• その7

花も緑もある大阪【前編】 ―連なり、交わる、森と林の点と線― 2022年5月12日

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この森を抜けると朝が来る

①守口市・佐太天神宮の社叢林は市の保存樹林でもある ②樹林は面積8700m²。古い木は樹齢400年を超える

 今回のテーマは「花と緑」です。大阪は緑が少ない街と言われています。そうでしょうか。地名に尋ねてみたら、どんな答えが返ってくるでしょう。
 ここで、ふと思い出したのが千林商店街です。「主婦の店ダイエー」誕生の地で、日本一安い商店街とも呼ばれた有名商店街。江戸時代には村の名で、今は旭区の町名、京阪電車の駅名でもある千林は、そこにかつて生い茂った樹林にちなみます。
 そういえば、南隣りの町名は森小路で、森の中に小さな路があったのが命名由来。京阪電車にも森小路駅があり、近くに新森小路(現・新森)という町名も。さらに言うなら、旭区と境を接する守口市は、もともと森口と書きました。森林の入口にあたる場所だったからです。
 北から順に守(森)口・千林・森小路と続く地名は、大阪の北東に広がる緑の風景の名残りでした。旧京街道沿いの街々でもあり、往来の人たちは守口の宿場で、ここから千林、森小路を抜ければ大坂市中、道中もあと一息と、ほっとしたことでしょう。
 さて、千林・森小路は旭区にあります。大阪市街の中心から見て朝日が昇る方角なので旭区です。江戸時代には淀川下りの夜船に揺られてきた人々が、今の旭区あたりで、まばゆい朝焼けを仰ぎました。
 この森を抜けると朝が来る。
 大阪の緑のイメージの源泉には、そんな安堵と期待の風景があったわけです。
 守口市にある佐太天神宮①は1000年以上の歴史を持つ古社です。境内の森は100本を超える大木が繁る市指定の保存樹林②。「大阪みどりの百選」にも選定され、池の水面にみずみずしい緑を映しています。かつて森口だった街に今も息づく緑の森をオープニングに、地名に息づく花と緑の大阪をひとめぐりいたしましょう。

森と林に囲まれて

③JR森之宮駅前の鵲森之宮(通称・森之宮神社)。門前から境内の緑がちらり

 旭区の新森公園に碑が建つ森小路遺跡は弥生時代の集落跡です。それより古い縄文時代の遺物が発掘されたのが中央区の森ノ宮遺跡で、ここも森地名。起源は7世紀の推古天皇の時代の逸話で、新羅(しらぎ)から持ち帰ったカササギの飼育地を鵲森(かささぎのもり)と呼んだと『日本書紀』にあります。その後、聖徳太子が父の用明天皇を偲んで当地に建てた社殿が鵲森宮(かささぎのもりのみや)③。現在の通称は森之宮神社。所在地の町名は中央区森ノ宮中央で、JR森ノ宮駅は目の前です。隣接する都島区の町名にも1字違いの森之宮があり、このあたりの森地名には神域のイメージが漂います。
 一帯の古名は『日本書紀』に難波杜(なにわのもり)と記され、そこに鵲森ができ、鵲森宮となり、さらには戦国時代に森荘、江戸~明治時代に森村、杉山町、大正時代には森町がありました。時代とともに森が市街に変貌し、上町台地の東には時代に応じた森地名が生まれてきたのです。
 大阪メトロ森ノ宮駅近くのピロティホールでは、年に数回、森ノ宮遺跡の遺物を公開しています。発掘された縄文時代の人骨も見られ、愛称は大阪市民第1号。ユーモラスな響きの奥に、鬱蒼とした緑の森の記憶があります。ピロティ方式(高床式)と呼ばれる独特の設計を施されたホールは、森ノ宮遺跡の保存のための工夫だそうです。

森地名に流れる水脈

④天神ノ森天満宮の森と鳥居 ⑤阪堺電気軌道・天神ノ森停留所から天神ノ森天満宮の森を見た

 「前から気になってたんやけど」とは、大阪天満宮で参拝中の方のつぶやきです。「南森町て、どこの南なん?」そういえば、天満宮門前の町名の南森町も大阪メトロの南森町駅も、方角は天満宮の北西でした。いったいどこから見て南の森なのでしょう。
 話は戦国時代にさかのぼります。織田信長が大坂本願寺との合戦の時、本陣としたのが天満の森です。信長本陣の位置について、星合の池と明星の池(第3回【後編】参照)との間と記された案内板が、天満宮の北側の星合(ほしあい)の池畔に建っています。もうひとつ付け加えると、江戸時代には北森町・南森町の両方がありました。
 情報をつなぎあわせると、南森町とは、天満の森を南北に分けたうちの南の森町ということになります。天満宮の背後にあった森が、江戸時代には市街の一部になっていくなかで森の名残りの地名が生まれたわけです。
 「それなら、こっちは天神の森」と、今度は西成区天神ノ森にお住いの方がつぶやきます。地元の天神ノ森天満宮④は応永年間(1394~1428)創祀の古社で、一ノ鳥居、二ノ鳥居から本殿までこんもりとした緑に覆われた姿は、まさに森。隣接の阪堺線・天神ノ森の停留所⑤も境内の緑に涼んでいます。良い清水が出るので、千利休の師の武野紹鴎(じょうおう)が茶室を設けたことから紹鴎森天満宮とも呼ばれました。
 ここまでの話で「ふむ、森と水はワンセットなんや」と頷かれた方、察しが早いです。守口、千林、森小路、天満は淀川の流れに沿って連なり、森之宮はかつての干潟や猫間川(第2回【後編】参照)と縁が深く、南森町は池畔の地名でした。水なしで森は育ちません。古代は内陸深くまで海が入りこみ、近世以後は水の都と呼ばれてきた大阪。森の地名と水の縁には、長い歴史がありました。

森地名・林地名の点と線

⑥中央区の森・東大阪市の森河内(右中央)「日本交通分県地図・大阪府」大正12年(1923)大阪毎日新聞

 このへんで地図を広げてみましょう。先にお話した天満の森、天神ノ森を目線でつなぐと大阪市街を貫く上町台地の西麓ラインが見えてきます。上町台地に大阪城はあります。城の東の森之宮から東へ目線を移していくと、東西のライン上に東大阪市があり、森河内という町名が現れます。
 東大阪市(旧河内国)の森を意味する森河内⑥は、先述の天満の森と同じく織田信長と大阪本願寺の合戦の舞台で、織田方の細川藤孝、明智光秀が陣を構えました。森は軍勢を伏せる場所で、森河内の北は長瀬川と寝屋川が交わる水運の要所。地元の森河内八幡神社には古木が多く、森の名残りの緑を繁らせています。大坂本願寺があったのは大阪城が建っているのと同じ上町台地の北端です。
 天満の森~天神ノ森の上町台地西麓ラインは南北に延び、森之宮~森河内の東西ラインと直交しています。交点には大阪城がそびえています。
 「河内森にもひとこと!」と、ここでかかった声は、やはり旧河内国の交野市の方からです。森河内と河内森。よく似ていますね。河内森は京阪電車の駅名で、所在地は私市(きさいち)ですが、駅の北側の町名が森北で、旧町名は森。駅の一帯にかつては緑の森がありました。
 森河内から河内森・森北へ。河内北部を縦断し、森地名を結ぶラインが延びていきます。
 「町名の森ならこっちにも」と手を挙げたのは貝塚市の方。貝塚市の森はかつて良質の材木産地で木島の森と呼ばれた町。水間鉄道の森駅、森ノ大池があります。
 河内から泉州へ。森地名を結ぶラインは南のエリアをつないで貝塚にまで延びました。
 冒頭にお話した守口(森口)・千林・森小路の淀川沿いラインと合わせて、地図の上に点々と散らばる森と林の地名を見渡すうちに、緑の点が線になり、面になって、大阪を覆っていた森と林の気配が立ち上がってきます。

まだある森と林の地名

⑦千早赤阪村の森屋(中央左)・赤阪城跡「日本交通分県地図・大阪府」大正12年(1923)大阪毎日新聞

 【前編】のもうひとつの話題に入る前に、その他の森地名、林地名に触れておきます。泉大津市の森町は江戸時代の森村がルーツ。千早赤阪村の森屋⑦は平安時代の荘園・杜屋荘(もりやのしょう)が起源で、江戸時代は森屋村。能勢町の森上は森ノ浦遺跡から弥生・古墳時代の土器が出土し、戦国時代には森上城が築かれ、江戸時代は森上村がありました。林の地名で言うと、生野区の林寺(はやしじ)は昔この地にあった林にちなむ地名と思われ、町名の林寺・林寺新家に残っています。藤井寺市の林は古代氏族の林氏の居住地だったのが地名由来。東大阪市の東部(旧枚岡市エリア)にあった林燈油園(はやしとうゆえん)は平安~室町時代の荘園名。地図の上の森と林の地名から、緑の気配が立ち上がってきます。

大阪には桃地名があった

⑧初夏、まもなく花ひらく桃ヶ池の蓮 ⑨桃ヶ池の由来を物語る股ヶ池明神

 さて、森と林の字は木でできています。木は第3回の【前編】で桜、【後編】で梅の話をしましたが、今回は桃。『古事記』『日本書紀』にも登場する果樹で、大阪の地名にも根づいています。
 まずは天王寺区の桃山。かつて玉造から天王寺まで広がっていた桃畑にちなむ広域の呼び名で、春の開花期は花見の人出で賑わう名所でした。明治後半の市街地化で、残念ながら桃畑は消滅。桃山とも呼ばれなくなりました。現在のJR桃谷駅の西側一帯が往年の桃名所の中心で、東側の生野区エリアに桃谷という町名が残っています。桃谷駅のシンボルフラワーはもちろん桃。桃山は丘、桃谷はその麓で、丘の上と斜面に桃畑……地名から見えてくる桃一色の風景です。
 続いて、阿倍野区の桃ケ池町。町名由来の桃ヶ池には、聖徳太子に命じられて竜退治に来た使者が、人の股までの浅い池だったので退治できたとの伝承があります。もとの表記の股ケ池が、後に桃ケ池という美称に転じたわけです。現在の桃ヶ池は蓮の花の名所⑧。池畔の股ヶ池明神⑨は緑の木立の中。池は花と緑がいっぱいの桃ヶ池公園の中にあります。桃山・桃谷と同様、桃ヶ池にも桃の木は見られませんが、伝承を離れて独り歩きした桃のイメージは、ここでも風景を明るく彩っています。

桃の美称地名

 股ケ池が桃ケ池になったのは美称を好む心理のあらわれでした。第3回【前編後編】に桜や梅の美称地名が昭和になって続々と出現したという話をしましたが、桃でも似た現象が起きました。
 守口市の桃町は、昭和14年(1939)生まれの町名で、隣が梅町。池田市の桃園の前身は戦中の昭和19年(1944)生まれの桃園町。小字名にちなんでの命名でした。
 桃山台は3つの市にあり、吹田市の千里ニュータウンでは昭和42年(1967)、堺市の泉北ニュータウンでは昭和47年(1972)、羽曳野市でも昭和54年(1979)に誕生。また、阪南市では平成8年(1996)に桃の木台のニュータウンとして阪南スカイタウンがまちびらきしています。
 桜・梅ほど数は多くありませんが、桃もなかなかの人気者。梅・桃に続いて艶やかな花を咲かせます。

のどかな花地名、なごみの緑地名

⑩十三公園の通称は花の公園、もくれんの名所 ⑪花の公園、桜の花遊びのススメ

 【前編】のしめくくりに、今回のテーマの「花」あるいは「緑」の1字を織り込んだ地名を見ておきましょう。最初に紹介するのは、「花の公園」の愛称で親しまれる十三公園です。もくれんの名所⑩で、桜も見られる地域の憩いの場。「花輪づくり」「やにあそび」に誘うイラストがなんとものどかです⑪。
 西淀川区の花川は、もとは海老江町。昭和3年(1928)より花川町になり、昭和48年(1973)から花川に。和泉市の納花町(のうげちょう)は昔、施福寺の花畑があり、四季の花を寺に納めていたので納花です。槇尾川流域で谷山池という池もある水辺の村でした。明治半ばからは大字名でしたが、昭和31年(1956)に納花町になりました。
 続いては緑の地名です。鶴見区の緑は、エリアの一部が鶴見緑地と重なるのにちなんだ町名。堺市・守口市・寝屋川市・高槻市の緑町は昭和生まれの新町名で、桃地名と同様に美称としての命名。八尾市・和泉市の緑ヶ丘、大東市・高槻市の緑が丘、豊中市・池田市の緑丘、富田林市・河内長野市・堺市の緑ヶ丘町もそれぞれ昭和の新町名です。
 住之江区の緑木の町名由来はひねりが効いています。幕末に当地を開発した桜井甚兵衛の「桜」の旧字の「櫻」を嬰と木に分け、「嬰(みどり)」を緑の字に代えて再構成。緑木(みどりぎ)とは嬰児(みどりご)のもじりでしょう。新芽のように若々しい子供を意味する「みどりご」にあやかって、新開地の誕生を祝ったのです。ひねって、もじって、最後に和ませてもらいつつ、【前編】をしめくくりたいと思います。

 以上、森と林が主役の【前編】はここまで。かつて各所にあった森や林と呼ばれる緑の帯は、姿を消したものが多いと思われ、現存している緑は貴重です。地名を手がかりによみがえった記憶から、残された小さな森のもとの姿をイメージするのは、なかなか楽しい作業です。桜と梅だけでなく桃の木も地名の中で花を咲かせていましたね。
 【後編】では森と並ぶ大阪の花と緑のキーワードが最後の方で登場します。それは、おなじみのあの木。大阪名所と縁の深い、あの木とはいったい何でしょう。