担当/中島 淳
大阪生まれ大阪育ちで、それまでの「料理の常識」を覆しながら手間をかけない(けど圧倒的に美味い)レシピを世に送り出していった料理家・小林カツ代(1937〜2014)には唯一の「弟子」がいる。「助手」は他にもいたが、弟子は今回のナカノシマ大学で登壇される本田明子さんだけである。

会場は、登録有形文化財の大阪倶楽部3階3号室
本田さんは、『小林カツ代のらくらくクッキング』(1980年・文化出版局)を高校時代に読んで、レシピ通りに作ったらあまりにも美味しく出来たので、「私は天才だろうか!?」と思ったほどだとお会いした時にそう言っておられた。
カツ代レシピで「開眼」した本田さんは、短大卒業後に某大手証券会社(1980年代は給料もボーナスもスゴかったと聞く)に就職が内定していたが、「できればこの人に弟子入りしたい」とまで思っていた。というのも、彼女のホームタウンである東京都東久留米市には、「小林カツ代料理教室」があったからである。
しかし小林カツ代の主義は、「弟子はとらない」。
そのカツ代がひと目で本田さんを弟子にしたのは、何も彼女が「私はいかにカツ代先生のレシピを血肉化させて、家族や友人たちを喜ばせてきたか」みたいなプレゼンテーションをしたからではない。本田さんの「思わぬところ」を見て決めたのである。
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小林カツ代は大阪・北堀江の製菓問屋の末娘として生まれ育った。父は船場の商家に丁稚奉公し、若くして大番頭に出世したが「婿入り」はせずに独立。母は料理と字の上手な「武家のお嬢さん」だった。出自の対照的な両親だったが、「美味しいもの好き」「人を差別しない」「戦争が大嫌い」というところは共通していた。

傑作。大阪の堀江や堺の百舌鳥などきめの細かい取材が素晴らしい。ピースボートのくだりは冒頭に登場
かつて『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』(文春文庫)の著者でノンフィクションライターの中原一歩さんを取材した際に語っていた言葉が印象に残っている。
「カツ代さんは若い人が好きなんです。大阪の“いいとこ”の子で否定されずに育ったから、決して他人も否定しない。肩書きで人を見るようなことは絶対にありませんでした」
中原さん自身、カツ代の全盛期にいきなり電話をかけて「年越しの世界一周クルーズの『ピースボート』に乗って、船上で黒豆を振る舞ってもらえませんか。ただしノーギャラで……」というとんでもないオファーをした人であるだけに(カツ代は快諾)、その言葉には説得力があった。
だから「弟子をとらない」という自らの信条はさておき、若い人と会うのはカツ代の楽しみでもあったので「とりあえず会う」ということになったという。1980年代前半のことである。
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この頃カツ代の家では「ミーナ」「ボン太」という猫を飼っていた。「ミケ」という名の犬もいる。夫と小学生の娘と息子、猫2匹、犬1匹。でもそこで終わらなかった。
以下、小林カツ代が少女のために書いた、若き日の回想『虹色のフライパン』(1984年・国土社)から。

「小林カツ代の本は古本屋に出ない」その心は、読者が離さないから。この本も、いつも図書館で借りている
「マナは、手のひらにのる大きさだった黒白のねこ。助手のセツコさんがある雨の朝、玄関を入るなり、
『くる道に小さいねこが雨に打たれていましてね。捨てられたらしいです』といいつつ、私の顔をじっと見ました。
思わず、
『いいわよ』といってしまった私。このひと言で助手は外へとびだし、マナを拾ってきたというわけ。」
マナという名は、息子の健太郎さん(料理研究家のケンタロウ)が付けたそうである。
「聖書の中のマナというのは、神さまがくださった食物をさします。とても大切なものという意味です。
マナはめきめき大きくなり、ピッカピカになり、毛足は長く、じつにすてきなねこに成長しました。とても心の広い思いやりのあるねこで、ノラねこを連れてきて私に食事のさいそくをしたりしました。どんなねこにもやさしく、けっしてケンカをしませんでした。」
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本田明子さんが小林カツ代宅を訪れたのは、そのマナがいた時期だった。
「うちにね、アコちゃんというゆかいな弟子がいるのですが、だいたい私は弟子をとらない主義だったのに、知り合いの人にたのまれて、会うだけ会いましょうということになったのです。うちへはじめてアコがきた日、マナがソファーで寝そべっていました。
彼女、入ってくるなり、あいさつもそこそこに、『アラー、ねこォ!』というなりだきあげました。それを見て、弟子はとらない主義なんか、ふわーっとどこかへ行ってしまい、『うん、いいよ』
かくしてアコはその日から毎日わが家へ。
ただね、仕事中もひょっひょっとねこと遊ぶんですなァ。といっても、これは師匠である私も同じで、そろって「かわいいっ」なんて、めいわく顔のねこをねこかわいがり。」
しかし、カツ代ファミリーと飼い猫マナとの楽しい時間はそう長くは続かなかった。
「ある雪の日、マナは帰ってきませんでした。つぎの日も、つぎの日も。何日も日が流れ、地域の小さい新聞に、マナさがしの広告をだしました。その結果は、悲しいしらせを私にもたらしました。マナは死んだと。」
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「もし」の話をしたらキリがないけど、本田さんがカツ代宅を訪れた時にマナがソファーに寝そべっていなかったら(もっと言えば助手のセツコさんがマナを拾ってこなかったら)、「弟子・本田明子」は実現していなかったかもしれない。動物が大好きな小林カツ代にとっては、マナを抱き上げるという本田さんの無意識(だったと思う)の行動が、どんなに見事な自己PRより決定的だったのだ。

師弟のツーショット(NHKの番組より)。本田さんはカツ代を「話術の達人でしたがそれ以上に聞き上手。膨大なレシピは人の話を丁寧に聞き出して行ったからこその結果です」と評す
「小林カツ代を後世に伝える」というナカノシマ大学の主催者としては、「小林カツ代と弟子・本田明子をつなぐ」という決定的な仕事をした飼い猫マナに助演女優賞を贈りたいところである。いやほんまに。
……ここまで書いたのは、小林カツ代から見た「本田明子、弟子入りのエピソード」。本田さんから見たら、実はちょっと違っているのかもしれない。なのでそのあたりは、ぜひナカノシマ大学でご披露いただきたいところである。
あと4週間を切りましたので、ぜひ申し込みはお早めに。https://nakanoshima-daigaku.net/seminar/article/p20260626







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上野先生は、去る2014年12月の「天神寄席」に出演してはるので、10余年ぶりのご登場、当時は、確か奈良大学教授やったけど。
























