担当/中島 淳
12月19日(木)のナカノシマ大学で岩野裕一さんにお話しいただくのは、たぶん30代以上の方なら指揮台に立っている姿をリアルタイムでご覧になったであろう、大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督で常任指揮者だった朝比奈隆(1908〜2001)のこと。
「日本のオーケストラ史」のど真ん中を体現してきたこの指揮者は、戦後の大阪で今日も続いている交響楽団を立ち上げ、作曲家の真髄に迫る音を追求するためにひたすら演奏のクォリティを向上させていっただけでなく、楽団員が「オーケストラの一員として生活ができるように」マネジメントし、楽団に対する社会的支援を求めて駆けずり回った人でもある。
そういう意味で、音楽家としての偉大な業績はもちろんだが、カラヤンやバーンスタインなどの「世界的指揮者」とは違う次元でも、もっと評価されてよいと思う。
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朝比奈隆は、工学博士で北越鉄道取締役会長だった渡邊嘉一と内妻の小島さととの間に東京の牛込(現・新宿区市谷砂土原町)で生まれ、ほどなく朝比奈林之助の養子となった。
幼い頃は小児喘息や栄養失調で苦しみ、療養の傍ら学業を続ける日々だったが、7年制の東京高等学校(旧制)に入学した頃から音楽に目覚めてバイオリンを習いはじめ、部活ではサッカーに熱中して(右のサイドバックだったらしい)当時全日本の覇者だった東大を破って話題になる。勉強にも身が入り成績も上がり、昭和3年(1928)春に京都帝国大学法学部への入学を果たす。
京大を選んだのは「東京を離れたい」ということもあったが、当時、音楽部を指導していたエマヌエル・メッテル(1878〜1941)が指揮するオーケストラの演奏に強烈な印象を受けて、「この人に習いたい」と思ったことが第一の理由だった。
「メッテル先生」は、日本のポピュラー音楽史に欠かせぬ作曲家・服部良一(1907〜93)も師事した人で、朝比奈隆はこの厳しい師匠から一つ年上の弟子(服部)を引き合いに出しては「服部君はよくやるのにお前は少しも勉強せん」とさんざん小言を言われたらしい。
朝比奈隆は京大で交響楽団に入って音楽漬けの学生生活を過ごし、そのおかげで高等文官試験(高級官僚の採用試験)に通らず、卒業後は阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)に入社した。実の父や養父、兄たちが鉄道を仕事にしていたことも関係していた。
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阪急入社は昭和6年(1931)。大阪の人口が急激に増加し、東京を抜いて世界第6位の都市になった「大大阪」時代の真っただ中で、大阪のシンボル大阪城天守閣が市民の寄付によって再建された年でもあった。
旧い街を縫うようにして路線を敷いた阪神とは違って、人がまだ住んでいない場所に鉄道を通し、その沿線に住宅や行楽施設を開発する阪急の業績はこの時期右肩上がりで、「通勤・通学は電車で、行楽も電車で」というサラリーマンや学生が大量に生まれた時代でもあった。朝比奈隆は電車の運転にも携わる。
「電車の構造からちょっとした電気知識、運転技術、さらには沿線案内と切符の説明、駅の呼び方に至るまで、教えられた。教習期間がすむと指導員がついて二、三カ月、実際に電車に乗る。ちょうど夏ごろから一人前というわけで、私も相沢(巌夫=陸上選手。当時の男子100m日本記録保持者)君も宝塚線に回された」(朝比奈隆「私の履歴書」より〜『楽は堂に満ちて』所収)
ストップウォッチを持っている相沢君と二人で、「梅田から宝塚までの駅名を何秒でいえるか」や、実際に終電に乗務して、「宝塚から池田まで何分何秒でいけるか」などの勝負に明け暮れていたらしい。上司からは大目玉を食ったそうだが、たわいもなく楽しそうである。
入社1年後にはまだオープンして間もなかった梅田の阪急百貨店でも働いた。
「私たちがいるころ、百貨店東側の部分が増築されたが、まだまだ小さい店だったので、店員の名前も顔もすぐ覚えられた。百貨店への異動も相沢君と一緒で、彼は五階、私は六階の家具、陶器、タンスなどの売り場だった。そのころは蓄音機、レコード、ラジオなどの音響部門もあることはあったが、これも六階で扱った。私の売り場は午前中はほとんどお客さんがなく閑散だったので、よく大きな音量でレコードをかけて楽しんだものである」(同)
ずいぶんとお気楽な百貨店員だが、それだけでは済まなかったようだ。
京大時代の先輩でチェロ奏者の伊達三郎(1897〜1970)が、バイオリンが弾ける朝比奈隆に「弦楽四重奏をやろう」とやって来た。その誘いにホイホイと乗って、職場を抜け出して大阪中央放送局(JOBK)に駆け込んで、生演奏までしていたらしい。
「当時の放送は NHKだけ。しかもナマ放送なので六階の売り場のラジオが『ただいまから“お昼の音楽”をお送りします。出演は大阪弦楽四重奏団、メンバーはバイオリン朝比奈隆……』とアナウンスしているのだから、どうにも隠しようがなかった。『あいつ、また行っとるで』とすぐわかった。引き立ててもらった伊達さんのせいにしてごまかしていたが、それでも上司からしかられたことはなかった」(同)
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世界のクラシック音楽の歴史の中で、都市を代表する交響楽団の音楽総監督としてオーケストラを永く指揮してきた人間が、過去に日々電車を運転し、百貨店の売り場で品物を販売していた、という例は、唯一とは言えないまでも、とてつもなくレアなことではないかと思う。
朝比奈隆という指揮者には、筆者は客席からお目にかかった程度にしか存じ上げないが、威厳に満ちた人だという印象と同時に、「華やかさ」や「大衆性」を感じた。とくに演奏が終わってからの客席に対する挨拶の時に多くの人がステージに近づいては拍手を送る姿を見て、「ほんまにいろんな世代の人から愛されているなこの人は」と感じた。
その明るいキャラクターは阪急時代(2年ちょっとの間ではあったが)にいっそう培われたものと言っても過言ではないと思う。
「運転席の窓越しに見たあの乗客」「売り場にいたあのお客さん」の記憶は、彼の中でそのまま「オーケストラを聴きに来てくれる人たち」につながっていったのだと思う。
朝比奈隆が阪急を辞めたのは昭和8年(1933)。京大へ復学して文学部哲学科に入り、よりいっそう音楽漬けの日々を送って大阪音楽学校(現・大阪音楽大学)に勤務する傍ら、指揮者への階段を一歩一歩登っていった。
昭和16年(1941)に結婚して神戸市灘区に居を構えてからは、戦時中の上海、満州での生活を除けば、死去するまでの60年間、ずっと阪急沿線の神戸市灘区に住み続けた。江戸っ子の彼にとって、阪急の2年間は楽しい思い出ばかりだったようだ。
「やめるときも理由をつけるのに困ったが、やめろともいわれず、意味なくやめ、いまだに阪急から離れられず、その周辺をうろうろしている。私みたいな妙な元“阪急マン”はおそらくいないだろう」(同)
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音楽ジャーナリストの岩野さんが12月19日(木)のナカノシマ大学の講義で、阪急時代の話をどの程度されるかは分からないが(欧州にも米国にも満州にも大阪にも朝比奈隆を追いかけて取材した人なので)、きっと言わずにはいられないと思う。
というのも、岩野さんも朝比奈隆と同様に「鉄ちゃん」だからである。
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