第3回 大阪らしい食べもんの店

文/江弘毅
絵/綱本武雄


 「皿の上だけで星をつける」などと言い訳がましいことを言って、関西版をつくったのがミシュラン・ガイドだが、相当に苦労をした形跡がうかがえる。なぜなら大阪の店としての「うまいもん屋」は、うまいもん(皿の上の料理)+屋(店自体)の双方がコミュニケーション的に相互嵌入して成り立っているからである。
 もちろんハコとしての店の善し悪しというのは、建築がだれそれ設計で、店舗空間のデザイナーはだれで、ライティングのアーティストは…といったようなものでは決まらない。商業空間に対してのそういう見方は、それはそれで楽しいけれど、内外装にふんだんにお金を遣っていて流行の先端のデザインだからうまい店だ、という図式は大阪には絶対ない。
 また飲食系に限っていうと、大阪の店はとくに庶民的なアイテムつまり、めし屋うどん屋お好み焼き屋…といったものに他所と比べてのダントツなアドバンテージがある。
 旧いミナミすなわち南地でも「川八丁」と呼ばれた道頓堀を挟んだ東西の「浜(河岸)」は、芝居小屋や茶屋が連なる粋所だった。そのうちの「戎橋」と「大黒橋」の間の北岸が久左衛門町、南岸が久郎右衛門町である。ちなみに久郎右衛門町には天保の改革の最後期にあたる天保13年(1842)の遊所処理で、泊茶屋や風呂屋が集められた。
 明治35年(1902年)創業の[大黒]は、その大黒橋のたもとの久郎右衛門町に開店し、戦後少し南東にあたる現在の位置に移店している。久郎右衛門町を含めた「南地五花街」は明治期以降、新町や北新地をしのぐ大阪最大の花街で、この店の近辺には芸者さんが多く住み、仕事の合間に化粧を落とすことなく簡単に食べられるかやくご飯が人気だったという。[大黒]は時代の流れや戦火を超えて、今なおそういった南地の空気を確かに揮発させている。
 同じ道頓堀の南岸の旧久郎右衛門町で、 モダンでハイカラな洋食の要となっていた牛肉精肉店が大正8年(1919)創業の[はり重]。道頓堀川の1階には洋食グリル、2〜3階がすきやき、しゃぶしゃぶのお座敷肉料理店、そして御堂筋側にカレーショップを附属直営している。カレーショップは昭和34年(1959)オープン。主力メニューのカレーライスにしろ洋食的牛丼のビーフワンにしろ、さしずめ当時からのファストフードといったところだが、迫力の内装同様、昨今のファストフード店には絶対その味を出せない精肉店直営の味だ。入って向こう正面の藍色タイル、天井に渡された梁、花形の電灯、レジカウンターと、昭和を素晴らしく物語る内装である。
 ファストフードとセルフ・カフェ、コンビニ、チェーン店系の居酒屋…と、どんどん画一的な若い猥雑さが目立つ昨今の道頓堀にあって、柳がそよぐ昔ながらの佇まいがかえって珍しくなった[道頓堀今井本店]。2002年に建て替えられた8階建ての新しいビルだが、庶民の日常食にこそ大阪の食文化が宿るとばかりの綺麗で瀟洒な店舗だ。
 大阪天満宮にほど近い天神橋筋商店街入口といった、絶好の大阪下町ロケーションにあるお好み焼きの[甚六]は昭和56年創業。2010年のNHK連ドラ『てっぱん』の大阪ロケや、「赤井、朝日新聞で連載します」というコピーの赤井英和が登場する朝日新聞の大判ポスターやCMの背景に使われている。どこのディテールをどう切り取っても、典型的な「大阪のうまいお好み焼き屋」を具現化している店舗だ。
 大阪は焼肉・ホルモン帝国であるが、その聖地となるエリアが鶴橋だ。鶴橋に行くことすなわち「焼肉を食べに行く」ことであり、近鉄とJRのガード下を含め100メートル四方に20〜30軒の焼肉・ホルモン店がひしめき合っている。カンテキや卓上コンロからニンニクとたれが焦げる煙をバンバン出し、滴る脂が炎を噴かせるほとんど火事場状態の中で食べる焼肉のうまさは格別だ。
 その鶴橋焼肉界の最ハードボイルド的店舗ということなら[空]である。それも4軒の建物があるうちの角地にあるL字カウンター店舗。「とにかく、焼肉・ホルモンが食べたい」という切実な身体の欲求は、コリアタウン的店舗ではなく、こういう空間でないとがっちり受け止められないのだ、と身体で知るべし。
 住吉大社東参道と住吉街道の交差点[住乃江味噌池田屋本舗]の創業は永禄年間、参拝客が手みやげを買い求めてきた店である。住吉高灯籠を配し虫籠窓のある蔵造りの建物は、国の有形文化財に指定されている。
 こうして大阪の店を見てみると、店の作りや意匠…といったものに、何ものでもない「その店らしい」工夫が感じられるのと同時に、その店の存在そのものがまさにその店が立っている「場所の地元性」を具現化しているようだ。それこそが大阪の街場の店の代替不可能な奥深さにほかならない。