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花も緑もある大阪【後編】 ―芦と柳と松と…まだまだ他にも― 2022年5月12日

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花博生まれの花のライン

⑫花博ハンドブックを見ると鶴見緑地を思い出す ⑬ハンドブックの「咲くやこの花館」図解ページ

 平成2年(1990)大阪で開催された花の万博(国際花と緑の博覧会)⑫は、身近なのに知られていなかった花と緑の豊かさ再発見の場になりました。その一点だけで、もう十分に画期的。予想を上回る2800万人の来場があったのも、多くの人が求めていたものがそこにあったからこそでしょう。
 鶴見区、守口市にまたがっていた花の万博の跡地は、花博記念公園・鶴見緑地になりました。花博で話題を呼んだ国内最大級の温室「咲くやこの花館」⑬は今も現役の人気スポットです。「咲くやこの花館」の名は、『日本書紀』の「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌にちなみ、此花区(第3回【後編】参照)と由来を共有しています。守口・鶴見区と此花区の間を花のラインが結んだ格好です。
 「咲くやこの花館」の外観は、緑地周辺がかつての湿地帯で、水面に浮かぶ睡蓮の花をイメージしたとのことで、上町台地の東にあった古代の干潟が原風景。守口市は淀川の上流、此花区は淀川の河口エリアで、花地名にも森地名・林地名と同じく水辺との深い縁を感じます。そういえば花博に合わせて堂島川に架けられた中之島ガーデンブリッジは、水都の庭をイメージして誕生したのでした。

潮の香りの草地名

 草葉(くさば)という言葉があります。「人は草葉の露なれや」(『和泉式部日記』)であれば、ささやかなもの、とるにたりないもの。「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」(『奥の細道』)ならば、青々とした盛んな勢い。草葉には両面があるようですが、大阪の地名に聞くと、どんな声が返ってくるでしょう。
 「草といえば芦!」
 元気のいい声に乗って潮の香りがします。なるほど、大阪で草といえば古くから芦ですね。そういえば浪速区の町名の塩草は、一帯が塩(潮)の匂いがする湿地の草(芦)の原だったのにちなみます。海の匂いは生命の匂い。塩草の隣には、町名の芦原、JRの芦原橋駅もあり、浪速区の名は古代の港の浪速津からとったもの。一連の地名から、水辺に生い茂る芦の風景が浮かびあがってきます。
 西区にもかつては芦地名がありました。芦島は今の北堀江・南堀江にあたるエリアですが、大坂冬の陣で真田信繁(幸村)が家康を待ち伏せした地ともいわれます。今の堀江の賑わいからは想像できませんが、戦国末期に地名どおりの芦の茂る島(砂洲)があったのなら、軍勢を伏せておくには絶好の場所だったでしょう。
 かつての芦地名は堺市にもあります。今の旅籠町西、半町西にまたがっていた芦原町は明治5年(1872)までの町名。戦国期には眺望の名所の芦原浜で、後に砂洲が広がり、江戸時代には町場になって開口神社の御旅所が建ちました。芦は賑わいを呼ぶ草なのかもしれません。

太陽の昇る草深いところ

 草の字が表に出ていない草地名もあります。東大阪市の日下(くさか)は、かつては草香、草賀とも書きました。『日本書紀』にも登場した古い地名で、東に太陽の昇る草深いところを意味する言葉「日下(ひのした)の草処(くさか)」によるとされます。現在の表記の日下は、太陽の光を浴びる草原と一対でした。日下町にある国史跡の日下貝塚は、古代の干潟の恵みと人の営みの記憶を伝えていますが、そこにはきっと潮風になびく芦の原があったでしょう。
 太陽が昇る方向には生駒の山々が連なります。山登りの道は孔舎衙坂(くさかざか)と呼ばれました。草の字は出てきませんが、陽が昇る坂道は山の草であふれていたでしょう。
 草地名の最後に美称としての若草に触れておきます。茨木市・東大阪市・八尾市にある若草町はいずれも昭和後半生まれの新町名。同時期に増殖した桜地名・梅地名(第3回【前編後編】参照)の派手さはなくても、若草のイメージも地域に潤いをもたらしたことでしょう。

地名になった葛の葉と楠の葉

⑭枚方市の楠葉(右中央)「日本交通分県地図・大阪府」大正12年(1923)大阪毎日新聞

 「草」の次は「葉」の地名の話。まずは和泉市の葛の葉町から。
 もとは浄瑠璃や歌舞伎の主人公で、後に小説・漫画・映画でも有名になった陰陽師の安倍晴明は、和泉国信太(しのだ)の森の葛の葉狐を母として生まれました。和泉市の葛の葉町は、葛の葉狐を祀る葛の葉稲荷の所在地として知られています。神社の正式名は信太森神社で、創建は和銅元年(708)。晴明の父の安倍保名(やすな)と葛の葉狐との恋物語を今も伝え、境内の森も健在。町名の葛の葉町は昭和35年(1960)の命名なので、土地の伝承に地名がようやく追いついた格好です。
 次は枚方市の楠葉(くずは)⑭。地名由来について、『古事記』に崇神天皇の時代に敗軍の兵が「屎褌(くそばかま)」姿で逃げた地とあり、そこから転じたとする説がありますが、ここでは別の話をご紹介しましょう。延暦6年(787)創建の交野神社は楠葉にあり、その周辺は継体天皇の樟葉宮(くずはのみや)があったとされ、神社の前に「樟葉宮旧跡」が建っています。継体天皇は6世紀の人で、一時期、樟葉宮に住みました。楠葉の地名と樟葉宮の名と、どちらが先だったのか、考えてみるのは面白いかもしれません。
 今、枚方市には楠葉朝日・楠葉丘・楠葉花園町・楠葉美咲町・楠葉面取町(めんどりちょう)と、楠葉を冠した町名がいくつもあり、京阪電車には樟葉駅があります。昭和半ばまで船着場の楠葉浜もありました。楠葉の由来はともかく、楠(樟)が古代から人々に好まれた木であったのは確かなようです。楠の葉は、もむとよい香りがします。
 草地名と同様に、美称としての葉の地名もありました。寝屋川市の若葉で、昭和43年(1968)生れの新町名です。豊中市にも昭和の一時期、若葉通がありましたが、町名変更で一部が立花町になりました。葉の地名が花木の地名に転身した珍しい例です。

栴檀せんだんの木と柳の木

⑮栴檀木橋と中央公会堂はひとつの風景

 さて、【前編】と【後編】のここまでで、3つの草木が登場しました。桃と芦と楠ですね。それ以外の草木の地名はどうなっているでしょう。
 著者の場合、大阪の木の地名で思い浮かぶのは、北区の栴檀木橋(せんだんのきばし)です。昔、この橋から延びる筋に栴檀の木があったのにちなむ命名と伝えられます。今の橋は江戸初期の初代から数えて4代目です。
 「栴檀木橋うつくしそれゆえに渡ることなく時は過ぎたり」と現代歌人の江戸雪は詠みました。栴檀木橋は大阪の名橋のひとつ。南の橋詰に立つと左右の欄干が延びていくその奥に赤く映えるもの……大正生まれの名建築、大阪市中央公会堂の赤煉瓦です⑮。橋を渡るのを忘れて眺めます。かつては市街のあちらこちらで栴檀の古木が見られたそうです。
 あちらこちらで見られたといえば、柳もそうでした。中央区にあった柳町は明治5年(1872)に西清水町に、西成区にあった柳通は昭和48年(1973)に潮路・岸里・花園などの町名に変更。それぞれ水辺または花にまつわる名前になったのは、柳がもともと川辺で多く見られたことを思えば、頷けます。
 堺市に今もある柳之町西・柳之町東は明治5年(1872)生まれの町名ですが、どちらももとの町名に柳の字が付いていました。門真市には昭和40年(1965)に柳町、高槻市には昭和42年(1967)に柳川町が誕生。水辺に枝を垂れる柳の風情が好まれ、地名になったのでしょう。

似たもの同士の木の地名

⑯堀江立花通りの通称はさわやか、オレンジストリート

 柳地名の最後に出てきた高槻市ですが、高槻という市名の「槻」は、欅(けやき)の古名。欅は梢が高く広がる姿が愛でられた木です。隣りの茨木市も木の市名で、文字通り茨の木が繁った地を意味しています。
 高槻と似た町名の高木町が昭和48年(1973)まであったのは松原市です。羽曳野市には小字の地名で高木が残っています。どちらも室町時代は高木荘と呼ばれる荘園でした。
 泉州の岸和田市と和泉市に、春木という地名があり、昔は岸和田市の方を里春木、和泉市の方を山春木と呼んで区別していたそうです。岸和田の春木は西福寺に薪を納める風習にちなんだ命名。和泉市の春木は春日神社の社領でした。木の地名が寺社を介して生まれることもしばしばでした。
 柑橘類の木を総称する橘(立花)も各地で見られる地名です。豊中市の立花町、東大阪市の立花町は現役の町名。西区では南堀江の立花通がよく知られた現役地名。以前は家具の街、今は雑貨やファッションの店が増え、若者が集まるスポットになりました。通称のオレンジストリート⑯は、さわやかな柑橘系のイメージを押し出したものです。
 一方で西区の橘町と橘通、平野区の橘町、堺市の立花通など過去のものになった町名もあります。消えた地名、生まれた地名、変わる地名、変わらない地名。よく似た地名でありながら、たどる道はさまざまで、それもまた地名の面白さ、奥深さと言えるでしょう。

木と水をつなぐ橋

⑰木津川橋(初代)の錦絵と橋の歴史案内 ⑱木津川橋からの眺め、今はこんな感じ

 「そろそろ、あの川の話をしておいた方が……」と、気をもんでいるのは、話のフィナーレが近づいているのを察した方ですね。確かにこのへんで、あの川の名をご紹介しておいた方がよさそうです。その名は木津川⑰⑱。聖徳太子の四天王寺建立の時、各地の材木が運ばれた川と伝えられ、木津とは木の港の意味です。流域には古くから材木置場があり、川は材木市への流通の水路になっていました。
 木津の地名として、中世には木津の浜、江戸時代には木津村がありました。今は浪速区に町名の木津川があり、木津卸売市場も賑わっています。他にも、西区の木津川橋、大正区の木津川運河、新木津川大橋など木津を冠した地名は今もあちこちに。そうです。水の都の大阪は、木の都でもありました。

緑といえば松だった

⑲㉑西成区の姫松通(右中央)・岸松通(左中央)「大大阪区勢地図・最新の住吉区」昭和15年(1940)夕刊大阪新聞 ⑳姫松交差点は阿倍野と帝塚山の境界でもある

 というわけで、花と緑の大阪の話もフィナーレに向かいます。登場するのは、松地名。数ある大阪の花と緑の地名の中でも、【前編】に出て来た森と並ぶ一大勢力です。順を追って紹介します。
 ひとつめは松原地名。白砂青松という言葉があるように、松は昔から浜辺を彩る緑の代表でした。川畔の松も名所に数えられる場所が少なくありません。大阪湾に抱かれ、大小の河川と堀川が流れる大阪で松地名が栄えたのも道理。キーワードが松原で、松原を冠した松地名の筆頭格といえば、住吉区の霰松原(あられまつばら)です。
 あられ打つあられ松原住吉の弟日(おとひ)娘と見れど飽かぬかも
 と、『万葉集』の歌に詠まれた風景は、あられが降るごとく潮風に緑がなびく松原。あの娘といっしょに飽きずに眺めた日が懐かしい……。今、住吉区安立(あんりゅう)町の安立小学校前に霰松原の碑が建ち、昔はこの一帯が美しい浜辺だったと物語っています。
 続いて、阪堺軌道上町線と南港通りが交わる姫松交差点には、『古今和歌集』の次の歌がぴったり。
 我見ても久しくなりぬ住吉の岸の姫松いく夜経ぬらん
 この歌の主は、姫松を眺め続けていったいどれだけの月日を過ごしたのでしょう。
 姫松と呼ばれた松にちなんだ地名は西成区にも、姫松通⑲⑳があります。同区には敷津松之宮神社が所在する松という町名や、過去には海辺の松原にちなんだ松原通、岸松通㉑もありました。松原の町名は東住吉区・堺市でもなくなりましたが、高槻市・東大阪市・泉佐野市では残っています。泉大津市の松之浜町も残った松の地名の仲間です。
 松原地名のしめくくりは松原市です。平安時代の荘園の松原荘が松原村になり、昭和の松原町、現在の松原市ができました。見事に松原一筋の市名です。

鼻のある松、島になった松

㉒公園の近くに松島遊廓、松島橋の跡碑がひっそりと

 天王寺区の松ヶ鼻町は桃の名所の桃山(桃山の項参照)の一角を占め、猫間川(第2回【後編】参照)を臨む高台にありました。松ヶ鼻の由来は不明ですが、高台の先端に松の木がある風景が連想されます。戦後、周囲の風景は変わりましたが、残された地名は街なかの景勝地のイメージを伝えています。
 よく似た地名の松ノ鼻浜は、枚方市の淀川畔にあった松ノ鼻の船着場の名。明治43年(1910)に京阪電車が開通して、船運がすたれるまで運航していました。松ノ鼻の地名から、川端の鼻先の眺めのいい場所だったと想像されます。
 天王寺区には松崎町もあり、前身の町名のひとつが一本松。松の地名が受け継がれていたのがわかります。
 西区の松島公園がある場所は、松島遊廓の跡地㉒です。川に囲まれた松島へは松島橋を渡って行きました。松島とは客寄せのための美称地名。明治に生まれ、昭和の半ばまであった遊廓の記憶を留める碑が公園の近くに残っています。町名の松島町も遊廓とともに生まれて消えました。

住吉の松と天満の森の交わるところ

㉓若松町の旧町名顕彰碑のかたわらに松の木が一本 ㉔老松通りは骨董店とギャラリーの街

 草葉の地名の項で、美称としての若草・若葉の話をしました。松の地名にも若松があります。若松町は高槻市・富田林市、若松通が東大阪市・豊中市、若松台が堺市の泉北ニュータウンにあり、いずれも昭和後半生まれです。若松にはみずみずしい緑の他に、昔からおめでたいイメージもあって好まれました。
 そんな中、北区の若松町は明治生まれで昭和後半に消えました。町名は西天満になりましたが、若松町の旧町名顕彰碑が残り㉓、そのかたわらに松の木が一本、枝を張っています。堂島川の畔に西天満若松公園もあり、休憩やランチタイムのスペースに。若松はまだ生きています。
 北区の若松町は、北隣りの老松町と対になる名として命名されました。老松町㉔の由来は地元にあった松の老木に住吉の神が影向したとの伝承で、もとは住吉町と名乗っていました。江戸時代に老松町となり、昭和53年(1978)に天神西町と西天満に町名変更。今は老松通りの名が残り、骨董店とギャラリーが軒を並べる老松骨董街として知られるようになりました。
 北区は大阪天満宮をはじめ天神社がいくつも連なる天神エリアです。【前編】で天満の森の話をしましたが、そんな天神のお膝元で、住吉の松にちなむ老松町が生まれ、若松町がそれに続き、町名変更された後も息長く存在感を示しているのは興味深いことです。地名の生命力にあらためて感服します。
 老松通を歩くと、住吉のよく知られた地名を看板に掲げた骨董店が見つかります。通りがあるのは西天満の一角です。偶然と知りつつ、住吉の松と天満の森が邂逅する物語をつい思い描いてしまいます。
 ちなみに、老松町は堺市にもあります。堺の旧市街はもともと住吉大社の社領でした。住吉大社の江戸から明治にかけての絵図には、鳥居の目の前に広々とした松原が描かれています。社前の風景は変わりましたが、地名は昔をよく覚えています。

松の地名あれこれ

㉕泉大津市の助松(左上)「日本交通分県地図・大阪府」大正12年(1923)大阪毎日新聞

 中央区と平野区の松山町、西区の松本町はなくなった松地名の例。守口市の松町、寝屋川市の松屋町、八尾市の松山町は現役の松地名の例です。いずれも由来は不明。これらの松地名は一部の例外を除いて、生れた年代、消えた年代ともに昭和です。他の地名でも昭和は大きな変化があった時代でした。
 そんな中で泉大津市の助松町㉕は、海辺にあった松林と土地の開発者の幼名を合わせた助松に由来する命名で、室町時代から続く呼び名でした。昭和になって新町名の助松団地も生まれています。
 中央区の松屋町(まっちゃまち)は、お菓子と人形・玩具の街で有名。当地に松屋を名乗る人物の屋敷があったのが町名由来で、松の地名とは言い難いのですが、ここはお屋敷の庭にあったかもしれない松の木を想像しておきましょう。天神橋の南詰から天王寺公園まで延びる松屋町筋もおなじみですね。

花の地名の大トリ

㉖北区の浪花町「大大阪実測地図」大正15年(1926)文進堂 ㉗江戸時代の大坂案内絵図「浪花名所独案内」(清林文庫蔵)

 さて、これが本当のフィナーレです。大阪の花と緑の地名の大トリにふさわしい花の地名、花地名の中の花地名といえば……。
 それは浪花です!
 言わずと知れた大阪の古名で、知らない人はいないというくらい有名ですが、浪花に大小2つあったのはご存じでしたか。
 小さい方の浪花は、大阪メトロ天神橋筋六丁目駅の南西角にある浪花町㉖。この町名が誕生したのは大正13年(1924)で、あと少しで100歳を迎えます。
 大きい方の浪花㉗は、同じく「なにわ」と読む浪速・難波とともに古来の大阪の呼び名で、『日本書紀』にも記されています。大阪湾にうち寄せる波(浪)の姿をあらわす3つの呼び名のひとつ、浪花。「浪」と「花」の2文字のとりあわせは、水辺と花の深い関りを物語る大阪の地名のまさに象徴と言えるでしょう。

 第4回花と緑編、いかがでしたか。桜と梅がテーマだった第3回と合わせて振り返ると、花と緑の地名にはたびたび流行の波があったとわかります。1990年に花博があり、インターネットに乗って情報の大波がやって来て、今は昔より、目にする花と緑の種類がぐんと増えました。カタカナの花地名が普通になる日が来ないとも言えない時代です(すでに水上バス船着場のローズポートがあります)。そんな中で、桜と梅、森と松の地名はせめぎあいながら共存し、他の花と緑の地名もそれぞれに変遷してきました。大阪の地名の世界は生き物です。
 さて恒例の集計報告。第4回花と緑【前編】【後編】の登場地名数を発表します。地名数の総計は169箇所。大阪市中では中央区が14箇所で最多。以下、北区11箇所、西区9箇所、西成区8箇所と続きます。府域では枚方市が11箇所で最多。以下、堺市9箇所、東大阪市8箇所の順でした。

 次回のテーマは大阪のお仕事地名です。新年度から社会人になったみなさん、その後いかがお過ごしですか。仕事・職業にまつわる、どんな地名が登場するのか、お楽しみに。