文/高岡伸一
絵/綱本武雄
2011年の新語・流行語大賞の候補60語に、「どや顔」という言葉がノミネートされている。「どや顔」とは、「どうや?(すごいやろ?)」と何かを自慢するときの、誇らしげな顔のこと。関西芸人がテレビなどで使い始めて一般化し、今は関西以外でも、日常的に使われるようになった。
ということで、今回は大阪の街に圧倒的な存在感を放つ、「どや顔」ならぬ「どや建築」を取り上げてみたい。「どや建築」は、単に「すごい」建築とは違う(と思う)。例えばオリンピックでメダルを取ったとか、ノーベル賞を受賞したといった公的な偉業を達成した人に対して、「どや顔」とはあまり言わない。だいたい「どや顔」が使われるシチュエーションというのは、誰かが何かについて得意気に話をした際、「なんやそのどや顔は?」と突っ込まれ、笑いが起こってオチがつくというものだろう。「どや顔」には、常に「笑い」が伴う。「そんなこと自慢されても…」とか、「何もそこまでやらんでも…」とか、これも最近の言葉でいうところの、「斜め上」をいく言動の可笑しみといったようなものが、「どや顔」には含まれている(ような気がする)。と、勝手に「どや建築」を定義して、時代順に大阪の「どや建築」を紹介していこう。
大正時代の終わりから昭和のはじめにかけて、東京を凌ぐ経済と文化を誇り、自らわが街を「大大阪」と呼んだ大阪人・総どや顔時代からは、W・M・ヴォーリズが設計した大丸心斎橋店。モダンな品々がショーウィンドウを飾った心斎橋筋に建つ、20世紀消費社会の到来を告げた百貨店建築。ヴォーリズは敬虔なキリスト教信者で、数多くの教会や学校建築を手がけた「どや顔」とはほど遠い人格者だが、ここではアメリカ人としてのヤンキー魂に火が付いたのか、当時ニューヨークの摩天楼を飾ったアール・デコ調の装飾を、これでもかというほど執拗に重ねてデザインした。
大阪のどや建築として、通天閣は外せないだろう。焼失してしまった初代通天閣を戦後復興のシンボルとすべく、地元の商店主などが資金を出し合って再建した。何をバカなことをと冷ややかな目で見られながらも、地元の人たちが奔走して再建を達成したドキュメントは、あのNHKの「どや番組」、『プロジェクトX』でも取り上げられた。まさに街の「どや建築」だ。
高度経済成長のピークに開催された70年大阪万博のモニュメント、岡本太郎の太陽の塔も「どや度」では負けていない。晩年積極的にバラエティー番組に出演して、視聴者の笑いを誘ったあの「どや顔」は、今も千里の丘から大阪に睨みをきかせ続けている。
太陽の塔が国家をあげての祝祭、ハレの場のシンボルならば、同時代の千日前の夜を彩った大キャバレー[ユニバース]の味園ビルは、都市におけるケの空間だ。味園を一代で築き上げた志井銀次郎が自らデザインした[ユニバース]は、アメリカのLIFE誌に「日本で最も大きなキャバレー」として見開きで紹介された。まさにひとりの男が築き上げた夢の城、究極の「どや建築」だろう。
そして平成のバブル期にも、「どや建築」は建てられた。大阪駅前の北ヤード横に建つ梅田スカイビルだ。設計者の原広司は東大教授で、インテリでスマートな建築家像の見本のような、およそ「どや顔」とは無縁の人物だが、2棟の高層ビルを空中で連結するという、誰でも思いつきそうで誰もやったことのなかったメガロマニアックな建築家の妄想を、遂に実現してしまった。まぎれもない、「どや建築」だ。
「どや建築」は、決して色褪せることはない。むしろ時代を経るにつれ、その存在感は増す一方だ。流行を追いかけ微妙な差異を競い合う最先端のデザインはすぐ消費されるが、斜め上を遙か彼方までいってしまった「どや建築」は比べるものがなく、決して消費されることがない。そして時流に囚われずにどや顔を貫き通した建築が、今ではその時代を象徴するアイコンになっていることの逆説。強烈なアクを発しながらも、大阪の風景に欠かせぬ一部となっている。大丸百貨店のない心斎橋は想像できないし、通天閣のない新世界など考えられない。梅田スカイビルにしたところで、神戸方面から大阪へ向かう電車の中で、梅田スカイビルをみて「大阪に帰ってきた」と感じるのは、私だけではないだろう。
最後に、これは全くの偶然なのだが、今回選んだ「どや建築」の設計者(作者)には、ひとりも大阪人が含まれていない。アメリカから来日したヴォーリズ、東京の大学の先生である通天閣の内藤多仲と梅田スカイビルの原広司。味園の志井銀次郎は台湾から渡ってきた人物だし、岡本太郎も東京だ。いずれも大阪にとっての異邦人である。大阪の「どや建築」は大阪人によるものではなく、大阪のコンテクストに属さない異邦の才能が、大阪という土地に触れて出現するものなのかもしれない。