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続・干支えと地名エトセトラ&その他の動物地名バラエティ【前編】 ―犬飼はあるが牛飼はない? 猪の好きな遊びは?― 2022年3月14日

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人と交わる動物たち

 前回は十二支にちなんだ大阪の地名の中から、多い方のトップ3(午・酉・辰)、少ない方のトップ3(寅・子・未)を紹介しました。今回はまず、十二支地名の残りの6つ(丑・兎・巳・申・戌・亥)をとりあげ、そのあと後編で他の動物地名はどんなものがあるか見ていきます。
地名をたどれば、大阪の山や川、野原や田畑、あるいは街なかに動物たちがいて、人と交わりながら暮らしてきたのがわかります。今でも近郊や街なかでけんめいに生きている動物たちの姿と、それは重なります。地名には、そんなふだん忘れている命の風景を思い出せる力があります。

霊場になった犬地名

①泉佐野市の犬鳴山(地図左下)「日本交通分県地図・大阪府」大正12年(1923)毎日新聞社

 さて、十二支地名の後半6つの最初に登場するのは、犬(戌)です。戌は旧暦の干支(えと)に用いられて時間や方角を示し、犬は古くから人のそばにいて昔話でもおなじみ。十二支の動物のなかでも特に身近な感じがします。
大阪の犬地名にも泉佐野市の犬鳴山(いぬなきさん)①があります。命名は、大蛇に襲われた猟師が愛犬の鳴く声で危機を逃れた逸話より。山中には役行者が開いた犬鳴山七宝瀧寺(しっぽうりゅうじ)や犬鳴四十八滝と呼ばれる大小の滝があり、修験道の霊場ともされます。七宝瀧寺は真言宗犬鳴派の大本山で、犬鳴川の源もこの近くにあるとのこと。まさに犬鳴尽くしです。「そうそう、それでもって、今の犬鳴山は犬鳴温泉で知られる行楽地で、紅葉の名所」とは、地元からのPRの声。愛犬と一緒に泊まれるペットのお宿も、一軒ならずあるそうです。

時を超える人と犬の物語

 「PRもいいけど、さっきの犬の話が気になる」と、ここで全国の犬好きの方から声がかかりました。ごもっとも。それでは、犬鳴山の地名由来となった猟師と犬の話のあらましをお聞かせしましょう(著者宅にも愛犬♀16歳が在住)。
 時は寛平2年(890)、今からざっと1100年以上も昔のこと、猟師がいつもの猟犬をつれて狩りに出ました。山中に獲物を探し、ようやく1頭の鹿を見つけ、まさに射止めようとした瞬間、犬がけたたましく吠えたのです。鹿は逃げ、なおも犬は吠え続けます。腹を立てた猟師が山刀で犬の首をたたき切ると、なんとしたことか首は大きく宙に舞い、木の上から猟師をひと飲みにしようと口を開けた大蛇の喉にかみつきました。おかげで命拾いをした猟師は、愛犬の心を知らずにその命を絶った愚かさを嘆き、犬の墓を建て、頭を剃って僧侶になりました。
 犬鳴山七宝瀧寺の参道の石段には、「犬霊大菩薩、寛平二年三月十五日」の墓碑が今も建っているといいます。

犬飼村から和泉山脈を仰ぐ

 ここで、またひと声。「よく似た犬の話ならこっちにもある」と、泉南郡岬町の方が教えてくれました。大蛇に襲われかかった夫婦を愛犬が首を切られながらも助けたことから、その地が犬飼村と呼ばれたと、地元では伝えられているとか。
 犬鳴山のある泉佐野市は泉州の中央、犬飼村の話が残る岬町は泉州の南端、いずれも修験道の霊場がある和泉山脈を仰ぎ見ながら、人と犬が交感する物語を昔から共有してきたわけです。動物の無言の語りかけは、時として人の言葉よりも雄弁です。霊場といわれても、もはやピンときにくい現代人には、犬鳴山や犬飼村の物語の方が響くかもしれません。
 現在、岬町を流れる東川には犬飼橋が架かり、その下流域の多奈川が犬飼村の伝承地で犬飼がバス停の名前になっています。

由来不明の犬地名、消えた犬地名

 犬飼といえば、吹田市の大阪大学吹田校、茨木市の美穂ケ丘のそれぞれに、犬飼池という池があります。泉州の犬鳴山、犬飼村には共通の物語がありましたが、北摂の2つの犬飼村にも何か通じあう言い伝えがあったのでしょうか。『角川日本地名大辞典27 大阪府』(全1798頁)など資料では犬飼池が見つからず、由来はわかりませんでした。
 残念なお知らせをもうひとつ。今から紹介する3つの犬地名は現存しません。
 枚方市の印田町は、中世には犬田という地名で犬田城がありました。南北朝時代にあった荘園の犬居荘(いぬいのしょう)の場所は、昔の摂津国(今の大阪府と兵庫県東部を併せたエリア)のどこかとしかわかりません。犬田も犬居荘も犬との関係は不明です。大阪市の平野区には乾(いぬい)という地名がありましたが、これは正覚寺という古い寺の西北に位置したため。乾は西北の意味で、戌亥(いぬい)とも書きました。
 人に寄り添う犬地名。今はなくなってしまった犬地名にも、何か物語があったのではないでしょうか。

「やま」ではなく「さん」と読む牛滝山

②和泉葛城山をはさんで牛滝山・犬鳴山「日本交通分県地図・大阪府」大正12年(1923)毎日新聞社

 すでに虎(寅)地名として紹介した茨木市の丑寅(第1回前編参照)は、牛(丑)のつく地名でもありました。今回、あらためて牛の目で見渡すと、丑寅のように現存する牛地名の少なさに気づきます。牛と同じく身近な家畜だった馬が、すでにお話したとおり大阪の十二支地名トップ3に入っていたのと比べて、これはまたどうしたことでしょう。
 決して牛が軽く扱われたのではないのです。次の牛地名をご覧ください。
 岸和田市の牛滝山。それは山の名ではありません。同市大沢町にある牛滝山大威徳寺(うしたきさんだいいとくじ)の一帯を指す呼び名です。大威徳寺は役行者が開いたとされます。牛滝とは牛の姿に似た岩のある滝に由来し、周辺は修験道の修行場でした。滝に打たれて修行する修験道の行者たちを牛滝は1000年以上も見守り、牛滝山という呼び名がそのまま一帯の名称になりました。当地を流れる川の名も牛滝川です。
 「そうそう、もっと言うなら、今の牛滝山は牛滝温泉で知られる行楽地で、紅葉の名所」とは、地元からのPRの声。犬鳴山で聞いたのと似ているなあ、と思っていると、「牛滝山から犬鳴山までのハイキングコースも楽しめます」との追加PR。岸和田市の牛滝山と泉佐野市の犬鳴山は、和泉葛城山(奈良県の大和葛城山とは別の山)をはさんでつながっていたのです②。観光名所の牛滝山はPR用の顔で、その奥で和泉山脈の峰々が歴史と物語が交錯する世界へ誘っています。犬と牛が道案内です。
 そういえば牛滝山は「うしたきさん」、犬鳴山は「いぬなきさん」と、「やま」ではなく「さん」と読むのも共通でした。どちらもお寺の山号(寺院の名に冠する称号)ゆかりの由緒ある呼び名なのですね。地名の文字は読み方ひとつにも土地の歴史が深く関わっていて、ちゃんと意味があるのです。

5月5日は牛の日でもあった

③北区の牛丸町(地図中央上)「大大阪区勢地図・最新の北区」昭和11年(1936)・夕刊大阪新聞付録

 今はなくなってしまっても、牛の存在感を示す地名はあります。馬と比べると、牛地名は街なかにあったケースが多く、市街地化の進行が、現存する牛地名の少なさにもつながっているようです。
 北区の大阪駅前の旧町名だった牛丸町③はその一例。ここは今のグランフロント大阪が建つ大深町と芝田町にあたり、端午の節句の牛の藪入りが明治の頃まで恒例でした。牛を衣装で着飾って走らせ、見物人にチマキを投げる行事で、働く牛への感謝と子供の疱瘡除けの願いがこめられていたそうです。
 大阪駅の東には綱敷天神、露天神、天神祭りでおなじみの大阪天満宮があり、西には福島天満宮があって、北区から福島区にかけては天神さんのお膝元。牛は天神さんのお使いで、天神社の境内にはしばしば牛の像が見られます。さらに牛は農家の働きもので、大阪駅前周辺は田畑や堤で牛の姿が見られる日常がありました。牛が主役の年中行事や、牛の地名があったのも不思議ではありません。牛丸町という命名も、牛の藪入りが催された端午の節句が男の子の行事だったのを思うと、似つかわしい気がします。

乳牛の牧場は平安時代から

 今はなくなった牛地名の続きです。
 東淀川区の江口の近く、淀川の畔には、平安から室町にかけて牛を飼う牧がありました。もとの名は味原牧(あじはらのまき)でしたが、乳牛から牛乳を採取し、宮中に納める薬の材料などに用いたことから乳牛牧(ちうしのまき)とも称したといいます。かつての牛乳はずいぶんと珍重されていたのがわかります。
 その他の牛のつく旧町名として、豊中市の牛立村(うしだてむら)(今の三和町と日出町)、平野区の牛屋町(今の瓜破)がありました。それぞれの地名由来は不明ですが、牛地名から牛が人の身近にいた頃の風景を想像するのは楽しいものです。街なかで牛の姿が見られなくなってから、まだ100年も経っていないはず。掘り起こせば思わぬ牛物語が発掘されるかもしれません。

ふたつあった庚申堂

④天王寺区の庚申(庚申堂)(地図中央)「実地踏測大阪市街全図」明治43年(1910)和楽路屋

 続いての登場は猿(申)のつく地名です。此花区の申、阿倍野区の猿山がありますが、どちらの地名も今はなくなっています。申はもともと申新田と呼ばれ、江戸時代の申年に開発されたのが命名由来。猿山も江戸時代の猿山新田が前身です。
 今もある猿(申)地名としては、まず天王寺区の庚申堂(こうしんどう)④を挙げましょう。ここは日本で初めて庚申尊(こうしんそん)が出現したとされる庚申信仰発祥の地。庚申街道と呼ばれた道は、四天王寺から庚申堂へと南進して大和川を越えて古市街道に合流し、江戸時代には庚申参りの人々で賑わいました。
 「庚申堂なら、こっちにもあるんやけど」と、手を挙げたのは此花区の方。そうでした。伝法5丁目に建つもうひとつの庚申堂。もとは明暦4年(1658)創建の愛宕神社の境内にあったのですが、明治後期に愛宕神社が近くの澪標住吉神社に合祀された時、地元の強い要望で庚申堂のみが残ったとのこと。申の飾り物があることから申神社の名でも親しまれていると現地案内板に書かれているのも猿地名らしい愛嬌です。
 庚申参りは、自分の罪を閻魔大王に告げ口されて地獄に落とされないようにと願うのが目的で、目と耳と口を閉じた三猿(見ざる・聞かざる・言わざるの意)を家に置く風習もかつてはあったとか。罪を恐れて猿の手も借りたいというところでしょうか。

紀泉を見渡す峠の猿

 猿のつく現役地名としては、猿坂峠を挙げましょう。大阪府の西端で泉州の南端でもある岬町と和歌山県の境にある峠です。「紀泉入会(きせんいりあい)解消記念碑」と記した大きな石碑が建っています。紀泉とは、紀州と泉州。入会とは、住民が権利を持って山林で木材など採取して共同利用すること。かつて岬町の多奈川村と和歌山の紀ノ川右岸の村々は、山中の松茸などの採取権をめぐって争いが絶えませんでした。はじまりは戦国時代で、江戸時代も騒動が続き、明治維新後も乱闘や訴訟が起きたそうです。昭和の初めに農林省山林局が調停に乗り出し、ようやく和解が成立。石碑には紀泉の村々の代表の名とともに当時の農林大臣の名が彫り込まれ、争い終結の顛末を記録した長文も刻まれています。
 猿坂峠の地名由来は不明ですが、人と人の仲を猿がとりもっていると思うと、ちょっと愉快な気もします。石碑の建っているのは県道の脇のたいへん見晴らしのよい場所で、現在は知る人ぞ知る展望の名所になっています。

蛇地名は息長く

⑤東大阪市の蛇草(地図中央)「最新大阪市街地図」昭和4年(1929)和楽路屋

 蛇草と書いて「はぐさ」⑤。大阪の数ある難読地名の中でも難度が高そうな、この地名は今の東大阪市長瀬・寿町を中心とする地域の呼び名でした。命名は平安時代の延喜式に載っている波牟許曾(はむこそ)神社に由来。波牟は蛇を意味する「はみ」から転じ、社は「こそ」とも読み、許曾の字をあてて記したとか。「はむこそ」が訛って「はぐさ」になるにはどれだけの年月がかかったでしょう。町名としての蛇草は消えても、当地の市営住宅などの名前に残っている息の長さも、どことなく蛇地名にふさわしい気がします。
 現在も生きている蛇地名といえば、天王寺区の口縄坂です。地名由来を問えば、「道が曲がりながら長々と伸びていく姿が蛇に見えるから」と街歩き大好きの方たちから即答が返ってきました。天王寺七坂にも数えられる名所で、歴史散歩の定番コースだけのことはあります。昔は蛇を「くちなわ」と呼び、蛇坂と書いて「くちなわざか」と読んだりもしていたそうです。そんな目で眺めていると、坂道の石畳も蛇体のうろこに見えてきそう。こんな話をしていると、「大阪には昔から巳(みぃ)さんというてな」と身をのりだす方もいて、あちこちにある蛇にゆかりの神木や祠について語ってくれます。蛇が地名にあらわれる例は決して多くないのですが、蛇もまた大阪の地になじみの深い生き物なのです。

大人しい兎地名

⑥北区の兎我野町(地図中央)「最新大大阪市街全図」昭和4年(1929)和楽路屋

 北区の兎我野(とがの)⑥は『日本書紀』にも逸話を残す古い兎地名です。といっても、兎我野の逸話に登場する動物は兎ではなく鹿。仁徳天皇が毎夜耳を傾けた兎我野で鳴く鹿の声が途絶え、翌日に兎我野の鹿が献上されたのを知り、悲しんだといいます。『日本書紀』には兎我野が狩猟場だったという話もあり、兎も狩の獲物のひとつだったと思われますが、それだけでは兎我野の地名由来としては弱いです。兎は当て字ともいわれ、刀我野・都下野などと書かれる例もありました。その場合は「とがの」のもともとの意味が気になってきますが、そちらについては日の出を意味する「ときの」(古い朝鮮の言葉)の訛りとする説があるものの、定かではありません。今の兎我野はキタの一角を占める繁華なエリア。ネオンが飾る街角に聞こえてくるのは夜の賑わいばかりです。
 泉南市には兎田(うさいだ)の大字地名がありますが、これも兎との関係は不明。兎田は中世の荘園の名前で、江戸期からは兎田村、明治22年(1889)の市町村制の施行時に大字として受け継がれ、今に至ります。明治22年(1889)は大阪の多くの旧地名が大字に生まれ変わった年でした。新設される大字もあるので一概には言えませんが、大字地名は土地の歴史を知る手がかりのひとつです。
 大阪の干支地名のなかではこれといった話題がなく、影の薄い兎。いつか、秘められた兎地名の由来が明らかにされ、脚光を浴びる日が来るでしょうか。

猪が好きな泥遊び

 干支地名もいよいよフィナーレ! しんがりを務めるのは猪です。猪(亥)は十二支の末尾でもあります。
 猪地名にはまず猪飼野(いかいの)と猪甘津(いかいつ)を挙げましょう。どちらも生野区の古い地名です。猪飼野とは、朝廷に献上する猪を飼育する猪飼部(いかいべ)の人々がいたのにちなむ地名です。この猪は実は豚だったともいわれますが、豚は猪が家畜化されたものでした。猪甘津(いかいつ)は古代の港の呼び名。『日本書紀』には仁徳天皇の時代に「猪甘津に橋を渡す」とあり、これが日本最古の橋とされます。
 「そういえば、今里筋に猪飼野橋という交差点があったなあ」とつぶやいたのは、このあたりをいつも車で走る営業の方。なるほど、猪飼野橋とは猪飼野と猪甘津の橋を合わせたような呼び名です。橋といえば、生野区では鶴橋(第1回前編参照)がよく知られた地名で、さらに「つるの橋跡」の碑も生野区の桃谷にあります。それなら「つるの橋」は日本最古の橋と関係があるのかと言われそうですが、諸説あって結論は未確定。一方、鶴と猪の組み合わせは意外なようで、意外ではありません。鶴は水鳥。猪は泳ぎが得意で泥遊びが好き。そうです、この組み合わせは、一帯がかつては湿地が広がる土地だったのを意味しています。
 実際に猪飼野はそのような土地で、猪甘津という港も水運に便利な地形を利用したものでした。上町台地の東側に広がる古代の海辺が、後に干潟になり陸地になって人が住み、猪飼野は早くから開けていました。そんな営みのなかで日本最古の橋も生まれたのです。大陸から日本に渡来した人々も、この地の開拓者でした。猪飼野という地名は今、交差点の名前の中にしか残っていませんが、鶴橋はコリアタウンの賑わいで生野区を有名にしています。コリアタウンの中心が旧猪飼野で、現在の姿に至るまでの長い歴史のはじまりに鶴と猪がいたのです。試しに、イカイノ、イカイノ、イカイノ……と10回唱えてみてください。最後はイクノになります

マシンになった猪

⑦池田市、箕面市を流れる猪名川(地図中央)「地形図(伊丹・豊中)」昭和7年(1932)大日本帝国陸地測量部

 さて、現役の猪地名としては、池田市、箕面市を流れる猪名川⑦があります。古い表記は為名川または伊奈川で、猪の字になったのは後のこと。上方落語の「池田の猪買い」は、冷えの病に効くという新鮮な猪肉を買うために、大阪市中の北浜から十三・三国を抜け、今の豊中市域の服部・岡町を通って、池田の猟師を訪ねる話です。大阪北部の山々は昔から猪の猟場で、池田は今でも猪肉のぼたん鍋が名物。なるほど、為名川・伊奈川が猪名川になったのもうなずけます。猪名川の流域一帯をさす呼び名も猪名野で、猪は北摂の山々の主だったわけです。
 干支地名の最後の最後に紹介するのは豊能郡能勢町の猪ノ子峠(いのことうげ)。大阪府道4号沿いの未舗装のエリアがこの峠で、オフロードバイクのツーリングコースにもなっているそうです。砂利の坂道を豪快に駆け抜けるバイクは、マシンになった猪なのかもしれません。ちなみに池田市の猪名川沿いの猪名川運動公園には、陸上競技場があります。こちらは人間のランナーたちが川風を切り、トラックを駆けています。

以上、大阪の干支地名エトセトラ、後半の6つの動物地名の話はこれにておしまい。干支の動物とひとくちに言っても、地名との関わり方はさまざま。その土地柄、人と動物の暮らしを地名から読みとっていくのは面白い作業です。由来がわからなくなった地名も多いのですが、地元には何かの形で手がかりが残っているかもしれません。読者のまわりにも、知る人ぞ知る干支地名があるでしょう。ここに書き洩らした干支地名が出てきたら、それもまた愉快なことです。