心斎橋筋は江戸時代から、大阪随一の繁華街として栄えていた。1717年に京都で創業した大丸呉服店が、心斎橋の地に店舗を構えたのは1726年。明治に入って徐々にモダンな商品が並ぶようになり、通りや店構えも洋風に変化、大丸も1918年、ゴシック様式の近代的な4階建の店舗を構えるに至った。ここから大丸と建築家、W・M・ヴォーリズとの長い付き合いがはじまる。住宅や教会、学校建築などを数多く手がけたヴォーリズだったが、商業建築はこれが初めて。大阪における百貨店建築としては、1917年に堺筋に建てられた三越百貨店に次ぐものであった。しかし残念ながら、1920年に火事で焼失してしまう。
大丸の再起をかけ、耐火耐震の鉄筋コンクリートで再建されたものが現在の建物。第1期が竣工した1922年から1933年まで10年以上かけて、4期に分けて建てられた。まず心斎橋筋側から南半分、北半分と順番に建てた時点で一度オープンしたが、拡幅されつつあった御堂筋に面して西側ブロックの増築が続けて計画され、御堂筋側の南半分、そして残りの北半分を1933年に完成させた。大丸全館が完成した年には地下鉄御堂筋線の梅田〜心斎橋間が開通、建築家・武田五一によってデザインされた華麗なゼツェッション様式の駅舎と百貨店が地下で結ばれた(
第6回「駅・空港」参照)。ちなみに、大丸の構造設計は
通天閣を設計した、内藤多仲が担当している。
全体に落ち着いた印象のクラシックな心斎橋筋側と、ネオ・ゴシック様式に基づくアール・デコ調の華麗な御堂筋側のコントラストが面白いが、全体を統一する3層構成と、中間階のシックなスクラッチタイルのおかげで、それほど違和感は感じない。心斎橋筋側の正面玄関アーチには、テラコッタでつくられた大丸のシンボルであるピーコック(孔雀)が飾られているが、当初の設計では旧館焼失からの再起を象徴してフェニックス(不死鳥)を指示していたのに、なぜかニューヨークのメーカーが勝手にピーコックにして送ってきたという逸話が残っている。御堂筋側の幾何学的なパターンを幾重にも重ねた装飾は通りを行く人の目を楽しませる。特に雪の結晶のような正面玄関廻りのデザインは圧巻だ。日本を代表するアール・デコ建築といっていいだろう。
商業建築の常として、内部空間は大きく改変されてしまっているが、それでもオリジナルの華麗な装飾を残す部分は多い。特に1階のEVホールとその周辺、階段廻りは息を呑むほどの美しさだ。買い物に訪れた人は商品にばかり目を取られていないで、是非天井を見上げてみてほしい。天井の高い1階にはメザニンと呼ばれる中2階が設けられ、現在はカフェになっていて優雅なときを楽しむことができるが、かつてはここでオーケストラが生演奏を披露していたという。2階のEVホールは1階と全くデザインが異なり、マシンエイジのニューヨークそのままの、インジケーターや照明を見ることができる。掛け値なしにかっこいい。
近年、百貨店の建て替えが相次いでいる。大丸心斎橋店についても、いよいよ建て替えという噂が何度も流れた。しかし、大丸心斎橋店には何とか残ってほしい、というか残して将来に引き継がなければならない。大阪の都市文化が最も華やかだった時代、大阪がどれほどモダンで粋だったかを、今に伝える最大の遺産なのだから。世間をあっと言わせる新しい「どや建築」を生み出せないのなら、そのくらいはしないといけない。いや、本当に。