• その5

桜と梅の大阪スクランブル交差点【前編】 ―梅田に架けた桜の橋、水辺を慕う桜地名― 2022年4月7日

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梅の林に桜の木が一本

①梅田の中心で桜咲く桜橋交差点(中央に標識)

 大阪駅西口から四つ橋筋を数分歩くと、駅前第1ビルがあります。おなじみの風景です。途中、大阪メトロ西梅田駅の降り口がありました。大阪駅前には阪神・阪急それぞれの梅田駅があり、さらに大阪メトロの梅田駅、東梅田駅もありました。駅前第1ビルの目の前の交差点の名は桜橋①。春には交差点角の桜が花ひらきます。住所は北区梅田1丁目。大阪の大繁華街、梅田の中心です。
 梅に囲まれ、桜がぽつん。桜橋のこの風景を頭に置いて、あとの話をお読みください。「大阪の地名に聞きました」第3回のテーマは、桜地名と梅地名。桜と梅が交差しながら、それぞれの花を咲かせてきた大阪の地名から、どんな声が聞こえてくるでしょうか。

桜橋交差点に時は流れる

②元桜橋南詰の碑、昼下がりのうたた寝?

 まずは桜橋の地名由来の話から。
 梅田1丁目は曽根崎新地と隣り合わせです。このあたりにかつて曽根崎川という川が流れ、畔に一本の桜の古木がありました。ある日、桜が倒れて川に架かり、人々が歩き渡る木橋になって、元禄8年(1695)に新しく架けられた橋の名が桜橋②。年月が経ち、明治時代に埋め立てられた川とともに橋はなくなり、今は桜橋の交差点が大阪駅前の風景になじんでいます。
 桜木は枯れてもなお橋に名を残し、川と橋が消えても、桜橋の地名となって生き続けました。大阪の桜地名の多くは川と深い縁があります。江戸時代の名高い風物、安治川口の千本柱は、川辺の港を埋め尽くす船の帆柱を吉野の千本桜に見立てて愛でたものでした。吉野の桜が、山の風物なのとは対照的です。江戸時代に八百八橋と呼ばれた水都の風景に色を添えたのが桜でした。そこに桜が1本あれば、そこが名所。桜木を囲んで愛でる人々の姿は名所絵の格好の題材にもなりました。
 風景が過去のものになっても、地名を手がかりによみがえる記憶があります。梅田の中心で桜咲く桜橋交差点の眺めから、桜と地名の古くて新しい風景も垣間見えてきそうです。

桜之宮リバーサイド

③毛馬桜之宮公園の春はまぶしい桜色 ④桜宮神社で見つけた桜宮の石碑

 「そういえば、造幣局の通り抜けも川辺の桜名所やった」と、さっそくお花見好きのみなさんから反響がありました。今や全国的に名高い通り抜けの桜は、大川を往来する水上バスからも仰げます。大川の両岸、毛馬橋から川崎橋あたりまで続く毛馬桜之宮公園の一帯は桜之宮と呼ばれ、JR桜ノ宮駅、桜之宮野球場、旧桜宮公会堂、桜宮橋(通称・銀橋)などが連なり、桜地名の花盛り。春には造幣局の通り抜けの桜の群舞が見事で、弧を描く川面に映る毛馬桜之宮公園③もまぶしいほどの桜一色。絶好のお花見散歩コースです。
 そんな桜尽くしの桜之宮の由来となったのが、大川東岸に建つ桜宮(通称・桜宮神社)④。もとは野田村(今のJR京橋駅付近)の桜野にあった社殿が洪水で流され、大川沿いの中野村(今のJR桜ノ宮駅付近)に漂着し、後に現在地に移ったと伝えます。桜宮とはもとの所在地にちなんだ呼び名でした。その名にふさわしく、以後は桜宮のまわりに桜が植えられ、江戸時代には花見で人気に。明治時代には造幣局が新しい桜名所になりました。
 名実ともに大阪を代表する桜名所の桜之宮の由来話に、洪水で流された神社が落ち着いた場所も川辺だったと語られているのが印象的です。桜之宮はいつの時代もリバーサイドなのですね。

梅があって桜がある

⑤浪速区の桜川(右下)「大阪市区分地図・浪速区」昭和初期 和楽路屋

 「桜と川なら、そのものズバリ、桜川」と、ここで浪速区の方から声がかかりました。そのとおり、大阪メトロの駅名にもなっている桜川⑤は、明治33年(1900)大阪高野鉄道の西道頓堀駅(現・南海高野線の汐見橋駅)開設時に生まれた町名です。名の由来は、元禄11年(1698)頃に道頓堀川の分流として開削された桜川。その道頓堀川は高津神社境内の梅川を延長してできたと『浪華百事談』に書かれ、桜川は梅川と対になる命名だったのかも。お座敷唄の歌詞「梅は咲いたか桜はまだかいな」を題名にしたJ-POP(by Metis)があるように、昔も今も、梅とくれば桜です。
 桜川の埋め立ては大正3年(1914)。梅川も今はありません。今の千日前通りは一部が桜川の流れの跡です。桜川の名は、町名と大阪メトロ千日前線の駅名に残りました。「誰の上にも歩き始めるために桜は咲くのさ。全てに意味があることのように君に桜は咲くのさ」とレゲエのリズムに乗せてMetisは歌います。川は消えても地名は残る。桜川のテーマソングのようにも聞こえてきます。

桜新地のお座敷で

⑥枚方市の桜新地(左下)「地形図(大阪東北部)」昭和32年(1957)地理調査所

 「梅は咲いたか桜はまだかいな」はもともと、お座敷で歌われた小唄や端唄(はうた)の一節でした。明治以後も新地と呼ばれる賑わいの街があちこちに生まれ、そこにはお座敷がありました。「そうそう、その名も桜新地!⑥」と教えてくれたのは枚方市に代々お住まいの方です。明治18年(1885)、枚方市から大阪市までの広域が浸水する淀川大洪水が起き、復興を期した枚方では修復した堤の上に新地ができ、たくさんの桜が植えられました。桜新地の名は花街に似合うだけでなく、咲く花の生命にあやかった祈りがこめられていたように思います。桜新地のお座敷ではおそらく年中、「桜はまだかいな」とくちずさまれたことでしょう。
 昭和の半ば、いわゆる貸座敷業が転業を余儀なくされ、桜新地の風景も変わり、桜町という新町名に生まれ変わったのは昭和40年(1965)のことでした。枚方市には他にも香里園桜木町、桜丘町という桜地名があります。いずれも宅地開発が進んだ昭和40年代以後の新町名です。

丘と谷と町の桜

⑦豊中市の桜塚(中央上)「大日本分県地図・大阪府」昭和15年(1940)日本統制地図

 豊中市には桜塚⑦という室町時代からの古い地名があります。命名は1500年以上前の創建と伝えられる原田神社の鳥居前の桜塚(古墳)より。塚には墓(古墳)の意味があり、一帯に広がる桜塚古墳群には今も30数基の古墳が健在。範囲はとなりの岡町にも及びます。岡町とは小高い丘(古墳)を示す地名。「なるほど、それでここも桜が丘」とは最近、豊中に越してきた方の声。桜が丘は新千里にできた住宅地の通称です。「豊中には鎌倉時代からの桜井谷、昭和にできた桜の町(ちょう)という地名も」と、さらに地元の声。
 桜塚・桜が丘は丘や谷となじみがある地名です。一方、千里川流域の広域名称である桜井谷は、近隣の春日神社境内の清水のかたわらに桜が植えられ、桜井と呼ばれたのにちなみます。井は泉。谷がつくのは流域に起伏があったから。斜面になった場所に土器の窯跡が数多く発見され、古墳も見られます。桜井谷は古くから人の営みが築かれた地でした。丘や谷を桜が彩る町々の春は、千里川沿いの桜通りの散歩が楽しみとのこと。桜井の名がつく地名については、このあとも触れていきます。

古墳と丘と桜井、箕面市の場合

⑧箕面市の桜(中央左)・桜井(中央下)「地形図(大阪西北部)」昭和7年(1932)大日本帝国陸地測量部

 箕面市を流れる箕面川の両岸に、桜地名が3つ並んでいます。桜・桜ケ丘・桜井⑧。桜の由来は6世紀築造の桜古墳で、桜ケ丘は広域名称の桜ケ丘古墳群にちなみます。桜古墳は明治時代に来日した英国の学者ウィリアム・ゴーランドに「桜のドルメン(巨石建造物)」と名づけられたことで知られますが、残念ながら消滅。町域変更で跡地の町名も桜から桜ケ丘に変わりました。桜ケ丘古墳群も昭和45年(1970)の宅地造成の頃にほぼ消滅。発掘調査では須恵器が多数見つかり、一部の住宅の敷地に今も古墳の痕跡が残っています。
 箕面川沿いの3つめの桜地名、桜井は古くからある地名。大正時代に宅地開発され、以後も箕面が町から市へと発展するなか、大字名だった桜井は昭和41年(1966)に町名の箕面市桜井になりました。美称としての桜井が、新町名として好まれたのでしょう。
 豊中市の桜塚・桜が丘・桜井谷。箕面市の桜・桜ケ丘・桜井。隣り合わせのふたつの街の桜地名に、北摂エリアの暮らしのうつろいが映し出されています。

桜井地名、東大阪市の場合

⑨東大阪市の桜井(中央下)「大日本分県地図・大阪府」昭和15年(1940)日本統制地図

 東大阪市は中河内の大きな街です。かつては旧大和川の流れに抱かれ、船運によって平野や八尾など南のエリアとも結ばれていました。営みの歴史は古く、当地の桜井に応神天皇の后を出す豪族がいたとの記述が『日本書紀』に見られます。桜井が字(あざ)地名で残る六万寺町から池島町・四条町までの一帯が桜井⑨で、六万寺町には、日照りの時にも涸れない桜井の冷泉があったといいます。生駒山地の西麓の水脈からつながる湧水ですね。古代の河内潟があった中河内地域は、水辺の逸話には事欠きません。
 「桜井といえば、梶無(かじなし)神社の境内の桜井神社は、どう?」という声は、もちろん東大阪市の方から。水にまつわる桜井の名を冠した神社が、船にまつわる梶無を名のる神社の末社とは、興味をそそる話です。地元の集会所の名は桜井会館との情報もいただきました。東大阪市の桜井は町名にこそなりませんでしたが、神社や会館の名となって人のそばにいたのです。
 汲めば散る汲まねば底に影やどす花の香を汲む桜井の水
 この歌の作者は関白の藤原房嗣。湧き出る水に影を映す桜を散らさぬよう、香りをそっと汲んでみた……と、詠んでみたくなる名所。それが桜井でした。
 「桜橋小学校も桜と水の縁?」と、さらなる声が聞こえました。東大阪市菱屋西にある桜橋小学校の名は、近くの長瀬川に架かる櫻橋にちなむとのこと。校名を提案したのが児童だったという話も面白く、桜と水の深い縁が、時代も世代も越えて地名の奥に息づいているのを感じます。

最も有名な桜井地名

⑩島本町の桜井(中央左)「大日本分県地図・大阪府」昭和15年(1940)日本統制地図

 「大事な地名をひとつ忘れてませんか?」と、ここで複数の方から催促の声が届きました。そうですね、桜井といえば『太平記』の名場面、楠木正成・正行父子の「桜井の別れ」の逸話が有名です。この桜井⑩は、大阪府北東の三島郡島本町にあり、延暦年間(782~806)に円満院法親王が居住した桜井御所が地名由来で、西国街道の駅名にもなりました。御所の名、駅の名になり、物語を紡いだ桜井。数々の舞台を演出したのが桜と水でした。
 人名に由来する桜井地名もあります。大阪市西成区にあった桜井は、江戸時代に当地で新田を開発した3代目桜井(加賀屋)甚兵衛の名にちなみます。堺市の桜井神社は、『日本書紀』に登場する武内宿禰(たけのうちのすくね)を、子孫の桜井氏が祀ったのが起源と伝える古社。地名は人名とも交差しながら、時を経てきたのです。

美称地名の桜パレード

⑪JR桜島駅、次はユニバーサルシティ駅

 ここまでの話に美称としての桜地名が、いくつか登場しました。多くは昭和生まれの新町名で、桜井地名にも昭和42年(1967)に誕生した富田林市桜井があります。桜地名の話の最後に、そんな美称桜地名の数々をご紹介します。
 此花区の桜島は、USJの地元で、JR桜島線(通称・ゆめ咲き線)の終着駅名⑪としておなじみになりました。地名由来は鹿児島県の桜島に見立てたとも、あるいは小丘に植えられた桜木にちなむとも言われますが詳細不明。盛り土された人工の丘に誕生したという意味では、USJが丘を彩る花園なのかもしれません。
 次の美称は「桜ヶ丘」。八尾市桜ケ丘は昭和37年(1962)、高槻市桜ケ丘北町・桜ケ丘南町は昭和40年(1965)に誕生。1字違いの「桜が丘」も熊取町に近年にできた新町名。さらに人気の高い新町名は「桜町」で、昭和14年(1939)守口町(現・守口市)、昭和38年(1963)高槻市、昭和40年(1965)枚方市、昭和41年(1966)枚岡市(現・東大阪市)、昭和48年(1973)摂津市に、続々と桜町が誕生。1字多い「桜の町」という町名も昭和36年(1961)豊中市にできました。寝屋川市には昭和41年(1966)にできた桜木町の他、「太秦桜が丘」「萱島桜園町」があります。
 最後に新しくて古い桜地名をひとつ。昭和44年(1969)からの堺市桜之町東・桜之町西は、もともと「桜之町」。ここにあった鉄砲鍛冶は、戦国時代に今井宗久が堺の「桜町」に吹屋を立てたのが起源。よく似た名前の兄弟地名たちです。

 【前編】はこれにて、おしまい。生まれも育ちもいろいろの桜地名。大阪の場合は水辺と縁が深いのですが、丘、堤の上など小高い場所ともおなじみで、古墳は丘であり墓であり、塚(墓)とも結びつき、桜の美には光もあれば影もあると教えてくれました。
 さて、ここまで読んでお気づきでしょうか。桜地名の多くが、豊中市・箕面市・高槻市・摂津市・枚方市・寝屋川市・守口市・島本町など、大阪の北部にあるということを。東部に位置する東大阪市にも、大阪市中の区にも、桜地名は散りばめられていますが、南部で登場したのは堺市・八尾市・富田林市・熊取町のみでした。
 【後編】では梅地名の話をします。梅地名の南北分布はどうなっているでしょう。冒頭にあった梅田の中心で桜を咲かせる桜橋の話が思い出されます。桜と梅は大阪の地で交わりながら、それぞれのテリトリーを築いてきました。引き続き、桜地名と梅地名の声に耳を澄ませてみてください。何が聞こえてくるでしょうか。