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続・干支えと地名エトセトラ&その他の動物地名バラエティ【後編】 ―熊は熊でも……亀は亀でも……― 2022年3月14日

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干支以外動物地名は熊から

⑧マンホールになった熊野街道。住吉区にありました

 これまでとりあげてきた干支地名の他にも、もちろん動物にちなむ地名はあります。なかでも目立つ動物が熊! 驚くことはありません。大阪でも高槻市や島本町の山間部には熊がいて、箕面市ではツキノワグマの目撃談もあるそうです。といっても、早合点は禁物。大阪の熊地名は、そこが熊の生息地であることを必ずしも意味しません
 大阪地名の熊は同じ熊でも熊野の熊。京の都の伏見から淀川を船で下り、大坂の八軒家の浜で降りると、そこは熊野街道のはじまりの地⑧。後は南へ一路、徒歩で紀州の熊野三宮をめざす街道の名から熊の字をとったのです。平安時代に大流行し、江戸時代にも知られていた熊野参詣ゆかりの地に、熊の字がつく地名が点在しています。4つの熊地名がこうして生れました。北から順番に紹介します。

熊野をめざす熊地名

⑨豊中市の熊野田村(地図左上)「地形図(伊丹・豊中)」昭和7年(1932)・大日本帝国陸地測量部

 豊中市の熊野町のもとの名は熊野田⑨で、さらに古くは熊野代(くまんだい)でした。平安時代に花山上皇が、紀州の熊野と地形が似ている当地に寺を建立し、熊野代寺(くまんだいじ)と呼んだのちなむ地名です。寺は熊野三山を模して建てられました。熊野三山とは熊野本宮(ほんぐう)大社・熊野速玉(はやたま)大社・熊野那智(なち)大社の総称で、熊野信仰の中心にして全国の熊野神社の総本社。現在の宝珠寺が熊野代寺の後身で、山号は熊野代山です。同寺に近接する八坂神社には熊野権現社が座しています。昭和の初めまで熊野田村があり、以後は熊野町に改名。熊野街道の道筋ではないのですが、熊野との縁は深いものがあります。
 熊野町は堺市にもあります。江戸時代にあった湯屋町が、明治5年(1872)に周辺の町を編入し、熊野町と改めました。当地に熊野神社があったのが新町名の由来です。堺市には2つの王子社(熊野参詣者が立ち寄る神社)があるのに加え、菩提と甲斐町の2町にも熊野神社があります。堺市は大阪から続く熊野街道の通り道です。
 大阪狭山市の今熊は、江戸時代の今熊村が前身。村名は当地にあった金蔵寺の鎮守が今熊野と呼ばれたのに由来。今熊野とは今の新しい熊野を意味します。同寺の鎮守が現在の三都神社で、堺から天野街道を通って熊野三山に向かう道筋にあり、熊野三所権現を祀ることから熊野神社とも呼ばれました。金蔵寺は明治に廃されています。
 泉南市の金熊寺(きんゆうじ)は、役行者が勧請した金峯(きんぶ)・熊野の2神の名にちなむ命名。金熊寺の門前に金熊寺村ができ、当地の梅林は金熊寺梅渓と呼ばれて風流を愛する人々が来遊しました。村の鎮守の信竜(しんだち)神社も、もとの名は金熊大権現です。金熊寺は明治半ば以後も大字の地名として残ります。梅林は今でも観梅の名所です。

羽白熊鷲と熊取町をつなぐもの

 「ここは町がそのまま熊地名」と、ここで声が届きました。泉南郡熊取町からです。ここまで登場した4つが熊野街道にちなむ地名だったのに対して、熊取町は異なる由来を持っています。
 住吉大社に残る古い文献に、熊取はまず登場します。はるか昔、神功皇后が敵対する豪族の羽白熊鷲(はじろくまわし)を討ち取った地を熊取と呼んだというのです。しかし、羽白熊鷲は熊襲(くまそ)の人で、戦いの場は九州ですから、この逸話を大阪府の自治体の地名由来とするには情報が足りません。一方で、倒した敵の名の1字を地名に残し、その力を国土に取り込もうとする意志が熊取という地名にこめられたとの想像はできるでしょう。羽白熊鷲は強健で翼があり高く飛んだと『日本書紀』に記された超人でした。神功皇后は戦いの勝利者で、後に住吉大社を創祀しました。熊取の名づけは、この時に行われたのかもしれません。
 熊野三山、熊野街道、羽白熊鷲にみられるように、熊には大自然の力と自然を超えた力の両方のイメージがあります。5つの熊地名を通して、なかなかに興味深い大阪の熊事情が浮かんできます。

甲羅干しする亀地名

⑩大阪狭山市、亀の甲の交差点は今日も甲羅干し日和。梢の向こうは史跡の狭山池

 熊の次は、大阪の水辺でおなじみの亀の出番です。
 柏原市の亀ノ瀬峡谷は、亀瀬橋の上流にある亀瀬岩をはじめ亀の形の岩がいくつか見られるのにちなむ地名。一帯は過去に多くの地すべりがあり、旅の関所ともいわれてきました。今、亀ノ瀬といえば、大阪と奈良を結んだ龍田古道と併せて日本遺産に認定された史跡です。地すべりで埋もれていた亀ノ瀬トンネルは人々が災害を乗り越えてきた歴史の足跡として一般公開中。亀尽くしの地名は、甲羅に守られた亀にあやかりたい道中安全の願いのあらわれだったと思えます。
 大阪狭山市の亀の甲は、国指定の史跡の狭山池に隣接する小高い場所の古い呼び名でした。町名にはならず、今は交差点の名で残っています⑩。亀の甲とは、甲羅干しする亀の姿を思わせるところから付いた名前といわれます。大阪狭山市がある南河内が雨の少ない、乾燥しやすい土地柄なのが、地名にも反映されているわけです。そういえば、亀の甲の目の前に横たわる狭山池も、灌漑用水の確保のために推古天皇の時代に造営された巨大なため池でした。
 八尾市の亀井は、亀井という名の清井(良い水の湧き出る所)に由来する地名。八尾市には、弥生時代の土器、石器、貨泉(かせん)が出土した亀井遺跡もあります。貨泉(かせん)は古代中国で鋳造された銅銭で、貨泉の2字が記されたもの。偶然とはいえ、亀はどうも水と縁がつながるようです。
 「こっちにあるのは亀井町」と、ここで大阪市中央区の方から声がかかりました。そうでした。中央区の亀地名は、亀井ではなく亀井町。江戸時代に津和野藩の藩主亀井氏の屋敷があったので、この町名になりました。今は平野町に改名しています。おまけの亀話をひとつ。亀井氏の津和野藩は大阪に蔵屋敷を持っていました。今の西区江戸堀の一角です。敷地内の井戸の水が、維新にともない大阪に行幸された明治天皇に献上され、賜ったのが「此花乃井」の名。亀井と花乃井。亀と井戸水の奇縁です。今、蔵屋敷の跡地に、その名を継いだ花乃井中学校が建っています。

魚屋と魚ノ店の地名

 大阪湾に抱かれた大阪に、魚地名が現れるのは自然のなりゆき。江戸時代には魚屋にまつわる地名があちらこちらにありました。魚介を扱う市が街を賑わせていたのです。
 そのひとつ、上魚屋町(かみうおやまち)は今の大阪市街の中心部とエリアが重なる江戸時代の大坂三郷北組の町名でした。豊臣時代に生魚の商人が当地に移住したのが地名の由来。現在は中央区安土町・安堂寺町町通と改名しています。
 大坂三郷天満組には、新魚屋町から魚屋町へと変遷した町名がありました。天満宮の裏門から南に続く界隈で、今の北区南森町にあたります。
 同じ北区にある天満・東天満・松ヶ枝町の3町名のもとは岩井町で、さらにその前は魚屋町でした。現在の市街地図を見ると、もとは魚屋町だった南森町・天満・東天満・松ヶ枝町が天満宮を囲むようにして並んでいます。地名の変遷を知れば、同じ市街地図が違った目で眺められることでしょう。
 堺市には江戸時代に魚ノ店東半町(うおのたなひがしはんちょう)がありました。魚を扱う店が集まる界隈で、今の町名は宿院町・宿院東町・中之町・中之町東。一帯は旧市街の中心でした。魚ノ店東半町はなくなりましたが、市内には南半町東・南半町西、北半町東・北半町西という町名が残っています。
 ここで岸和田市の方から着信が入りました。続いて「魚屋町なら、こっちにちゃんと残ってる」とのメッセージ。岸和田城の近くにある魚屋町の命名由来は、魚ノ棚川の両岸にあった魚棚とのこと。魚ノ棚川は後に古城川(こじょうがわ)と呼ばれるようになりました。現在は古城川のほとんどが暗渠になり、面影をとどめる古城川緑道が城下町情緒を伝えています。川に架かっていた欄干橋も復元されました。この橋のかつての通称が魚屋町橋だったのも、漁港のある浜を持つ岸和田の土地柄が出ています。

魚介地名余話

⑪商店会の名に残った中央区の鰻谷。現在の町名は東心斎橋

 岸和田市にある天性寺は、蛸地蔵と通称される地蔵菩薩の本尊で知られます。由来は戦いで攻められた岸和田城を蛸が救ったとの伝承。岸和田では昔から飯蛸漁が行われ、南海本線には蛸地蔵駅があります。地元の伝承と名物が寺名や駅名になって親しまれているのは、なかなかいい風景です。
 大阪にかつて鯰江町(なまずえちょう)という独立した自治体がありました。前身が鯰江村で、淀川と寝屋川にはさまれた湿地の排水のために開削された鯰江川が真ん中を流れたのが村名の由来。鯰江からは鯰の棲む入江を連想します。鯰江町の町域は、今の城東区蒲生(がもう)、東大阪市新喜多(しぎた)を合わせたエリアでした。
 中央区の鰻谷⑪は、一帯が谷筋の地形だったのが命名に関わりがあったとも言われます。詳しくは不明ですが、鰻の棲み処だったかもしれません。一時はいなくなったともいわれましたが、大阪市中の川にはかつて鰻は珍しくなかったと、古老が語るのを聞きました。今も鰻は調査で生息が確認されています。
 福島区の海老江は昔、海老洲(えびす)と呼ばれた島でした。なぜ海老なのかは不明。海老洲は戎に通じ、戎神を意味したのでしょうか。戎神社があれば、裏付けのひとつになるかもしれませんが、海老江にあるのは八坂神社でした。もし、海老江が海老にちなんだ命名とすると、大阪に多い島地名としては珍しい魚介由来の命名になります。
 茨木市の鮎川は安威川(あいがわ)の流域にある地名です。由来ははっきりしませんが、古くは「あいかわ」「あいがわ」とも呼ばれたとのこと。「あゆかわ」は安威川が訛ったとも思われますが、鮎は古くは「あい」とも呼ばれ、「日本書紀」の時代にはアユといえばナマズを意味したそうで、話は簡単ではありません。地名の世界はなんとも奥が深いです。

ミステリアスな希少種、猫

⑫猫間川(地図中央)「最新大大阪市街全図」昭和4年(1929)和楽路屋

 犬地名はすでにいくつも紹介しました。猫は、となるとひとつしか挙げられないのが不思議です。猫は犬とともに古くから人の暮らしに身近だったのに、いったいどうしたことでしょう。しかも、その猫地名の風景は、もう見えるところにはありません。
 今や隠れた猫地名となった、その名は、猫間川です!
 阿倍野区に発し、北を向いて流れた猫間川は、最後に平野川に合流。短く狭い川でしたが、城の東を守る堀の役目を果たしていました。幕末には浚渫工事で川幅が広がり、堤には桜が植えられて、記念の石碑が玉造神社に建ちました。大坂の陣では城内に物資を運ぶ水路にもなった猫間川。大坂城の鎮守で、豊臣秀頼とゆかりが深い玉造神社に、その碑は今も残っています。
 昭和の工事で猫間川は暗渠になりました。川筋は道路の下に隠れ、もはや古地図の中でしか見られない猫間川。その名の由来については、高麗川(こまがわ)が訛った、もとは寝駒(ねこま)川と書いたなど諸説ありますが、真相は不明。なんともミステリアスなところが猫らしいとはいえます。
 このブログのトップページ「大阪の地名に聞きました」の脇にも、猫間川の碑が描かれています(題字・画/奈路道程)。今も大阪城の東のねきで生き続ける猫地名が看板猫になって、この連載を見守っています。第2回の掲載は早春。もうしばらく経つとJR環状線寺田町駅の近くにある猫間川公園の桜が開きます。
 さて、猫の話題の最後に、ネコ科の地名をひとつ紹介しておきましょう。交野市にある獅子窟寺(ししくつじ)です。大きくひらいた獅子の口の形をした巨石が寺の境内にあり、昔その石に座して役行者や空海が修法を行ったとのこと。百獣の王ともいわれる獅子らしく、言い伝えにも迫力があります。

いたちが語る古代から昭和まで

⑬浪速郵便局の前。鼬川くり船発掘の地碑、どこにあるか見えますか? ⑭鼬川くり船発掘の地碑はここ!

 南海難波駅の南の浪速郵便局(難波中3丁目)の前⑬⑭、行き交う人は多いのに、その碑が建っているのに誰もが気づかず通り過ぎてしまう。いつもの風景。ここに来ると、決して小さくないのに目立たないその碑に、つい見入ってしまいます。
 知る人ぞ知る、その碑には、こう刻まれています。
 鼬川くり船発掘の地
 鼬川(いたちがわ)は浪速区木津町から西に流れ、木津川に合流した川で、名前については、四天王寺建立の時に多くの鼬が現れ、材木を運ぶための運河を掘ったのにちなむと言い伝えられます。延暦7年(788)に和気清麻呂(わけのきよまろ)が開削を試みて失敗した運河の跡とする説もありましたが、史実としては疑問が多いようで、鼬川の由来は謎に包まれています。鼬は、狐、狸などと同じく人里の近くにいて、さまざまな伝説でその妖しい力が語られてきた動物です。
 時を経て明治時代、鼬川は一躍注目を浴びました。鼬川くり船発祥の地の碑が建ったのは、次のような経緯によります。
明治11年(1878)に難波新川との開通工事の時に、古代のくり船が発掘されました。丸太をくり抜いたシンプルな造りなので、くり船。海と川が入り組んだ古代の難波を人々は小船を操り、自在に行きかっていたのです。昭和55年(1980)まで当地にあった船出町という町名は、この発掘にちなんだものでした。鼬川は昭和15年(1940)から埋め立てがはじまり、姿を消しました。

「大阪の地名に聞いてみた・第2回」【前編・後編】、いかがでしたか。十二支地名とその他の動物地名を合わせて、紹介した地名は総計147箇所(連載第1回75、第2回72)。内訳は大阪市内38箇所、近郊109箇所。大阪市内では北区・天王寺区が各5箇所で最多、近郊では岸和田市が10箇所で最多、次いで堺市が9箇所でした。
ここまでに登場したのは、大阪市24区のうち17の区、大阪府の42市町村(大阪市除く)のうち28の市町です。読者のお住いの近くに動物地名はありましたでしょうか。まだ名前の出ていない市区町村の皆さま、この連載の続きにご注目ください。

 というわけで、次回のテーマは桜と梅。花咲く地名の話です。