世に広めること。公案は難問に向きあう修行です。法円坂は大阪という街が産声をあげ、仏教という新文化が育まれた揺りかごのような地でした。
 法円坂は今も残る地名です。法案寺も健在ですが、場所を2度替えました。最初の移転は豊臣秀吉の城下町建設の時で、同じく法円坂にあった生玉神社とともに谷町の地に移され、生玉南坊と呼ばれる神宮寺(神社に属する寺)になりました。仏法の伝来以後、神仏が交差してきた歴史の1ページです。
 生玉南坊は数ある生玉神宮寺の筆頭として栄えましたが、明治時代の神仏分離政策で、現在地の島之内に移転。戦中の空襲で焼失後、復興をとげます。現在の法案寺は道頓堀川に架かる日本橋北側の繁華街にあり、日本橋の聖天さんと呼ばれています。聖天さんは本堂に祀られている大聖歓喜天の通称です。

まだある太子ゆかりの寺

⑳静かな住宅街に佇む舎利尊勝寺 ㉑聖徳太子と仏舎利の言い伝えを記した舎利尊勝寺の案内板

 法円坂の話にも聖徳太子が登場し、話が【前編】の続きのようになりました。【前編】で漏れた太子ゆかりの寺もあり、ここで一気に紹介します。
 下の太子と呼ばれた大聖勝軍寺がある八尾市には、他にも太子がひらいた寺があります。近鉄高安駅にほど近い教興寺は、所在地の町名も教興寺。物部守屋に戦勝した太子が、四天王寺と同時期に建立しました。鎌倉時代に西大寺(奈良)の高僧永尊が再興し、蒙古襲来の時には異国降伏の祈祷を当寺で行いました。江戸時代には近松門左衛門が一時期寄宿したとの逸話でも知られています。
 同じく八尾市にあった久宝寺も太子建立の寺でした。明治時代の神仏分離令で廃寺になりましたが、町名の久宝寺をはじめ久宝寺緑地、久宝寺駅があり、中世以来の歴史的町並みの面影が残る久宝寺寺内町(じないまち)に、その名が継がれています。寺内町とは戦国時代の各地に築かれ、主に浄土真宗寺院を中心に自治が行われた町の呼び名です。
 さらに挙げると、百済から伝来して安彦の一族に祀られていた観音像を本尊として太子が建立した大聖観音寺(通称はあびこ観音・住吉区我孫子)、本尊の十一面観音像が太子の作と伝えられる長栄寺(東大阪市高井田元町)など多彩。また、泉佐野市の檀波羅公園は檀波羅蜜寺(だんはらみつじ)の遺跡発掘地で、かつて檀波羅蜜村がありましたが、この檀波羅蜜寺も聖徳太子の開創と伝えられています。檀波羅蜜(だんはらみつ)とは仏教用語で、布施(ふせ)を行って悟りに至る道。布施とは自分を分け与えること。先述の長栄寺の所在地は昭和42年(1967)まで布施市(現・東大阪市)の町でした。
 生野区の町名の舎利寺は舎利尊勝寺に由来⑳㉑。この寺には聖徳太子が口のきけない子供に仏舎利(釈迦の遺骨)を吐き出させ、言葉を話せるようにしたとの伝承があります。仏舎利は3粒あって、四天王寺、法隆寺、舎利尊勝寺に1粒ずつ祀られたとのこと。
 天王寺区の町名の六万体も聖徳太子にまつわる伝承にちなみます。六万体とは太子が作った地蔵像の数。夕陽丘町にある四天王寺支院の真光院は太子が開創。六万体の地蔵が祀られたとされ、現在の境内には六万体地蔵と呼ばれる大きな地蔵像が建っています。

四天王寺と寺町の風景

㉒四天王寺といえば昔も今も五重塔 ㉓寺町の名物坂のひとつ、源聖寺坂

 やっと四天王寺の名前が出ました。太子が大阪に建立した寺で最も有名な四天王寺は、所在地の町名も四天王寺㉒。太子の遺志を継ぐ和宗の総本山であり、天王寺さんの通称でも愛され、天王寺区をはじめJR天王寺駅や大阪メトロの天王寺駅・四天王寺前夕陽ケ丘駅、天王寺公園、天王寺動物園などの命名由来となった大名所。【前編】の太子町で幕を開けた大阪の仏地名の話は、ここに至って、聖徳太子の存在の大きさがずしんと重量感をともなって伝わってきます。
 四天王寺の周辺には、寺町と呼ばれる寺院密集地があります。町名でいうと生玉寺町・下寺町・城南寺町(天王寺区)、中寺(中央区)の一帯ですが、生玉町・生玉前町などにも寺院が連なり、規模は全国最大ともいわれています。
 寺町は豊臣秀吉が城下町建設時に寺院を一箇所に集め、いざという時の防衛線にしたといわれます。北区の大阪天満宮の北側にも秀吉は寺町をつくりました。町名でいうと与力町・同心町を中心とするエリアで、歩くと今でも寺院が東西に並んでいる風景が見られます。
 四天王寺周辺の寺町には七坂と呼ばれる名所もあり、そのうち寺にまつわる名の坂は、真言坂(真言宗寺院が集まっていたのにちなむ)、源聖寺坂(源聖寺にちなむ)㉓、愛染坂(勝鬘院愛染堂にちなむ)、清水坂(清水寺にちなむ)の4つです。寺町の七坂に神地名の天神坂(第9回【後編】参照)がひとつ入っているのも面白いですね。
 坂の風景は、法円坂から続いています。難波宮・大坂本願寺の跡と大阪城がある上町台地北端から七坂を経て、大阪市の中心部を貫いていたのです。

寺山と寺の字のつく3町名

㉔寺山町(中央下)内久宝寺町・竜造寺町・安堂寺町(下)大阪市区分地図・昭和27年(1952)栄進社

 「うちの近所の寺山公園の由来を教えて」と、これは法円坂にお住いの散歩好きさんからの声。寺山公園は法円坂1丁目の難波宮跡公園の東南にあり、歩いていると、近くに内久宝寺町、竜造寺町、安堂寺町という寺の1字のつく3町名が並んでいるというのです。何かありそうですね。
 寺山公園は中央区上町にあります。上町は昭和54年(1979)にいくつかの町名が合併してできた新町名。なくなった旧町名のひとつが寺山町でした㉔。中央区役所が地元に建てた「旧町名継承碑」の碑文によると寺山町の「町名は、この地域がもと一帯の高地で小山を形成しており、南方一帯に寺院の集中する寺町であったことに由来すると思われる。」と記されています。地図中には寺山町の北に寺町という町名が載っていますが、文中の寺町は先ほど紹介した四天王周辺に寺院が密集する寺町のことですね。
 寺の1字のつく3町名の由来にも触れておきます。内久宝寺町は船場の北久宝寺町・南久宝寺町と東横堀川を隔てた隣接地をあらわし、「内」は大坂城の域内の意味。「久宝寺」は地元にあった寺の名とも、八尾の久宝寺村(【前編】参照)から多くの人が移り住んだのにちなむともいわれます。竜造寺町は豊臣時代に大名の竜造寺氏の屋敷があったのに由来する町名で寺院とは無関係。安堂寺町は『日本書紀』に登場する海人(あま)の阿曇(あずみ)氏の氏寺だった阿曇寺(あずみでら・あどんじ)が地名由来といわれます。

六万という数字の響き

㉕東大阪市六万寺(右下)阪府近郊地図・昭和27年頃(1952)朝日新聞社

 「六万寺町って六万体と関係あるん?」という声は東大阪市方面からのつぶやき。地元の六万寺町には六万寺㉕という寺もあって、【後編】の初めに登場した聖徳太子ゆかりの天王寺区六万体を連想されたのでしょう。
 六万寺も歴史が古く、『日本書紀』によると起源は仏教伝来の時代にさかのぼります。崇峻天皇3年(590年)に日本最初の尼僧の一人だった善信尼が百済留学から帰国し、桜井寺に入りました。桜井寺は天平17年(745)行基によって再興され、聖武天皇に厚く崇敬されて隆盛。その後も宇多天皇による伽藍の整備がありました。南北朝期には楠木正行の本陣となり、兵火で焼失。その後も江戸時代の復興、明治期の衰退、戦後の復興と盛衰を繰り返して、現在は境内に楠木正行の墓と楠木正成の供養塔があり、桜井寺以来の由緒を誇る古寺として知られています。
 桜井寺の跡地に行基が開いた寺がなぜ六万寺と名づけられたかは不詳ですが、太子が六万体の地蔵を作った伝承を意識した命名の可能性はあると思います。六万という数字が釈迦の最初の説法地となった鹿野苑(ろくやおん)に響きが通じているのも、もしかしたら理由のひとつかもしれません。一帯は六万寺山と呼ばれる小高い山で、現在の境内に建つ観音像の正面にあべのハルカスが見えます。六万寺の観音は四天王寺の方向を向いているのです。

どちらの太平寺ですか?

㉖堺市太平寺(右中)大阪府近郊地図・昭和27年頃(1952)朝日新聞社

 「時々、間違えられるんやけど」とぼやく声は、柏原市、堺市、東大阪市から。この3つの街にはそれぞれ太平寺という町名があり、いずれも地元の寺院が命名由来。確かにややこしい。寺のつく地名は数が多く、こんなケースも出てくるのですね。
 柏原市の太平寺は近鉄大阪線の安堂駅前の町名。『日本書紀』の続編『続日本記』に度々登場する智識寺があった地で、ルーツは行基が開創した太平寺。一帯の丘陵には太平寺古墳群もあります。堺市の西区太平寺㉖は泉北ニュータウンに属する町名で、やはり行基が開創した太平寺にちなみ、度々再建を繰り返した太平寺が真言宗寺院として健在です。
 東大阪市の町名にも戦国期から続く太平寺がありますが、由来とされる太平寺はなくなり、詳細は不明。最寄りは近鉄大阪線の長瀬駅です。
 3市の太平寺の間のつながりは謎。なお、東大阪市太平寺の隣りにある寺前町は、岸田堂という寺の門前だったのが町名由来。岸田堂とは聖徳太子の叔母の推古天皇が創建した長楽寺の異称。この寺は明治時代に廃され、神戸市中山寺通に移された建物・仏像も戦災で焼失したとのこと。

町名か、横丁名か

㉗柏原市法善寺・太平寺(中央上)大阪府近郊地図・昭和27年頃(1952)朝日新聞社 ㉘いつもと同じ、善の字が一本足りない法善寺横丁の看板

 「間違えやすいというか、かえって覚えやすいというか……」とつぶやく声は柏原市から聞こえてきました。
 柏原市の法善寺㉗と中央区の法善寺横丁。夫婦善哉、水掛け不動で有名な横丁を連想するので、柏原市の町名の法善寺は確かに覚えやすそう。町内にある近鉄大阪線の駅名も法善寺駅です。町名由来の法善寺は8世紀後期の創建。大寺でしたが焼失し、跡地の法善寺1丁目に今は雷封じの観音の伝説で知られる壺井寺が建っています。ちなみに先述の柏原市太平寺は法善寺駅から南へ約1キロの近さです。
 一方、ミナミの賑わいの一角を占める法善寺横丁㉘は、もともと法善寺の境内でした。名物店が並ぶ界隈になってからは法善寺路地、法善寺裏などと呼ばれ、織田作之助の小説『夫婦善哉』の舞台になり、流行歌にも唄われて名所になりました。そもそも法善寺は宇治にあった寺で、寛永14年(1637)に現在地に移転し、千日念仏を行ったのが評判となり、千日寺、千日前の呼び名が広まって、繁華街の千日前の起源にもなっていきます。街と人の足跡が点々と連なる風景の中を今、私たちは歩いています。

伝法からのレポート

㉙船の舳を持つ鴉宮の社殿が伝法の港の歴史を物語る ㉚伝法川跡の石碑。背景は鴉宮 ㉛船寺として創建されたという伝法山西念寺

 ここで残念なお知らせです。大阪の仏地名はまだありますが、連載第10回【後編】もそろそろお別れの時がやって参りました。【前編】と併せて予定のボリュームをすでにかなりオーバーしていますので、あしからずご了承ください。
 というわけで、今回のエンディングを飾る仏地名……それは伝法です!
 伝法とは仏法の伝来を意味します。それは歴史を揺るがす力にもなりました。伝法という大阪の地名は歴史的大事件の証人でもあります。
 伝法は此花区の町名です。淀川と正蓮寺川にはさまれ、阪神なんば線が通って伝法駅があり、伝法大橋、新伝法大橋で対岸と結ばれています。古代には大阪湾に抱かれた砂洲だったエリアで、聖徳太子の祖父にあたる欽明天皇の時代に仏教の経文が初めて着岸した地だったとされます。
 地元の鎮守として健保3年(1216)に創建された鴉宮(からすのみや)という神社があります㉙。その社伝には、百済から「我が国で始めて母なる仏教経論・仏像」が伝法島に着岸したと記されているとのこと。さらには経文の着岸地の古名を傳母頭(もりす)、鴉宮の旧称を傳母頭神社(もりすじんじゃ)とも。傳母頭の「傳」は伝の旧字。「母」は母なる仏教の意味。現在、烏宮の前を流れる正蓮寺川に架かる橋の名は森巣橋(もりすばし)で、その南詰は四貫島森巣(しかんじまもりす)商店街の賑わいに通じています。街の呼び名に古代の響きが受け継がれているのがわかります。
 森巣橋の近くには伝法川跡の石碑も建っています㉚。伝法川は戦後の埋め立てで大半が姿を消し、残りは船溜りになりました。鴉宮の社殿は船の舳を組み込んだ珍しい造りになっていて、伝法がかつて船運の拠点だったのを雄弁に物語っています。
 此花区伝法には、伝法山西念寺という寺もあります㉛。寺伝によれば、難波宮が開かれた大化元年(645)に船寺として開創され、別名を伝法官寺聖跡とも呼ばれて栄えたとのこと。船寺という呼び名には船運で栄えた伝法地域の人々の願いを感じます。菅原道真が訪れ、空海によって中興されるなどの事蹟を伝える由緒書きが境内にいくつも見られます。
 鴉宮と西念寺。伝法に残る神社は社殿を船で飾り、寺院は船寺の異名を残し、仏法伝来の記憶を今に伝えつつ、この地の物語を紡いできました。神も仏もいる伝法の街が水辺の風景とともにあるのも大阪らしい彩りです。

 仏地名の【後編】、いかがでしたか。【前編】と併せて、大阪は聖徳太子と行基の足跡を物語る地名の宝庫で、かつ神地名との交差点でもあり、その前に海と川が広がり、背景に山や丘が横たわっている、そういう土地柄なのだと、少しでも感じていただけたらうれしいです。よかったら、第9回の神地名の話【前編】【後編】もお読みください。すでに詠まれたという方は、思い出しながら今回の話とミックスしていただくと、街を見る目がまた変わってくるかもしれません。神仏をどう考えるかは人それぞれですが、地名の話は街の暮らしの味わい方のひとつとして、お楽しみください。紹介しきれなかった仏地名がかなり残っています。またの機会に触れたいと思います。

 最後に仏地名の集計です。大阪市中では天王寺区18箇所、中央区と此花区が10箇所、生野区7箇所、旭区6箇所。府下では太子町12箇所、堺市9箇所、八尾市8箇所、柏原市6箇所と続きます。紹介しきれなかった仏地名が多いので数字はあくまで暫定ですが、天王寺区と太子町が上位になり、聖徳太子の存在感の大きさをあらためて感じます。
 次回のテーマは島の地名。お楽しみに。