島の生涯、難波島の場合
【前編】に続き、八十島祭りが行われたかもしれない場所として難波島(なんばじま)の話をします。大正区に三軒家東という町名があり、一部の町域が半島になって木津川の流れに突き出ています。かつての難波島は木津川に大きく横たわり、船の往来を妨げていたので、江戸時代にバイパス水路(今は木津川の一部)を開削。ふたつに分割された島の西半分はそのまま難波島、東半分は月正島(がっしょうじま)と新しく名づけられました。 現在は木津川をはさんで難波島エリアが半島の形になって大正区に、月正島エリアは陸続きになり浪速区に、それぞれ所属しています。
JR大正駅から南へ木津川沿いに歩くと、やがて難波島跡の案内板、百済橋(くだらばし)跡の碑と出会います⑪⑫。そこから延びる道が埋め立てられた川筋の跡で、難波島が島だったしるしです。
古代の八十島のひとつで、朝廷の重要行事だった八十島祭りの地ともいわれる難波島。木津川上流の東岸は古くから難波(なんば)と呼ばれる広々とした土地で、江戸時代には難波村がありました。難波は浪速(なにわ)に通じ、波の速い海の難所を意味します。
もう一方の月正島の命名由来は不詳ですが、月正(がっしょう)は正月をさす季語で、島の新たな出発の意味でしょうか。川の中で難波島(地図中の)と月正島が向かい合う姿は、合掌する手のようにも見えます。
宮に向いた島とは
「そろそろ出番でしょうか」という声は、大阪城方面から。「もうひとつ島の区が……」確かに島の字のつく区名は【前編】の福島区だけではありません。お待たせしました。ここで紹介しましょう。
その名は都島区です。前身は明治22年(1889)に生まれた自治体の都島村で、命名由来は古代の宮向島(みやこじま)とされます。宮向島とは宮に向いた島。宮は難波宮とする説が有力です。都島区は難波宮史跡公園を西に望み、大阪城にも近い大阪の歴史の中心地。宮向島はいくつかの島の総称ともいわれ、ここにも湾岸の八十島に連なる風景がありました。
区内の町名にも島地名があります。そのひとつ、網島⑬は江戸時代に川魚漁の網の干し場だったのが地名由来。今は桜名所の毛馬桜之宮公園に続く水辺の散歩道です。島の西端は川の合流で流れが激しく、水勢をやわらげるため、明治時代に木と石で将棊島(しょうぎじま)が築かれました。命名は将棋の駒に似た形によります。実態は突堤に近いのですが、水中に突き出た地を島と呼ぶのは、八十島がつながり陸地化した街に住む人々には自然なことだったのかもしれません。現在は天満橋南詰の川畔に将棊島跡の記念碑が建っています。
大阪城の北には備前島⑬という島もありました。備前岡山城主で備前宰相(びぜんさいしょう)と称された宇喜多秀家の屋敷の所在地だったのが名の由来で、大坂の陣では徳川方の大砲の陣地に。江戸時代からは備前島町という町名があり、明治の初めに網島町の一部に吸収されました。陸地化した島々の名も少なからず消えていったのです。
安けき島々が生んだ天保山、USJ
難波島を開削した河村瑞賢(かわむらずいけん)は、九条島を開削して安治川を生んだ事業でも有名です。九条は西区の町名ですが、安治川をはさんで対岸の此花区には西九条の町名があります⑭。九条と西九条は、かつて九条島と呼ばれた島の一部でした。もとは衢壌島(くじょうじま)と書き、衢は「ちまた」とも読み、衢壌とは賑わいの地のこと。九条島は大阪湾の島々の中でもひときわ大きく、安治川の開削工事はバイパス水路開通と洪水対策の両面で期待されました。安治川とは「安けく治める」を意味したといわれます。
その後の川ざらえで出た土砂は天保山(港区)⑭という観光名所を生みました。昔の地図では陸地と橋でつながった島に見えますが、航行する船の目印になったので山と呼ばれたのですね。
「ほんま、島は山……」とは、天保山と安治川を挟んで対岸からの声。なるほど、そこは大阪でいちばん標高の高い島。USJとJR桜島駅の地元、桜島(此花区)です。USJがオープンしたのは平成13年(2001)。開設に先立って河口に近い立地に配慮し、敷地の全域を盛り土して津波・高潮に備えた結果、市中では大阪城のある上町台地北端と並んで標高が高くなりました。この話は、『古地図でたどる大阪24区の履歴書』という本でも紹介しましたが、その時には触れなかった伏線があります。
はじまりは幕末にさかのぼります。その頃、当地は湾岸で進んだ新田開発地のひとつでした。しかし、せっかく造成した土地は水害で流出。明治初めに新たな新開地ができましたが、これまた流され、残念な結果に。明治26年(1893)に埋め立てられた新開地がようやく3度目の正直で存続し、同33年(1900)に西区桜島町としてスタートを切りました。町名は桜を植えた築山の眺めを愛でたものですが、背景には水害を安けく治められた安堵の気持ちがあったでしょう。
町名由来については鹿児島の桜島からとったとする説もあります。九州の桜島は、火山島が大噴火で陸地とつながった景観で知られ、愛されつつ畏れられる存在です。大阪観光の名所となったUSJ誕生にまつわる地名の物語は記憶にとどめておきたいと思います。
島名が語る人の営み
江戸時代後半の湾岸は大規模な土地開発が進み、新たに命名された島もありました。中でも有名なのが九条島の隣りの勘助島(かんすけじま)⑮。もとの名は姫島(先述の西淀川区の姫島とは別)で、ここに田畑を開墾し、堤防築造、木津川浚渫など尽力した中村勘助にちなんで改名されました。その功績を刻んだ大きな石碑が地元の上八坂神社(三軒家東2丁目)に建っています。勘助島も今は陸続きです。
此花区の現役町名の四貫島(しかんじま)⑯は九条島とともに江戸時代の新田開発の最も初期の成果とされます。開発後の島が四貫文(約10万円)の値段で買い受けされたので四貫島と呼ばれました。やはり此花区に今もある酉島(とりしま)⑯という町名は、江戸時代の埋め立てで生まれた多くの新田のひとつ。命名は酉年に開発が始まったためとも、開発者の多羅尾七郎衛門の居住地から酉(西)の方角の新田だったためともいわれます。
西淀川区の現役町名の出来島(できじま)⑯も、開拓で生まれた新田がルーツ。江戸時代に彦坂四郎兵衛が開発し、出来ばえがよかったので出来島新田です。
ご覧のとおり、江戸時代の島の命名は開拓の経緯を反映して、バラエティに富んだものになりました。八十島の島々の名がしばしば自然や神仏と結びついたのとは対照的ですが、これも時代の流れです。
新地の舞台、新名所の発信地
新田の話に続いて、島は新地にもなったという話をします。新地とは新開発の場所に設けられた遊興地をさします。人を呼び、賑わいを生むのが、町づくりの第一歩というわけです。
西区にある川口という町名は昭和52年(1977)まで富島町でした。江戸時代に大仏島とも呼ばれたのは、戦国時代に焼かれた東大寺(奈良)の大仏再建のため資金集めに奔走した公慶(こうけい)上人が、この島で多くの寄付を得たのに由来します。港と色里で賑わった新地の島には富がありました。新たな大仏の完成は元禄5年(1692)。その後、大仏島が富島と呼ばれるようになったのは、商都大坂が繁栄を誇った時代の流れと無縁ではないでしょう。
明治維新の頃、富島は大阪税関発祥の地となり、大阪開港の一翼を担います⑰。当時の港は安治川上流の川口で、文明開化の最前線となった周辺の島々は大変貌。富島にあった色里は、明治2年(1869)開設の松島遊廓に移転します⑱。そこはもともと松ケ鼻と呼ばれた砂洲で、明治政府が市中の色里を集めて統合。松島新地とも呼ばれた遊廓は昭和39年(1964)まで続きます。
松島の西北には戎島と呼ばれた砂洲があり、明治元年(1868)の開港にあわせてできた外国人居留地が西洋文化の入口になりました。明治7年(1874)には松島の東北の江之子島には大阪府庁が誕生します⑲。居留地は明治32年(1899)まで、大阪府庁は昭和4年(1929)まで近代大阪を象徴する新名所として存続。湾岸の島々は明治の大波に真っ先に洗われたエリアでした。
ミナミ発祥の島の今
島之内という地名があります⑳。中央区の現役町名ですが、もとは南北を長堀川・道頓堀川、東西を東横堀川・西横堀川で囲まれた区域をさす名称でした。4つの川はどれも人の手で開削された堀川で、島之内はいわば人工島の町。北側の船場がやはり堀川に囲まれた人工島で江戸時代に船運を生かして発展したのに続き、島之内は商業地と遊興地を兼ねた賑わいをみせ、現在の繁華街ミナミの発祥地となりました。道頓堀川沿いに生まれた新地を南地と称したのがミナミの呼び名のルーツです。
「船場が船で……」と、ここでミナミのお店から朝帰りのお客さんのひとり言が聞こえました。「島之内が島なんは、なんでなん」これは、船場より後発の島之内が、島の1字を地名に織り込んだのはなぜか、という意味でしょうか。船場の原型は豊臣秀吉の時代にできました。船場とは、船で海外に乗り出した頃の人々の意欲を反映した呼び名です。対して、島之内とは、島を経済活動の拠点とし、島に富を集めた江戸時代の人々の意識のあらわれでしょうか。
江戸時代の島之内は4つの堀川の内側のエリアをさす呼び名で、町名の島之内の誕生は時代が下って昭和57年(1982)のこと。しかし、平成元年(1989)には一部が東心斎橋に町名変更され、広域名称だったかつての島之内はぐっとミニサイズになりました。長堀川も昭和40年代に埋め立てられています。
時を経て今、大阪市中のあちらこちらの堀川畔に船着場やテラスの賑わいが戻り、行き交う船や水辺でくつろぐ人々の姿がみられるようになりました。島はもはや囲われた場所ではなく、街角にひらかれている。そんな気がします。
時空に浮かぶ島の名は
さて、【後編】もいよいよ最後の島の登場となりました。ここまで「あの島がなかなか出てこない」と思われていた読者もおられるでしょう。そうです、大阪の島の地名といえばここ。パリの文化の中心地シテ島になぞらえて紹介されてきたあの島。美術館、博物館が建ち並び、川面に映る名橋群㉑、数々の名建築、歴史を語る史跡、季節を彩るバラ園など華麗なる都市景観を誇る島……。
それは、ご存じ、中之島です!
その中之島(北区)も、もとはといえば、大阪湾に浮かぶ古代の島々のひとつ。江戸時代に諸藩の米と産物が集まる蔵屋敷で埋め尽くされ、出船入船数知れず。明治以後は蔵屋敷の跡地に続々と大阪府立図書館、大阪市中央公会堂、大阪市役所、中之島公園などが登場し、大阪の顔となるエリアを形成しました。全長約3キロ、幅は最大約300メートル。現在の姿は、大阪の歴史の中心地、上町台地を目の前にして横たわる絶妙のポジションがもたらしました。
そこには生まれ育つ島の力も大きく働いたでしょう。琵琶湖に発した母なる淀川の流れが大阪市中で大川と名を変え、中之島の西端で堂島川と土佐堀川に分かれ、東端でいったん合流し、すぐまた安治川と木津川に分かれて大阪湾に流れ着く。中之島はゆたかな歴史とダイナミックな水系が交わる時空の島でした。中之島とは江戸時代の中之島町を引き継いだ町名ですが、現在の中之島は対岸エリアも含んだ広域名称として存在感を増しています。令和4年(2022)オープンの大阪中之島美術館㉒など新たな話題も尽きません。