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大阪の干支えと地名エトセトラ【後編】 ―十二支トップ3、残るひとつの十二支地名は?― 2022年2月22日

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馬・鳥に続く3つめの地名とは?

 いよいよ発表! 午(馬)・酉(鳥)と並んでトップ3入りしたのは、辰(竜)でした! 十二支の中で唯一、想像上の存在の竜。上位にランクされたのは意外でしょうか。いえいえ、試しに実験。街なかの竜神の木、竜神の池、竜神の社や祠を見たこと、話に聞いたことがありますかと問えば、少なからぬ方の手があがるはず。昔から竜は水の神で、水害や旱魃に悩む人々に祀られてきました。天空をうねり、駆ける竜のイメージは、時に暴れる川の姿にもなぞられました。そんな記憶がいくつもの竜地名になっています。

泉が湧き、雨を降らせる竜地名

 「蘇我氏と空海ゆかりの竜の地名はここ」と名乗りをあげたのは富田林市の方。地元の竜泉寺を創建したのが蘇我馬子で、寺にあった池に住む悪い竜が馬子に諫められて消え去り、この池が涸れた時には空海が祈祷して清泉が湧いたとのこと。日本史の有名人2人が足跡を残した寺の背後の山は、その後も楠木正成が築いた竜泉寺城の跡地として『太平記』の舞台にもなり、竜泉の名は町名にもなって残っています。
 例えば高槻市にある金竜寺(こんりゅうじ)は、当地の池から竜女が出現したとの伝承が寺名の由来。茨木市の竜王山は雨乞いに霊験のある八大竜王にちなむ地名。交野市の竜王山には雨乞い祈願が行われた竜王社があります。茨木市と交野市に同名の山があり、それぞれによく似た由来があったわけです。では、次の話はどうでしょう。

2つの市をまたぐ竜地名の里

⑩龍間(地図中央左)「日本交通分県地図・大阪府 大正12年(1923)」毎日新聞社

 「雨乞い祈願に応えた竜がわが身を3つに裂いて雨を降らせたのはここ」と指をさすのは四條畷市の方。さされたのは竜尾寺(りゅうびじ)。空から落ちてきた竜の尾を祀ったのが命名由来とか。雨乞いの祈願者は行基とあって、話の展開にも迫力があります。
 「そうそう、龍間(たつま)という町名が今もこっちにあって……」とうなずくのは四條畷市のお隣の大東市の方。龍間⑩は竜の尾とともに降ってきた竜の胴を祀った竜間寺(たつまじ)、竜の頭を祀った竜光寺(りゅうこうじ)が建てられたとの逸話につながる地名。竜間寺は戦後に廃され、本尊が移された龍間寺観音堂が当地の称迎寺(しょうこうじ)に建っています。
 竜尾寺(りゅうびじ)、龍間(たつま)、竜間寺(たつまじ)、竜光寺(りゅうこうじ)、龍間寺観音堂と先ほどから竜・龍の字と、りゅう・たつの読み方が入り混じっていますが、誤記ではありません。前編で紹介の馬場町を「ばんばちょう」と読んだり、「ばばちょう」と読んだりするのと同じで、地名の表記や読み方には気まぐれなところがあって、そこがまた面白味ともいえます。
 2つの市にゆかりの地名を残したのは年若い竜で、命にそむいて雨を降らせたのを怒った竜王によって3つに裂かれたといいます。四條畷市、大東市の境には竜間峠などの古い地名もありました。人々のために身を犠牲にした心やさしい竜の伝説は数々の竜地名を生み落としたのです。

蘇我馬子と空海と南海の駅名と竜の華

 そこへ「竜神が町名、駅名にもなりました」と切り出したのは堺市の方。ずばり竜神という町名は、江戸時代の天明年間(1781~89)に出羽国(でわのくに)・善法寺(ぜんぽうじ)の僧が当地に来て竜神に祈り、「港を深くすべし」と口うつしに告げたのにちなみます。大和川の付替えで土砂が堆積していた堺港の修築が、寛政初年(1790)頃にはじまり、20年かけた工事の後に堺港は再生。新地も生まれて賑わいました。今も堺市に残る竜神橋の町名は、新地に架けられた橋の名に由来。明治になると阪堺鉄道(現南海本線)の竜神駅ができ、これが今の南海本線・堺駅のルーツ。堺駅は竜神駅の少し北側にでき、市街の西の中心地になっているのは竜神のご利益でしょうか。
 もうひとつ、八尾市から平野区、生野区を通って中央区の森ノ宮で寝屋川と合流する平野川の上流は、竜華川(りゅうげがわ)とも呼ばれていました。八尾市には竜華という町名があります。しばしば氾濫した暴れ川の名に竜の字がつく例は全国各地でみられますが、かつての平野川もたびたび出水して流域の村々を悩ませました。竜華川の竜は自然の威力への恐れ、華は安穏への願いがこもっている気がします。

たつたつみの間に

⑪生野区巽(地図右下の「矢柄」が巽の旧地名)「日本交通分県地図・大阪府 大正12年(1923)」毎日新聞社

 このへんで、竜と直接の関係がない竜地名について。中央区の竜造寺町(りゅうぞうじちょう)がそれで、ここは豊臣時代に戦国武将だった竜造寺氏が邸宅を構えた地。詳細のわからない竜地名もいくつかあって、北区の旧町名の竜田町(たつたちょう)は天満青物市場があった場所ですが、由来は不明。柏原市には古代の河内と大和をつないだ竜田越えの古道に竜田峠と竜田山があったと伝えられますが、位置は不明。守口市の竜田通は昭和生まれの町名ですが、これも由来不明です。
 竜地名のおしまいに、十二支としての辰(竜)の関連地名として巽(たつみ)にもふれておきましょう。辰巳とも書く巽は、東南の方位を示します。生野区の巽中・巽伊賀ケ町・巽大地町・巽四条町・巽矢柄町⑪は、文字通り大阪城の東南にあります。城東区の旧町名、巽町の由来も同じです。
 話のついでに巽の反対の方位は、乾(いぬい)で戌亥とも書きます。子・丑・虎・卯・辰・巳・午・未・申・酉・犬・亥の十二支は旧暦や時刻に用いられ、さらに方角も示す、時空を駆けるツールでした。十二支の動物たちはこうして暮らしのうつろいに深く溶け込んでいたのです。

希少十二支地名のオープニングは虎

⑫茨木市丑寅(地図下)『大阪近郊・大日本帝国陸地測量部 昭和2年(1927)』

 ここまで、数が多くて親しまれてきた十二支地名を挙げてきました。ここからは、数がたいへん少ない十二支地名を見ていきます。いわば希少種地名です。
 最初に挙げるのは虎。言うまでもなく今年の干支。日本に虎は生息していないので、虎地名が珍しいのは当然のようですが、想像の産物である竜が十二支地名のトップ3入りしているのを見ると、虎地名の不人気ぶりは不思議です。しかも、大阪には虎単独の地名はなく、他の干支とくっついた地名しかありません。
 「大阪の珍しい地名、難読地名に数えられるわりに放出(はなてん)、立売堀(いたちぼり)ほどに知られてないのはどうして」と、首をかしげる茨木市の方。地元をやきもきさせている(かもしれない)虎地名。本来ならこの連載の筆頭にとりあげられてしかるべき今年の干支地名といえば……。
 それは茨木市の丑寅(うしとら)⑫です。牛が合体しているので、牛地名の紹介に登場してもよかったのですが、大阪で唯一の現役虎地名としては、ぜひともここでメインステージに立ってもらわなくてはなりません。
 さて、丑寅とは何をさすのか。竜地名の話の末尾に辰巳(巽)は東南の方位を示すと書きました。丑寅も十二支で示した方位で、東北を意味します。どこから見て東北なのかというと、かつてこの地域にあった三宅城という城からです。そこは戦国時代に活躍した土豪の三宅氏の拠点でした。三宅城の最後の城主は三宅出羽守国村(みやけでわのかみくにむら)といいます。城跡にあった国村の碑は丑寅2丁目の現在地に移設され、知る人ぞ知る茨木市の史跡になっていますが、今後は珍しい現役虎地名の丑寅の町名とともにスポットライトを浴びてほしいものです。

地図でしか見られない希少種、ねずみ

⑬鼠島(地図中央左)『大大阪市街最新地図 大正14年(1925)』大阪時事新報社

 次の希少種地名は鼠。十二支の最初の子にあたる動物ですが、現在の大阪府に鼠が付く地名は見つからず、今はなくなった旧地名でようやくひとつ、ありました。その地も、今では確かな位置を特定するのが難しくなっています。なぜなら、そこは中津川という消滅した川の中の小さな島でした。
 その島の名が鼠島⑬です。中津川は治水のための淀川の大改修でできた新淀川筋に飲みこまれました。鼠島は水運のために残された中津運河に残りました。中島陽二「ある小さな島(鼠島)の生涯」(『大阪春秋』第88号所収)によると、もとは江戸時代から人が住み、畑もあった島でしたが、明治になってコレラ対策の避難院・消毒所が建ちました。大阪では江戸時代後期から度々コレラが流行し、感染拡大を防ぐために市街地と川を隔てた鼠島が、利用されたのです。
 新淀川ができてからは船運の関所の役目を果たし、戦後の住宅困窮期には一時避難の地になります。中津運河は昭和48年(1973)に埋め立てられ、鼠島は陸続きになって、もとの形もわからなくなりました。位置は現在の福島区と此花区の境界にあたり、広さは約5万㎡だったといいます。一時期の鼠島がコレラの感染拡大を防ぐ役目を担ったという逸話に、コロナ禍中の令和4年(2022)2月現在、遠い昔の話とは思えないリアルさを感じます。

全国レベルでも希少な羊地名

公園の端にちょこんと佇む羊の像。羊といわれないと気付かないほど年季の入った古ぼけ方に、しばし見惚れる 公園の端にちょこんと佇む羊の像。羊といわれないと気付かないほど年季の入った古ぼけ方に、しばし見惚れる

 次に登場する希少十二支地名は羊のつく地名です。いざ探してみると『角川日本地名大辞典27 大阪府』(全1798頁)には、羊および未の1文字を含む地名(町名、主な寺社・山・川・道などの名)は載っていませんでした。対象を全国に広げてネット検索すると、現在の町名には見当たらず、ごくわずか未のつく旧町名があったらしい、としかわかりませんでした。
 思案にくれて、あきらめかけていたところ、ひょいと見つかったのが岸和田市上松町にある羊公園です。名前のとおり、羊の像がシンボル。近所の子供たちのちょうどいい遊び場というのどかさがあふれ、ここが現役の希少十二支地名の非常に貴重な実例で、もしかしたら大阪で唯一無二の羊地名かもしれないとの気負いはどこにも感じられません。岸和田市のホームページには正式名称の上松台東第1公園で載っていて、羊公園は通称というのも奥ゆかしい。完成が昭和47年(1972)で、誕生から50年目にしてようやくその存在の真価が語られ、公園の羊もきっと喜んでいると思います。

地名に宿る太古からのストーリー

 大阪の十二支地名トップ3と希少地名3(前編・後編)、いかがでしたか。今回のまとめの代わりに、著者からひと言。
 水鳥地名と竜地名が多いのは、海と川と縁が深い大阪ならではの現象です。ここで話をうんと広げると現在の鳥類のルーツは恐竜から進化した始祖鳥だそうで、水辺を恐竜がのし歩き、空に始祖鳥が舞う光景が太古の大阪のイメージとして浮かびます。地殻変動で海底から隆起して現れた上町台地が大阪市街をつらぬく背骨になったという地形の歴史はご存じの方が多いと思います。その上に生き物たちの歴史が積み重なり、海と川に彩られた人の暮らしが築かれ、地名にも個性が刻まれてきたわけです。
 なんと壮大な海と地と空と生き物と人のストーリーではありませんか。

「大阪の地名に聞いてみた」第1回(前編・後編)はこれにておしまい。

【次回予告】
大阪は動物地名のパラダイス。十二支地名の残り6つに、十二支地名に入らなかった動物地名を加えてお送りします。
※この連載は毎月1回更新の予定です。