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上機嫌で、半端ないフットワークの焼酎伝道者・黒瀬暢子さん

担当/中島 淳

1月16日(木)、「焼酎と大阪の 深くて意外な歴史」でナカノシマ大学に登壇する黒瀬暢子さんは、このために福岡からわざわざ来阪してくれる。

ナカノシマ大学はお江戸からの登壇も頻繁で、2024年も4回(4月譽田亜紀子さん、9月矢代新一郎さん、10月コジマユイさん、12月岩野裕一さん)を数えたが、九州からはナカノシマ大学15年の歴史の中で初めてである。

テーマが「焼酎」ならやっぱり本場からお呼びせなアカンと思ったので、ご足労いただくことになった。

今回は、薩摩生まれの芋焼酎と黒糖焼酎の誕生と普及に「大阪」が大きく関わっていることを、薩摩藩主である島津家の祖・島津忠久(生年不詳〜1227)が大阪の住吉大社で生まれたという平安時代末期に遡ってひもといていく。

住吉大社の境内。源頼朝の寵愛を受けた丹後局が出産した場所がこの「誕生石」と伝えられ、ここで生まれた子が薩摩藩「島津氏」の始祖・島津忠久公だとされている(黒瀬さん提供)

今日だれもが気軽に焼酎を買ったり、お店で楽しんだりすることができるのは、実は大阪と島津家(薩摩藩)との交流・交易の歴史がベースにある。

さらに明治後期に「黒瀬杜氏」の力によって薩摩で焼酎量産化が成功し、そして「近代焼酎の父」と呼ばれている河内源一郎(1883〜1943)や第一次焼酎ブームを作った薩摩酒造の本坊蔵吉(1909〜2003)ら大阪工業高等学校=大阪帝国大学醸造学科(竹鶴政孝もOB)卒業生たちの活躍で新しい酵母が発見され、新商品が生まれ……そして九州の焼酎がポピュラーな日本の酒となって今に至っている。

そんな大きな歴史の流れを、黒瀬杜氏の子孫である黒瀬暢子さんが大阪で講義してくれる。

黒瀬暢子さんは「焼酎プロデューサー」という名前で活動しているが、これは「焼酎の新商品を企画・開発する」というより、「焼酎のファンを増やす」ことを大きな目標に、日々SNSで蔵元探訪記や焼酎イベントのレポート、新商品紹介、そして新しい飲み方提案などの発信をしている。また、黒瀬さん自身が主宰する、焼酎に親しんでもらうための女性向けの会(焼酎女子会enjoy!)は、なんとこの5~6年の間に130回以上も開催している。

小倉のホテルで開催された「焼酎女子会enjoy!」で挨拶する黒瀬さん。日本経済新聞「本格焼酎・泡盛の日」特集で取材した(2023年8月26日・筆者撮影)

ナカノシマ大学は15年続けているが、やっと200回を過ぎたことを考えると、ひと月に2回(会場のレストランを押さえ、蔵元や行政などにも協力をお願いして参加者を募って……)というのは半端ないエネルギーであろう。

そのようなスゴ腕の伝道師であるが、なんと2018年までは焼酎を一滴も飲んだことがなかったという。

黒瀬さんは早稲田大学を卒業してサンリオに入社、その後は児童向けの大型遊具企画制作会社に勤務して、東南アジアに何度も出張しては、現地のショッピングセンターのスタッフに「遊具の組み立てと設置の仕方」を指導していたらしい。

2018年というのはその会社(東京)にいた頃のこと。以下、黒瀬さんの手記から(福岡県立東筑高校同窓会『東筑會報』2022年10月1日発行号)引用する。

自分の名字と同じ「黒瀬」という名前の飲食店をネットで見つけたわたしは、東京・渋谷の「焼酎バー黒瀬」を訪れました。Facebookに投稿したところ、大学の後輩からメッセージが入ります。

 

後輩のメッセージというのは「先輩って名門の出ですね!?  黒瀬杜氏の末裔でしょう?」というもの。「クロセトウジ」という言葉に黒瀬さんの頭の中は「?」が3つほど付いたらしい。その店でもビールを飲んでいたほどで(何しに焼酎バー行ってんねんと突っ込みが入りまくったであろうが)、ほんまに焼酎には無縁の人だった。

杜氏と言えば、まさにお酒作りのプロフェッショナルです。お酒の話題を母の耳に入れてはいけないと(彼女のお母さんはお酒が大嫌いだったそう)、そーっと父に確認すると、どうも、私は焼酎の歴史を造ってきた「黒瀬杜氏」の血を引いているらしいのです。

 

そこからの行動は早かった。

信じられないわたしは、叔父が持っていた江戸時代から大正時代までの戸籍謄本を借り、家系図を作り始めました。家系図に名前がある方に会いに行っては、家系図を書き足し、書き足し。しかもアポなしで!

今は現役を引退している黒瀬杜氏の人。たぶんこの方も、福岡から訪ねてきた黒瀬さんから家系図を見せられた一人なのではなかろうか(黒瀬さん提供)

相手方にしてみたら、会ったこともない親戚から電話で「会ってください」と急に言われてもなぁ……という感じだったのだろう。

黒瀬さんの実家は北九州市の隣、福岡県遠賀郡だが、そこから「黒瀬杜氏」の里、鹿児島県南さつま市まで家系図を持ってアポなしで行くのである(一日仕事ではぜったいに済まない)。そうこうしているうちに祖母の家系のほうも杜氏がいることが分かり、双方の家系図を作ったらそれぞれ100人ぐらいになったそうだ。

江戸時代から明治、大正、昭和、平成、令和へと一族が順ぐりに託してきた「焼酎造り」のバトンパスを家系図に記した黒瀬さんは、「この焼酎文化を守ることが自分のライフワークになるのではないか」と一念発起するに至る。

東京でのビジネスマンのキャリアを終わらせて福岡に帰り、「焼酎プロデューサー」として活動を始めたのが2019年だった。

最近、「事業承継」という言葉があちこちで聞かれる。

「後を継いでくれる人がいない。どうしよう」という問題解決のためにそれを継続させるために事業を立ち上げた人の話も聞くが、廃業する実例もよく聞く。黒瀬さんの場合は「杜氏」になった訳ではないが、ちょっと形を変えた「伝統的ファミリービジネスの継承」がなされる例はとてもおもしろい。

何よりも、黒瀬杜氏が守ってきた焼酎造りのバトンリレーに「大阪」が大きく関わっていたという話は本当に楽しみである。

家系図を作るために南さつま市まで何度も出向いただけでなく、焼酎の酒蔵にも頻繁に顔を出し、東京や大阪へも取材やイベントのために訪れる。この人の運動量は半端ない。

焼酎の都・福岡で超個性的な焼酎好きを集めて開催された日本経済新聞「本格焼酎・泡盛の日」の座談会で黒瀬さん(イラスト右下)は司会を務めた(2024年11月1日掲載/イラスト&デザイン・神谷利男)

彼女の出身校・早稲田大学では2024年4月から「ラグビー蹴球部 女子部」が正式に発足したが、黒瀬さんはそれに先立つことウン十年前に同好会でラグビーをやっていた。ポジションは右のフランカー(FL7)。

スクラム、ラインアウト、モール、ラックなどのボール争奪戦には必ず顔を出し、相手の強烈な当たりも「上等じゃい」と受けて、バックスにいいボールを供給すれば必ずチャンスが訪れるという「運動量半端ないし汚れ役も多いけどきっと報われる」ポジション。

その話を振ったら黒瀬さんはにっこり笑って「そうですかね」と言った。

機嫌のいい人である。なので、この人の周りにも機嫌のええ人が集まる。焼酎業界はこの人の「上機嫌」のおかげで、かなり得をしているのではなかろうか。

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