• その21

島の国の島々の街【前編】 ―海と川と八十島(やそしま)と― 2022年12月9日

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島の地名の原点

①琵琶湖~淀川~大阪湾・帝国新地図(学校教材)・明治24年(1891)三省堂 ②島神を祀る「いくたまさん」の拝殿

 今回のテーマ、島は大阪の地名の重要なキーワードです。本題の前に、まずそのあたりの話に触れておきましょう。
 島といえば海。大阪で海といえば大阪湾ですね。東京湾、伊勢湾とともに日本三大湾(国土交通省HP)、三大港湾(日本港湾協会HP)に数えられる大阪湾は豊かな漁場に恵まれ、巨大な港湾で発展し、昔から海の向こうの文化の入口にもなって、街々を育んできました。
 島の地名は川とも深くつながっています。大阪で川といえば淀川。日本屈指の規模を誇る淀川水系は琵琶湖を源に、多くの分流を抱え、滋賀県・京都府・大阪府・兵庫県・奈良県・三重県の2府4県に属する54市17町4村(令和2年3月末現在)を潤して、最後は大阪湾にそそぎます。流域の総面積は8,240平方キロ。なんと大阪府が4つすっぽり入ってまだ余る広大さです①。
 大阪湾と淀川水系の大スケールを思いつつ、古代の大阪をイメージしてください。大阪市の背骨ともいえる上町台地の東西が海の底にあった時代の話です。淀川の河口は今よりもっと上流にあり、奥深く入り組んだ大阪湾には流れ来た土砂が積もって大小の島が生まれ、川筋は姿を変えながら分流と合流を繰り返し、水辺は葦で覆われました。
 古代の大阪を彩る島々の呼び名は八十島(やそしま)。川中や湾岸に葦茂る島々の眺めを愛でた古語が、大阪の島の地名の原点です。
 そういえば生国魂神社(天王寺区)②に祀られた生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)の別称も八十島神でした。生島神(生み・生れる島)・足島神(満ち足り・満たす島)の2神は、島国・日本列島の誕生と繁栄の象徴です。ふだんは気安く、いくたまさんと親しまれる神社に古代以来の由緒あり。このあとは大阪の島々の地名を訪ねつつ、街角の風景を眺めなおしてみたいと思います。

福島の旧称について考える

③ここは島です。福島(ほたるまち)港乗船券売り場 ④つつじ咲く福島天満宮の鳥居前

 最初にとりあげる島地名は福島です。福島区の名の由来になった福島は八十島のひとつでした。町名にも福島があり、JRの福島駅と新福島駅、福島天満宮、福島公園、福島小学校など福島の名はあちこちに。福島駅周辺は古い商店街、町屋の残る界隈に新しい飲食店なども加わり、近年とくに活気をみせています。 「それにしても、なんでかな」という声は地元の古いお店から。「福島の昔の名前のことやけど……」そうでした。福島と名づけたのは菅原道真ですが、気になるのはこの地の古名です。道真が京都から大宰府に向かう途中、立ち寄った島の名を尋ねたのです。里人の答えは餓鬼(がき)島。そこで道真が福島と改名したのはわかる気がしますが、もとの呼び名が餓鬼島だったはなぜでしょう。
 道真は船でこの地を訪れました。湾の奥の入り組んだ川筋に葦が茂る風景は、往来の船には難所だったでしょう。餓鬼島の名の由来は不詳とされますが、推測はできます。第10回【後編】に登場の伝法山西念寺(此花区)が手がかりです。そこは川施餓鬼(かわせがき)で名高い寺でした。川施餓鬼とは水難者の供養を起源とし、後にお盆の灯篭流しにも変じていく仏事です。西念寺の所在地の伝法はかつて八十島に数えられた伝法島で、港が栄えました。同じく八十島のひとつだった餓鬼島も、川施餓鬼あるいは水難者の弔いに関わる地だったのではないでしょうか。道真は餓鬼島から福島への改名をもって死者の供養とし、都を追われた我が身の希望としたのだと思います。生れ育つ八十島は、帰りゆく道にも通じていました。八十島のイメージには光と影の両面があったでしょう。
 現在の福島区には島の面影はないものの、堂島川畔の福島1丁目1番地に、ほたるまち港③があり、「淀船の竿の雫(しづく)もほたるかな」(与謝蕪村)にちなむほたるまちの店々の賑わいも生まれました。近くの福島天満宮では夏祭り、秋祭りが風物詩。中の天神と呼ばれた天神社は福島天満宮④に合祀されましたが、福島区玉川には下の天神が健在です。変遷を重ねつつ、天神さんのお膝元に新旧の名所・名物店が集う今の姿は、福々しい福島の名にふさわしく、道真の改名は功を奏したといえるでしょう。

鷺洲、海老洲、野田の島々

⑤島育ちの町名が並ぶ福島マップ(福島区役所発行)

 福島区の町名の鷺洲(さぎす)は古くは鷺島とも書き、ここもかつての八十島だったとされます。今は内陸の町名ですが、明治時代の鷺洲村は現在のエリアだけでなく淀川畔までの広域を占めていました。後に鷺洲村が分かれて海老江という町名ができます。古代の鷺洲、海老洲の島々が淀川上流からの土砂堆積で陸続きになり、人が住んで村ができ、市や区の時代へと変遷を重ね、今また鷺島・海老江の町名になって帰ってきた。そんな一連のストーリーが浮かびます。
 同じく福島の町名で安治川沿いの野田も、古くは野田洲と呼ばれた島でした。区内の町名には他に玉川、吉野、大開(おおびらき)がありますが、いずれも古くは野田村に所属。なかでも玉川には野田玉川と呼ばれた網の目の川筋があり、川沿いに野田藤が咲き乱れる花見の名所とうたわれました。野田洲が他の島々と陸続きになっていくにつれ、風景は変わり、村名、町名のうつろいもありました。野田が島の記憶を継ぐ町名として残り、野田藤が近年、復活して話題になったのも、地名のストーリーのゆたかな彩りです。
 今の福島区を見渡すと、福島駅のある福島の西側に鷺島、海老江、野田、玉川、吉野、大開のあわせて7つの島生まれ、島育ちの町名で、このエリアができあがっているのがわかります⑤。福島区の北には淀川、南に堂島川、安治川が流れ、西の端で六軒家川(ろっけんやがわ)が正蓮寺川(しょうれんじがわ)から分流し、正蓮寺川は川施餓鬼の地、伝法(此花区)へと通じています。

甦る・奉る・歌う島々

⑥竹島・御幣島(右上)姫島(中央下)・歌島中学(右)大阪市区分地図(西淀川区)昭和27年(1952)栄進社

 次に訪ねるのは、大阪湾岸の区のなかでも島の地名がとくに多い西淀川区。姫島、御幣島(みてじま)、歌島、加島、竹島などが八十島に由来する地名とされます⑥。
 まず姫島は、日女島、比売島、媛島とも書き、読みはいずれも「ひめじま」でした。奈良時代には四天王寺領の牛の放牧地。中世からは稗島(ひえじま)と名が変わり、江戸時代には農村に。明治時代の自治体の名も稗島町でしたが、大正14年(1925)には姫島町とあらため、新設の西淀川区の所属に。生まれ育つ力をあらわす八十島地名の姫島が、人口・面積日本一の大大阪誕生期の新町名として復活しました。
 御幣島(みてじま)は、この地で神功皇后が御幣を奉ったとの『日本書紀』の逸話が名の由来。御幣とは神事の用具です。神功皇后は朝鮮半島からの凱旋を神に報告し、御幣島を住吉大社に寄進しました。大社の記録には六ケ島とも書かれ、6つの島の集まりだったと思われます。御幣島もまた島々の成長で生まれたのでした。
 歌島のたどった道は他の島地名ともからみあって複雑です。もとは加島と呼ばれる砂洲で、江戸時代には舟が行き交う水郷地帯の加島村がありました。明治半ばに加島村は御幣島村などと合併して歌島村を名乗ります。その名は、加島が数々の歌に詠まれて、歌島とも呼ばれのたが由来。御幣島、姫島も歌にしばしば詠まれた地で、加島の香具波志(家具はし)神社には連歌所がありました。
 しかし、歌島村は大正14年(1925)に新設の西淀川区の所属になった時点で、いったん消滅。入れ替わりに加島、御幣島などが新町名として発足し、歌島が新町名に加わったのは、およそ半世紀後の昭和47年(1972)のことでした。その間に、やはり八十島のひとつだった竹島も西淀川区の町名になり、現在に至ります。八十島は長い曲がりくねった道を歩み、令和の西淀川区姫島・御幣島・歌島・加島・竹島の町名にたどり着きました。
 結びに姫島の万葉歌を一首。
 妹(いも)が名は千代に流れむ姫島の子松が末に苔むすまでに
 失った愛娘(まなむすめ)を想い、その名が永遠であれとの祈りに、姫島の松はなんと答えたでしょうか。

田簑島はいくつある

⑦田簑橋の眺め。手前に蛸の松の碑、対岸に中之島美術館⑧田簑神社の境内に紀貫之の田簑島の歌碑(右の石碑)が建つ ⑨工事中につき、坐間神社御旅所の神さまは留守中(2022年11月現在)

 「どこにあるのかわからないというか……」と、ここで何やら、もやもやした声が届きました。「あっちにもこっちにもあるというか……」とは、数ある八十島のなかでも謎めく田簑島(たみのじま)のことですね。
 田簑島は現存しない島。かつ所在地がはっきりせず、候補がいくつか挙げられています。以前、『古地図で歩く大阪ザ・ベスト10』という本で著者は、堂島を候補とする説をもとに田簑橋(北区)⑦と田簑神社(西淀川区)をつなぐ古代の島の風景について触れました。堂島も八十島のひとつで、その名は四天王寺造営時に難波の守護として薬師堂の建立地だったのに由来するといわれます。
 田簑神社⑧があるのは西淀川区佃(つくだ)で、その名は貞観年間(859~877)に始まり、もとは田簑島と称したそうです。田簑島に建ったので田簑神社と呼ばれ、田簑橋は田簑神社に続く道の一部だったと考えれば、話がおさまります。しかし、他の田簑島にもそれぞれ根拠があり、ひとつにはしぼれません。
 例えば大川に架かる天満橋の南詰近くの旧地名・渡辺(現・石町)のもとの呼び名も田簑島だったといわれます。渡辺は古来より朝廷に厚く崇敬された坐間神社の発祥地で、今も坐間神社の御旅所があり⑨、田簑島にはエピソードが豊富です。御旅所の南には島町という町名もあります。江戸前期の地図には「志まや丁」と記され、人名由来の名とも思われますが、これも島との縁ですね。
 それにしても、田簑島と呼ばれた場所がなぜ、こんなにいくつもあるのでしょう。点々と散らばる田簑島の伝承をつなぐものは何なのでしょうか。

八十島祭りはどの島で

⑩海老江の八坂神社は木と水の匂いがする

 「話がおさまるどころか、もやもやが増えたやん……」という声とともに潮風が届きます。海辺からの声のようです。
 考える手がかりに、今回は福島の話で登場した八坂神社(福島区海老江)⑩の由来書に記された一文をとりあげます。 「浦江村は田簑島にあり、田簑島は太古より形成された難波江の多くの島々のひとつで住吉の八十島祭りの行われたところである」
 文中の浦江村は現在の福島区鷺洲にあたり、難波江の多くの島々とは八十島をさします。田簑島は鷺洲(鷺島)と陸続きになって、名が消えたのですね。鷺洲(鷺島)と海老洲(海老江)が陸続きになったのは先述のとおりですが、この説によれば、同じエリアのどこかに田簑島もあったわけです。
 由来書の「八十島祭り」に注目を。新しい天皇が即位にあたって、生まれ育つ生島神・足島神(生国魂神社の祭神)の2神の力を身にまとうため、難波(なにわ)の八十島の地で行った祭りは平安期に定着し、鎌倉時代に途絶えました。文中の「住吉の八十島祭り」は、ある時期から祭りの場所が住吉の浜に移ったのを示しています。
 それなら、田簑島とは島の名であるとともに、各時代の八十島祭りが行われた場所の呼び名でもあったでしょうか。それらがいずれも田簑島と呼ばれ、伝承を残し、地名となって足跡が刻まれたのではないかと思うのですが、どうでしょう。
 起源や変遷の経緯については諸説あり、謎を残す八十島祭りですが、バックボーンに淀川水系が注ぎ込む大阪湾の島々の生まれ育つ力があるのは確か。これだけは間違いありません。
 ここで『古今和歌集』から詠み人知らずの歌を一首。
 難波潟(なにわがた)潮満ちくらしあま衣たみのの島に鶴(たづ)なき渡る
 大阪湾の島々に満潮の時が来たよ、田簑島には鶴が鳴いて渡っていくよ……鶴のひと声で、もやもやは少し晴れたでしょうか。

 【前編】はここまで。最後に出てきた田簑島について、田簑神社(西淀川区)の境内にある紀貫之の歌碑⑧に記された歌を紹介します。
 雨により田簑の島をけふ行けば なにはかくれぬものにぞありける
 難波(なにわ)に来て雨にあった情景を詠んだもので『古今和歌集』所収。雨が降るので田簑という島に行ってみたが、簑という名にはこの身を隠せなかったよ、と歌っています。
 同じ趣向で田簑島を詠んだ歌は、『源氏物語』にも見られます。
 つゆけさの昔に似たる旅衣 たみのの島の名にはかくれず
 田簑島の簑の名には身を隠せず、昔海辺を流浪して涙に濡れたのと同じように私は泣き濡れている、と光源氏が明石の君を想って詠みました。『源氏物語』には田簑島での禊(みそぎ)、御払(おはら)いという言葉も出てきます。田簑島の所在地はいまだ定かではありませんが、古典の世界では隠れもない有名な島でした。
 どちらの歌も、田簑という文字だけの簑では身を隠せないとの意味だと一般にいわれますが、八十島に思いをはせて読み返すと、紀貫之の歌には力を秘めた田簑島の名をもってしてもやまない雨、『源氏物語』の歌には癒されない涙を読みとるのがふさわしいと思います。
 さて、【後編】では、どんな島の話が出てくるでしょうか。