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大阪(春場所)から何度も祝福された、北の富士勝昭さん

担当/中島 淳

3月6日(金)のナカノシマ大学「粋な男、北の富士勝昭と大相撲春場所の思い出」が目前に迫ってきた。

安青錦は綱取り、熱海富士は新小結、初土俵から11場所連続勝ち越しの義ノ富士が前頭筆頭、迎え撃つ両横綱……と楽しみ満載(日本相撲協会HPより)

その2日後にはいよいよ大相撲春場所の初日を迎える。

春場所のチケットは1枚も残っていない(当日券もナシ)ので、テレビかWEB観戦しかないけれど、「春場所がはじまる何とも言えない空気」はぜひミナミ周辺で味わっていただきたいし、その空気を先取りして、名実況アナの肉声で伝えてくれるのがこのナカノシマ大学です。

さて、今回の講師、藤井康生さん(元NHK大相撲中継アナウンサー)が思い出を語る北の富士勝昭さん(1942〜2024)は、多くの相撲ファンにとっては「明るくてサービス精神旺盛で、ファンの気持ちをズバッと代弁してくれる解説者」として圧倒的人気を博し、一時代を築かれた人である。

大相撲がこれだけ人気になった立役者のひとりだ。

藤井アナと北の富士さんの放送席での掛け合いや相撲談義は、「途中で取組の実況を挟むのがもったいない」ぐらいの聴きごたえのある内容だった。

北の富士さんは解説者としてだけでなく、「横綱二人(千代の富士と北勝海)を育てた名親方」としても有名だけど、現役時代の「左差し右上手の速攻で優勝10回を誇る横綱」の足跡が見逃せない。しかし……北の富士さんの初土俵が69年前の昭和32年(1957)初場所で、引退が昭和49年(1974)名古屋場所(長嶋茂雄と同じ年だった)。現役時代の記憶がない人の方がきっと多いはずだ。

無理もない話であるが、大阪の相撲好きのみなさんには、「この人の力士人生は、いつも春場所(大阪場所)に大きな『転機』があった」ということをぜひ知ってほしいものである。

北の富士さんと大阪の関係はもう「相思相愛」のレベルだったのでは、と筆者は勝手に想像している。

北の富士さんは、17年半にわたる現役時代の間に、年に一度の「春場所」にこれだけご縁があった。

懐かしの旧・大阪府立体育会館。北の富士さんが現役の間は、昭和27年(1952)に竣工したこの建物で春場所が行われた。昭和62年(1987)からは現在のエディオンアリーナで開催(大阪市浪速区制100周年記念冊子より)

⚫︎昭和32年(1957)春場所……初場所の初土俵は「前相撲」。この場所で、出羽海部屋の序の口力士「竹澤」としてデビュー

⚫︎昭和38年(1963)春場所……新十両。すでに四股名を「北の富士」に改名していた

⚫︎昭和39年(1964)春場所……新三役。初場所に13勝2敗の成績で、入幕2場所目に昇進

⚫︎昭和42年(1967)春場所……14勝1敗で初優勝。場所前に師匠の九重親方が出羽海部屋から独立。「九重部屋」の大関・北の富士として賜杯を抱く

⚫︎昭和45年(1970)春場所……新横綱。ライバルで親友の玉の海正洋(1944〜71)と同時昇進

⚫︎昭和48年(1973)春場所……14勝1敗で10回目(最後)の優勝。「名横綱」栃錦・若乃花と並ぶ

 

とくに印象深いのは、昭和42年(1967)の春場所だ。

北の富士さんの師匠・九重親方(元横綱・千代の山雅信/1926〜77)は、中学1年のヒョロッとした自分を見て相撲界に導いてくれた恩人であり、中学卒業の1月に上京し、当時現役だった千代の山を訪ねて出羽海部屋の入門を許された。千代の山は現役引退後に出羽海の部屋付き親方「九重」となって若手を指導するが、「出羽海」を継ぐことができないと知ると、「自分も独立して部屋を持ちたい」と思うのは当然のことだろう。

「師匠と共に出る」のは弟子としては当然のことかもしれないが、北の富士さんにとってその頃の出羽海部屋の「居心地の良さ」は、格別なものであった。

当時の出羽海親方(後の武蔵川理事長)は、襲名後にまず部屋の食事を質・量ともに豪華にした。そして「ノセたら必ず結果を出す」北の富士さんの特性を見抜き、「どんどん遊べ。そのためには土俵で強くなって金を稼げ」とハッパをかけた。若手同士の稽古でさえも成績のいい力士に賞金を出すし、北の富士さんが「ちょっと手元不如意で」と言えば、親方もおかみさんも小遣いをくれる。

序二段や三段目でくすぶっていた人間が急に強くなって番付を急上昇させ、新十両の1年後には新三役。それから3年もせずに大関に駆け上がった。なんと言っても超名門部屋。同部屋の強豪とは取組がないのも有り難かったはずだ。

そんな出羽海部屋には鉄の規律があった。「独立イコール破門」という厳しい措置である。大部屋を「破門」になっても、独立して部屋を立ち上げるという九重親方と行動を共にする北の富士さんが感じた葛藤とリスクは、相当なものであったに違いない。

九重親方について出たことで出羽海部屋の敷居は二度とまたげなくなってしまうが、親方夫妻は笑って送り出してくれたという。それが昭和42年(1967)1月末のこと。

地下鉄谷町九丁目駅から徒歩3分の正法寺。山門の奥に本堂が建っている場所に、九重部屋の急ごしらえの土俵があった。寺の西隣は落語「高津の富」でおなじみ高津宮(こうづぐう)

そして迎えた春場所、北の富士さんは以下のような心境で臨んだ。

大騒ぎして出羽海部屋を飛び出した以上、ぶざまな相撲だけはとれないと心に決め、稽古にも熱が入った。稽古場のない新生九重部屋は、協会内にある相撲教習所の土俵を借りて稽古を開始。大阪の春場所にも真っ先に乗り込んだ。

 

大阪には九重部屋の宿舎はなかったが、地元の人たちが支えてくれたので稽古場も宿舎も確保できた。

大阪では南区(現中央区)中寺の正法寺(しょうぼうじ)境内に土俵が設けられ、初稽古には大勢の報道陣が詰めかけた。もともと乗りやすいタイプの私は燃えた。境内の近くに石の階段もあり、これを上り下りしてはトレーニングに励んだ。

(九重勝昭〈当時〉『土俵で燃えろ』東京新聞出版局/1991年より)

その甲斐あって幕内では北の富士さんが25歳で初優勝。十両でも弟弟子の松前山が優勝し、新生九重部屋は二重の喜びに包まれた。

この頃から、2歳下の「玉の海正洋」(片男波部屋)というライバルが頭角を現し、二人の対戦が大相撲の人気取組になってくる。お互いに「こいつだけには負けられない」がありながらも、話し上手の北の富士、聞き上手の玉の海のコンビは、土俵の外でも仲良しだった。

そして昭和45年(1970)、大阪万博開幕の春場所に、北の富士と玉の海は横綱昇進同時を果たす。

第51代横綱・玉の海正洋。昭和45年(1970)秋場所から昭和46年(1971)春場所まで4場所連続14勝1敗と、抜群の安定感を示した(日本相撲協会HPより)

横綱の同時昇進は昭和36年(1961)の九州場所の大鵬幸喜(1940〜2013)、柏戸剛(1938〜96)に続いて9年ぶりの快挙。大鵬と柏戸の「柏鵬時代」が実は「大鵬一強」に終わったので(優勝は大鵬32回に対して柏戸5回)、相撲ファンは二人の新横綱が競い合う時代の到来を楽しみにした。

この昭和45年春場所こそ、大鵬が先輩横綱の意地で賜杯をさらったが(北の富士・玉の海とも13勝2敗で準優勝)、その後の戦績はまさに「北玉時代」の到来を告げるものだった。

⚫︎昭和45年(1970)夏場所……14勝1敗で北の富士優勝

⚫︎同     名古屋場所……13勝2敗で北の富士優勝

⚫︎同       秋場所……14勝1敗で玉の海優勝

⚫︎同      九州場所……14勝1敗で玉の海優勝

⚫︎昭和46年(1971)初場所……14勝1敗で大鵬優勝(玉の海は優勝決定戦で敗れる)

⚫︎同       春場所……14勝1敗で玉の海優勝

⚫︎同       夏場所……15戦全勝で北の富士優勝(初の全勝)

⚫︎同      名古屋場所……15戦全勝で玉の海優勝

⚫︎同       秋場所……15戦全勝で北の富士優勝

 

どうですかこの壮観な優勝成績!

わずか1年余りの期間だったが、「両横綱がしのぎを削る」という言葉に相応しい実力伯仲ぶりを見せ、「大鵬一強時代」に閑古鳥が鳴いていた本場所の会場は一気に盛り上がった。この頃の相撲ファンはほんまに幸せだったと思う。

しかし玉の海は昭和46年(1971)の秋場所後、虫垂炎の手術の後に容体が悪化して急死、北玉時代は突然幕を閉じる。両者の対戦成績は、北の富士の22勝、玉の海の21勝。あまりにも惜しい。

玉の海亡きあと、北の富士さんは3回優勝して優勝10回で引退したが、もし玉の海が生きていたら、「北玉時代」はお互いに15回ずつぐらい(玉の海は北の富士より2歳下だったので20回ぐらいか)優勝していたのではないかと思う。それほど、両者の対戦はお互いにとっても、ファンにとっても楽しみだった。

大阪キタの盛り場のど真ん中、ネオンぎらぎらの場所に一角だけ、静寂に包まれた寺院がある。

平安時代に創建された高野山真言宗の太融寺。大坂夏の陣で自害した「淀殿」の墓があり、明治初期に板垣退助らが自由民権運動の狼煙を上げ、「国会期成同盟」が結成された場所で、その碑も佇んでいる。

そこに、玉の海の贔屓だった大阪の檀家の人たちによって「第五十一代横綱 玉の海正洋の碑」が建てられ、昭和47年(1972)春場所初日の前日、3月11日(土)に除幕式が行われた。

この「除幕式」に日本相撲協会の幹部をはじめ、北の富士さん以下幕内の役力士たちが列席した。先代住職の麻生弘道さんは当時のことを覚えておられた。

「町会長が玉の海の贔屓で、先代(麻生恵光さん)と話をして実現したと思います。とにかく町内の人たちがたくさん来て、横綱(北の富士)には長男を抱き上げてもらいました」

その写真を見せていただいた。

玉の海の碑の前で、現住職の麻生祥光さんを抱き上げる第52代横綱・北の富士(当時/太融寺提供)

残念なことに、このとき北の富士さんに抱き上げられた現住職の麻生祥光さんは、その後一度もお目にかかれなかったそうだが、小学校は精勤、中学・高校は皆勤賞だったというから「横綱のおかげです」と話しておられた。

まもなく春場所がはじまるが、こういった現役時代と親方時代を経て、北の富士さんは平成10年(1998)に、横綱経験者として初のNHK大相撲解説者となり、藤井康生さんとの黄金コンビが25年近く続いた。

3刷となりました。当日は品切れのないように確保しておきます

あの掛け合いや名解説、そして時には「ごめん、いま(取組を)見ていなかった」と正直に告白する、語りの天才・北の富士さんの思い出を語るには、この人意外には考えられない。

藤井さんの著書『粋  北の富士勝昭が遺した言葉と時代』(集英社)もすごく売れているようで、当日、会場でも販売します。「先に読んでおきたい」という方は、どうぞお近くの書店でお買い求めを。

当日は17時から。大相撲放送と同じ時間帯に開催しますので、どうぞお早めにお申し込みを

https://nakanoshima-daigaku.net/seminar/article/p20260306