• その9

場所が仕事をつくってきた【前編】 ―そして、時代は変わっていく― 2022年6月8日

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花はうつろい、人もうつろう。

①端建蔵橋は蔵を建てた働き者の話にちなんだ名ともいう

 前回まで、動物や花、草木にまつわる地名の話をしてきました。今回のテーマは「お仕事」。さまざまな職業、なりわい、役目などに関わる地名を訪ねます。愛でたり和んだり、親しみの対象になる動植物に対して、働いたり稼いだり、日々の営みに直結する仕事はどんなかたちで地名に根づいているでしょう。 
 まずは大阪市中から訪ねます。例えば、北区の土佐堀川に架かる端建蔵橋(はたてくらばし)①。初代の橋は明治時代に架けられました。蔵屋敷が並ぶ中之島の西の端にあるのが名の由来といわれますが、今はもう蔵屋敷の姿はなく、多彩なミュージアムがエリアの顔に。橋名は裸足で働く倹約家が蓄財して蔵を建てたのにちなむとの説もあります。裸足蔵が端建蔵に転じたというのですが、それはかつての頑張る働き方のモデルでもありました。さて、今はどうでしょう。一生懸命働けば蔵が建つとは限らず、蔵が豊かさの象徴ともいえなくなりました。
 時代とともに働き方は変わります。花も人もうつろいますが、うつろい方は人のほうがせわしなく、お仕事地名には時流を感じさせるものが多いです。そこに何を見出すかは、人それぞれ。今回登場する地名は、何を語りかけてくれるでしょうか。

瓦が地名になる時

②瓦屋橋の欄干に瓦の土取場は4万6千坪と記した碑がある ③瓦屋橋らしく高欄は丸瓦のイメージ

 次も橋の話題です。とりあげるのは中央区の瓦屋橋②③(位置は後掲の「浪花名所独案内」参照)。東横堀川に架かる欄干に記された碑文によると、江戸時代には良質の粘土が採れ、近隣は瓦の産地でした。今も町名は瓦屋町で、近くには瓦屋町公園もあります。
 江戸時代の瓦屋橋の東詰一帯は南瓦屋町と呼ばれ、瓦の窯や土取場、瓦の積み出し場がありました。瓦を積んだ船の賑わいは、瓦屋橋から東横堀川へ、さらに市中の堀川へ広がり、市外にも伸びていきました。当地の瓦は、大阪城や京都の御所、二条城や多くの寺社にも供給されたのです。寺島家という瓦の専売権を持つ幕府の御用商人がいて、瓦の町には瓦を作る人、運ぶ人、売る人など、瓦に関わる仕事に携わる人々が集まり住んだといいます。風景は変わり、今の瓦屋橋は高架の下。丸瓦を想わせる橋の高欄が、瓦の町の面影です。

もうひとつの瓦の町名

④瓦町(上)⑤唐物町(下) 大阪市区分地図「東区」昭和27年(1952)栄進社

 瓦屋町、瓦屋橋とは少し離れた場所にも、瓦にちなんだ町名があります。同じ中央区にある瓦町です。旧区名で言うと、瓦屋町と瓦屋橋は南区、瓦町④は東区の町名です。
 旧東区の瓦町には建築関係の仕事に携わる人々が住んでいました。戸棚や風呂の細工職人、障子や襖を扱う商人、鉄問屋などです。北隣りの淡路町、南隣りの備後町など仕事と結びつかない町名のエリアにも、箪笥(たんす)屋、大工道具の職人、鉄問屋がいたとのこと。
 同じく旧東区にあった唐物町⑤は、江戸時代に唐物(からもの)と呼ばれた長崎での貿易品を扱う店が多かったのにちなむ町名。今は船場中央の一部です。他にも錫屋町・南鍋屋町・蝋燭町・笠屋町などの町名がありましたが、残念ながら消滅。
 瓦町がある旧東区はかつての大阪城下町の中心で、武家屋敷と北船場の大店が並ぶエリアでしたが、さまざまな職人と商人が集住する風景も見られ、街の活気を生み出していたのです。

広々として何もない地名

⑥ノバク(左上)⑦瓦屋橋(右下)「浪花名所独案内」暁鐘成・作 天保年間(清林文庫蔵) ⑧空堀商店街の北の風景。坂の上は榎大明神

 次は、なくなった後も語り継がれる地名の話。「昔、商店街の北側に野獏(ノバク)⑥といって、だだっ広い空き地があって……」と、著者は以前、中央区の空堀商店街の古いお店の方から聞きました。獏とは「広々として何もないさま」(『広辞苑』)。野獏とは、まさにだだっ広い野原のことで、どうして街なかにそんなものがと不思議に思いましたが、後に瓦の土取場だったと判明。先述の瓦屋橋⑦、瓦屋町は空堀商店街の南に接する町で、こうして話がつながりました。空堀商店街は大阪城の空堀(水のない堀)があった場所としても知られていますが、北側一帯の起伏に富んだ風景は、江戸時代の瓦産業と深い関係があったわけです。
 瓦屋町の話に出てきた寺島家の初代は、豊臣と徳川の両家から瓦の御用を受けた瓦商人でした。2代目は元和元年(1615)、南瓦町(今の瓦屋町)に屋敷地を拝領。寺島家で最も有名なのは4代目の藤右衛門で、寛永7年(1630)屋敷地の東北に瓦の土取場を与えられ、明治維新に至るまで寺島家は瓦専売の特権を持ちました。土を採取した跡は野獏になり、天保年間の観光案内図「浪花名所独案内」にもノバクが載っています。浪花名所に数えられたノバクはただのだだっ広い空き地ではなく、瓦産業がもたらした経済発展の象徴だったわけです。

両替町。引っ越しする地名

⑨両替町の旧町名顕彰碑は中央大通りの道路脇 ⑩天五に平五十兵衛横町の碑。後ろは小学校

 江戸時代の大坂は30~40万人の人口を抱え、江戸、京都とともに三都と呼ばれた大都市でした。今の中央区、北区、西区を合わせたよりも小さい面積に、商都の機能を凝縮。有力商人の多くは現在の金融業にあたる両替商を営み、華々しい成功をおさめていました。中央区(旧東区エリア)には両替町という町名もありました。
 「それ、うちの会社の近所です」とは、中央大通りを徒歩で通勤中の方から。沿道に両替町の旧町名顕彰碑⑨があるとのこと。現在の町名は常盤町。大坂城下町建設の時に、伏見の両替町にいた伏見町人が当地に移り住んだのが旧町名の由来です。伏見の両替町は豊臣秀吉が伏見城を建て、町を改造した時に生まれ、後に徳川家康が銀座を置きました。京都で両替商が栄えたのは、現在の中京区にあったもうひとつの両替町で、伏見の両替町は繁栄した商業地ではありましたが、金融業に関しては不明。大坂にできた両替町も同様で、有力な両替商の集住地として著名になったのは北浜や今橋通り、高麗橋通り、平野町通りなど北船場の方でした。
 「そういう話は十兵衛横町でやって」とのアピールは、北浜駅近くの今橋1丁目の小学校に通うランドセル姿の児童から。地元の小学校の前に建つ「天五に平五・十兵衛横町の碑」⑩のことですね。天五とは天王寺屋五兵衛、平五は平野屋五兵衛をさし、どちらも江戸時代を代表する両替商。碑があるのは両家の屋敷が隣り合わせで建っていた跡地。「五兵衛が二人で十兵衛横町なんやて」と、児童が教えてくれました。
 旧東区エリアで明治維新の後、いくつもの銀行が生まれたのは土地柄の反映。そういえば、先述の両替町の旧町名顕彰碑が建っていたのも銀行の前。これも地名が引き寄せた縁でしょうか。

鑓屋町の文豪、西鶴が残した言葉

⑪YARIYAMACHIに井原西鶴は住んでいた ⑫本町橋3丁目の西鶴文学碑『日本永代蔵』 ⑬鑓屋町のとあるお店の看板

 伏見から引っ越ししてきた地名は、他にも左官町があります。旧東区にあった町名で、公儀向けの左官の住居があったともいわれますが、詳細は不明。
 伏見から来て今も残っている町名では、鑓屋町(やりやまち)が井原西鶴の住居があったので知られています⑪。鑓屋の由来は不詳ですが、伏見にあった鑓屋町は伏見城から南へ延びる町筋に武家屋敷が並んでいたそうで、鑓を連想させなくもありません。由来はともかく、鑓屋町からすぐの本町橋3丁目に建つ西鶴文学碑⑫に、ひと言触れておきましょう。碑に刻まれているのは西鶴著『日本永代蔵』の一節。「始末大明神の御託宣にまかせ、金銀を溜むべし」をどう読むか。蓄財を尊ぶ人生訓とするのは当たりません。西鶴は金銀に翻弄される人々の姿をありのままに描くリアリスト。始末や倹約を奨励したのではなく、金が金を生む仕組みができあがった江戸中期、両替商が繁栄した世相の功罪両面を書いたのが西鶴という作者でした。その目は現代まで見通していたと言えるかもしれません。
 今、鑓屋町を歩くと、「鑓屋町」「YARIYAMACHI」をロゴにしたお店が目につきます⑫。古風な町名を愛でるのは、文豪西鶴の出身地ならではの現象でしょうか。昔をなぞりながら、地名が独り歩きを始めています。

 【前編】はここまで。紹介した以外にも、職業、なりわいにちなんだと思われる地名は、大阪市中に少なからずあります。地名由来不詳などが理由です。仕事の変遷は早く、記録に残らないケースが多いのです。そのため、これまでの回より登場地名の数が減り、ひとつひとつの話が少し長くなりました。【後編】も大阪市中の話が続きます。トリには、どんなお仕事地名が登場するでしょうか。