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桜と梅の大阪スクランブル交差点【後編】 ―天神に愛され、桜と交わる梅地名― 2022年4月7日

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梅の里に咲く田子の浦

⑫富田林市・梅の里「田子の浦」は品種の名前 ⑬錦織公園の案内板。梅の里もあれば桜木の里もある

 「桜地名が大阪ノースに多いんなら、サウスは梅が多いの?」と、前編を読み終えた読者は思われたでしょう。答えはイエス。ここで、著者の場合は自宅の近場の梅の里が浮かびます。大阪みどりの百選にも選ばれた富田林市の錦織公園⑫⑬にあり、早春は380本の梅が咲き競う梅名所です。28ある品種には山部赤人の万葉歌にちなむ「田子の浦」もあれば、「思いのまま」など現代的なネーミングも。梅も桜と同じく時代の流れと無縁ではありません。流行の山と谷もあり、それぞれの分布の足跡があり、その途中経過が今、私たちの前にある風景です。

梅田がいっぱい

⑭梅田墓地(左上)・梅田橋(左下ムメタと記された橋)「増修大坂指掌図」寛政5年(1793)浪速書林播磨屋九兵衛

 大阪の梅地名といえば、まず浮かぶのが梅田。大阪の北の玄関、大阪駅は開設当初、梅田ステーションとも呼ばれました。大阪駅は全国に鉄道網を築いた官鉄(現・JR)の命名。梅田ステーションは地元での通称です。その後、私鉄の阪急、阪神が開設した駅がいずれも梅田駅を名乗り、市電やバスの停留所も梅田、大阪メトロの駅名もみんな梅田。大阪駅が建つ場所の町名も梅田。まさに梅田の花盛りです。
 「江戸時代には墓地やったって聞いたけど」と、ここでつぶやきが聞こえました。大阪駅前の工事現場で多数の人骨発掘との平成のニュースを覚えておられたんですね。そうです、駅の西側には、かつて梅田墓地⑭がありました。市中から曽根崎川に架かる梅田橋⑭を渡る墓参りの道の呼び名は梅田道。桜地名が古墳や塚(墓)としばしば結びついたのと同じ陰影が梅地名にもあったのです。
 梅田は明治以後の大発展で、大阪を代表する繁華街になりました。墓地はもちろん、梅田橋も梅田道も新市街に更新され、梅田新道が御堂筋と梅田をつなぐ新時代のルートになりました。近年、阪急大阪梅田駅前に新設された古書街・梅茶小路にはお洒落な雰囲気も。時代に彩られながら梅田の増殖は続きます。
 「田畑の埋め立て地をあらわす埋田が転じて梅田になったんやて」という声が、あちらこちらで聞こえます。この話は、ご存じの方が多いですね。ただ、美称を好む人の心が梅を望んだとしても、明治以後の梅田地名の増殖は、それだけでは語れない何かがあるように思います。

天神と梅の深い関係① 紅梅町の場合

⑮大阪天満宮には紅梅がよく似合う ⑯紅梅町の街角で

 このへんで大阪の梅地名を語るキーワード、天神に話を移しましょう。菅原道真は京都から太宰府に向かう旅の途中、淀川流域と浪花の地に数々の逸話を残し、その足跡に点々と道真を祀る天神社が生まれました。梅地名もまた道真の置き土産です。
 そのひとつが、北区の大阪天満宮近くの紅梅町⑮⑯。道真の愛した紅梅にちなむ町名で、江戸時代には天満宮の門前町で、今は天神橋筋商店街とも接しています。道真とのゆかりの深さは、次の伝説からも伺えるでしょう。
 この地に道真の神霊が鎮座した日の夜、一本の松の木が生え、見る見るうちに大木となりました。高くのびた梢の先に明星が降臨し、その光がかたわらの池の水面に照り輝き、人々を驚かせました。以来、その池は明星の池と呼ばれています。
 明星池は明治時代まで残りました。場所は紅梅町と同じく天満宮の北側。池の畔には紅梅が咲いていたそうです。
 東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ
 これは道真が最期に残したと伝えられる歌。春風が吹いたらその香りを届けておくれ、梅よ、私がいなくなっても忘れずに……。紅梅町という地名もまた、その香りを忘れず、今に伝えているのです。

天神と梅の深い関係② 白梅町の場合

⑰高槻市の上宮天満宮境内、梅を愛した菅原道真の先祖を祀る野見神社

 高槻市にある上宮(じょうぐう)天満宮⑰は、福岡県の太宰府天満宮に次いで2番目に古い天神社です。社伝によると、菅原道真の死後、その霊を鎮めるために大宰府の墓に参拝した勅使の牛車が帰途、当地で動かなくなりました。調べたところ、ここに菅原氏の祖である野見宿禰(のみのすくね)を祀る廟があると知り、社殿を設けて道真を併せ祀ったのが上宮天満宮のはじまり。それで今も、境内に入ってすぐのところに野見神社が鎮座しているわけです。
 上宮天満宮の近くにある白梅町は、最初の東京オリンピック開催の昭和39年(1964)誕生の新町名。戦後の高度成長と国際化に日本が邁進していた当時、地域では歴史を顕彰する動きもありました。高槻市も、こうして古い記憶を呼び起こし、町名に刻んだのですね。

梅川と桜山、菅原道真と西行

 ここで著者は、富田林市と河南町を流れる梅川の名が浮かびました。流域の弘川寺(河南町)には、数々の桜の歌を残した西行の墓があり、周辺は桜が植えられ、桜山と呼ばれています。
 願わくば花の下にて春死なん その如月(きさらぎ)の望月の頃
 この歌のとおり、西行は如月(旧暦2月、桜の見頃)に亡くなりました。桜山を覆う桜は西行への献花だそうです。梅川と桜山と聞くと、大阪市中の桜川と梅川の話(【前編】参照)を思い出された方もおられるでしょう。こんなふうに梅と桜は交わりながら、大阪にそれぞれの根を張ってきたのです。
 梅を愛した菅原道真(845~903)は平安時代の人。桜を愛した西行(1118~1190)は平安末から鎌倉初期の人。梅も桜も古くから歌に詠まれ、多くの事跡を伝え、人々を魅了してきました。古くは花といえば梅をさし、後には花といえば桜になりました。その分かれ目がいつなのかは諸説がありますが、大阪の地名を見渡す限りでは、道真が点々と梅地名を残し、西行を偲ぶ桜山誕生の頃までの約200年の間に、梅から桜への移行があったと思えます。南北朝から室町時代にかけては、桜を植えて春の開花を愛でる風習も広まります。江戸時代には大坂市中で桜の花見が人気を集めるようになりました。一方で根強く残った梅への想いは、近代以後に新たな梅地名を生む背景になりました。【前編】で昭和生まれの美称地名の話をしましたが、梅にも同様の現象が起きたのです。

梅の花咲く昭和の美称地名

 ここからは、今も残る昭和の美称としての梅地名オンパレードです!
 此花区の梅香(ばいか)は大正14年(1925)の誕生当時の名は四貫島梅花町でした。四貫島は新田の名。梅香とは土地所有者(正岡家)の先代養母の法名ですが、美称地名の意味合いもあったでしょう。昭和50年(1975)より梅香が町名になりました。同じく此花区の梅町は昭和6年(1931)生れの新町名。公有水面埋立地という土地柄だけに、なおのこと美称としての梅地名が望まれたのでしょう。
 堺市の百舌鳥梅町は昭和34年(1959)からの町名。堺市ゆかりの鳥の百舌鳥が梅の木にとまった格好です。江戸時代には梅村で明治半ばから大字梅でした。藤井寺市の梅が園町は昭和45年(1970)からの地名。西成区の梅南(ばいなん)は昭和48年(1973)からですが、これはもとの町名の梅通・梅南通を残したもの。
 北河内でも梅地名が生まれました。交野市の大字(おおあざ)梅が枝は昭和40年(1965)。守口市の梅町は昭和14年(1939)生れの新町名。大宰府に向かう菅原道真がここで都からの沙汰(さた)を待った逸話が創建由来の佐太天満宮のお膝元らしい命名です。梅町の旧地名は狼島で、大神島とも記した川中の島だったとのこと。オオカミとは洪水への畏れを表す地名だったのかもしれません。守口市にはやはり昭和14年(1939)生れの梅園町という町名もあります。

消えた梅地名の数々

⑱北区の梅ケ枝町(中央上)「大大阪区勢地図・最新の北区」昭和11年(1936)夕刊大阪新聞付録

 新町名のお目見えと入れ違いに、残念ながら消えてしまった梅地名もあります。
 堺市の梅が香町(うめがかちょう)は江戸時代からの町名ですが、明治5年(1872)に消滅。西区の梅本は慶応3年(1867)からあり、地元の竹林寺にあった古木「難波津香の梅」にちなんだ町名でしたが、昭和52年(1977)に消滅。北区の梅ヶ枝町⑱は梅を愛した菅原道真にちなむ命名でしたが、大正13年(1924)に生まれて昭和53年(1978)になくなりました。これらは由緒来歴がありながら消えていった梅地名です。
 平野区の梅ヶ枝町は大正11年(1922)~昭和49年(1974)、豊中市の梅ヶ枝通は昭和17年(1942)~39年(1964)の間だけありました。
 桜地名にも消えた例はありましたが、消滅率は梅地名の方が高いです。なんとなく梅に肩入れしたい気持ちになります。

梅地名のトリにして大物

⑲此花区役所でお出迎え、咲くやこの花の歌碑と区名由来碑 ⑳此花区役所は見た目も華やか

 最後に、「梅」の1文字が入っていない、隠れた梅地名をご紹介しましょう。由緒が豊富で大阪地名の大物的存在。大正時代に生まれ、現在24ある大阪市の区のひとつ……それは此花区です!
 此花区役所の玄関前に、歌を刻んだ碑⑲⑳が建っています。
 難波津(なにわづ)に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
 大正14年(1925)に創設された当区の命名由来となった歌です。『日本書紀』には仁徳天皇即位を祝って、渡来人の王仁(わに)が詠んだ歌とあります。即位前の天皇の空位が続いた不穏な年月を冬ごもりに例え、今は花咲く春と謳いあげました。「咲くやこの花」の花は梅。古くは花と言えば梅をさしたとは、先述のとおりです。『古今和歌集』『源氏物語』に手習いの始めの歌と記されたように、かつては誰もが知る歌でした。
 歌に詠まれた難波津は、難波(なにわ=大阪)の港のことで、此花区エリアには仏法(仏教)伝来の地を意味する伝法と呼ばれた港があります。難波津の歌の「この花」を区名に選んだ大正時代の人は歴史と文学になかなか明るかったようです。
 此花区誕生から60年余が経った昭和62年(1987)、市民からの公募で区の花が選ばれました。此花区の花は桜とチューリップ。梅は選ばれませんでした。他の区では、中央区が梅でした。市町では東大阪市・泉南市・藤井寺市・熊取町が梅。桜は此花区以外に都島区・西区・港区が選定。市町では枚方市・交野市・寝屋川市・大阪狭山市、河南町が桜でした。大阪府の花には桜と梅とサクラソウが選ばれましたが、大阪市の花は桜とパンジーで梅は選外でした。
 人気度では令和の現在も桜が優位の時代と思われます。しかし梅にも意地があるでしょう。【前編】の末尾に触れたように、大阪の南北で桜と梅の地名分布の傾向に違いがあるのは、多様性の確保の意味では良いしるし。水辺に映える桜の風景を愛でつつ、梅の色香にも魅せられたい。桜も梅もあるから世は楽し。大阪は今日も桜地名と梅地名のスクランブル交差点でした。

 【後編】の梅の話、いかがでしたか。最後に今回登場した桜地名・梅地名を集計すると、桜地名48箇所、梅地名34箇所でした。市区町村別のカウントでは、桜地名のトップが都島区で8箇所。豊中市・東大阪市が各7箇所でこれに続きます。梅地名は北区が17箇所で群を抜き、此花区が5箇所で次点。堺市・富田林市・守口市が各2箇所で並びました。桜地名は北摂から北河内・中河内に多く、市中では都島区の桜之宮一帯が特異点。梅地名は南部を中心に散りばめられ、北区の梅田一帯が特異点になっています。
 今回とりあげられなかった桜と梅の地名があります。平成・令和の新顔もあるはず。読者の近くにも、生まれてまもない花咲く地名があるかもしれません。

 というわけで「大阪の地名に聞きました」第3回はこれでおしまい。次回は、桜と梅以外の花と緑の地名がテーマです。