‘未分類’ カテゴリーのアーカイブ

同じ堂ビルの8階に引っ越しました!

2024年1月15日 月曜日

担当/中島 淳

本日1月15日(月)から、これまで6年間仕事をしてきた堂島ビルヂング602号室に別れを告げて、2フロア上の804B号室で業務をスタートします。

■新住所

〒530-0047 大阪市北区西天満2-6-8 堂島ビルヂング804B

tel.06-6484-9677 fax.06-6484-9678 ←こちらは従来のまま

804Bから南東側を望む。弊社の堂ビルは大正12年(1923)、赤レンガの中央公会堂は大正7年(1918)、右隣の中之島図書館は明治37年(1904)築と、界隈の平均年齢を上げています(笑)

面積が半分になったので、「ありゃりゃ!?」と思うほど狭くなりましたが、ちょっと明るくなり、以前に比べて眺めがよくなりました。大阪府立中之島図書館、大阪市中央公会堂、そして船場にニョキニョキと増えているタワーマンションがすぐ近くに見えます。

狭くなった分、スタッフ4人の作業机は超コンパクトにして、打ち合わせ用のテーブルやムダにデカい白板はそのままにしました(その写真は後日)。

大江橋北詰の御堂筋沿いなので、お茶を飲みにお立ち寄りくださいませ。その際、「誰もいてへんわ」ということもあります(涙)。事前にお電話をm(_ _)m

堂ビルの「ハチマルヨンビー」にあるイチヨンマルビーと、ややこしいことこの上ありませんが(汗)、どうぞこの先もごひいきに。遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。

では1月25日(木)の天神寄席30日(火)のナカノシマ大学でお会いしましょう♬

笠置シヅ子さんが卒業した小学校を訪ねた

2024年1月12日 金曜日

担当/中島 淳

元日の能登半島地震で被災された方に、心からお見舞い申し上げます。

29年前に東灘区の自宅で被災して(損壊なし)ケガもなかった人間でさえ、電気も水道もガスもない真っ暗な家で真冬に寝泊まりするのはホンマに堪忍してほしいと感じ、翌日には堺に避難しました。

だから避難所の惨状を知るにつけ、「予算の使い方間違うてるで」と思います。猛省してすぐに改善してください。

NHK連続テレビ小説「ブギウギ」の主人公・福来スズ子(趣里)のモデル、笠置シヅ子(1914-85)が通っていた、大阪市大正区南部の南恩加島(みなみおかじま)小学校にお邪魔した。

大正区は自分の中では「なじみ」の場所である。

大正駅前の酒場には好きな店がいくつかあるし、シンボルの昭和山(標高33m)には何度となく登って、「大阪八低山」の中では最高の眺めや!とお気に入りだし、南端の新木津川大橋の上から見える、川と港、巨大工場、高架道路、そして遠くの山が織りなす景観は、「歩くの大変やけど値打ちあるわ〜」と実感できる大スペクタクルであった。

新木津川大橋の歩道からもこれだけの眺め! 奥は住之江区と和泉山脈

好きな作家、柴崎友香さんの出身地がここ大正区というのもポイントが高い。とくに短編集『ビリジアン』は潮の香りにアスファルやコンクリート、鉄の匂いが混じり、湿気までが伝わってくる。大正区入門編としてお薦めである。

……ということもあって、笠置シヅ子が卒業した小学校が大正区にある、と知って図々しくもお邪魔させていただいた。

朝ドラ「ブギウギ」では、少女時代の舞台は父の花田梅吉(柳葉敏郎)と母のツヤ(水川あさみ)が営む[はな湯]で場所は「福島」という設定だったが、笠置シヅ子の実家「亀井家」は福島だけでなく、大阪市内各地で転居を繰り返し、引っ越した先で銭湯を開いていた。

私は亀井志津子の名を手拭や鞄に書き付けて下福島尋常小学校に入学しました。二年生になると自宅が引越したので中津警察署の傍の曽根崎尋常小学校に転校し、更に三年生の時、十三へ引越し神津尋常小学校に転校、四年生で川口に移って本田尋常小学校に転校、五年生で南恩加島小学校に移り、ここで卒業までを送りました。」(『笠置シヅ子自伝 歌う自画像 私のブギウギ伝記』〈宝島社〉より)

南恩加島小学校の創立は大正13年(1924)。笠置シヅ子は開校して間がない当地の小学校に大正14年(1925)に転校、昭和2年(1927)に卒業した。同書の年表によれば同じ年に宝塚音楽学校を受験するも不合格、その後、松竹楽劇部生徒養成所に入り、8月には「三笠静子」の芸名でさっそく初舞台を踏んでいる。早くも13歳からエンターテイナーの道を歩んでいた。

大正通から少し東へ入ったところにある大阪市立南恩加島小学校。生徒数は約220人

小学校を出てすぐに社会人、という人生も当時はあったのである。でも勉強ができない訳ではなかった。

読み方、書き方なんていうのは駄目で唱歌と算術が甲でしたが、受け持ちの先生に『あんたには無理に上の学校を勧めない』。器用だから芸をみっちり仕込むのもいいし、記憶がよいから看護婦になるのもよかろうと言われて」(同)

両親は「看護婦」と聞いて苦笑していたらしいが、先生は彼女の歌唱力だけでなくコミュニケーションスキルの高さを見抜いていたのである。

大正区(当時は西区)の南部は、大正初期はまだ地図にも載らないエリアであったが、昭和3年(1928)の地図を見ると現在の全域が掲載され、奥の鶴町まで市電が開通しているのが分かる。笠置シヅ子は、現在はバス停になっている「大運橋通」あるいは「南恩加島」から市電に乗って、仕事場である大阪松竹座(1923年竣工)に通っていたのだろう。

大正5年の地図。「この先、産業発展のために用意された土地」ということだけ分かる。「南恩加島」はこの下で、掲載されていない(1916年『大阪市街全圖:實地踏測』国際日本文化研究センター所蔵)

街が急速に整備された昭和3年の地図。オレンジ色の矢印が「南恩加島小学校」の位置。学校を表す「文」という記号が載っている(1928年『最新大大阪市街全圖』国際日本文化研究センター所蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 

南恩加島の南隣の船町では、大正11年(1922)には日立造船(当時は大阪鉄工所)が、翌年には中山製鋼所が操業を始めた。昭和4年(1929)には東京・羽田に先駆けて日本初の本格的な民間飛行場である「大阪(木津川)飛行場」が開港して、名古屋や福岡、高松、白浜を結ぶ定期旅客便が飛んだ。西隣の鶴町には、笠置シヅ子が小学校を卒業した昭和2年(1927)に米ゼネラル・モーターズ(GM)が操業を開始し、シボレーなどがここで生産された(1941年に撤退)。そして昭和7年(1932)には、西区から独立して「大正区」が発足する。

木津川大橋から見える中山製鋼所。ここは松田優作の遺作となったリドリー・スコットの『ブラック・レイン』のロケ地にもなった。奥は南港の高層ビルと港大橋、六甲山系

南恩加島小学校の周辺は急激に人口が増加し、住宅が増え、居酒屋や映画館、ダンスホールなども出来てちょっとした歓楽街となっていた。そんな時期に亀井家がここで銭湯を開いていたのである。

南恩加島小学校校長の樋口和弘先生が地元の人から聞いた話では、笠置シヅ子の実家の銭湯は、大正通を挟んだ西側、大正西中学校(1955年創立)の辺りにあったそうである。客の大半は工場労働者。売上が増えることはあっても減ることはない時節柄、きっと儲かったはずであろうが……。

南恩加島町を最後に五カ所を転々としてきた風呂屋をやめ、その権利を売ったいくばくかの金で居喰いしていました。住居も南田辺へ引越しましたが、まだ浴客の来ない朝風呂にゆったりとつかり、いい気持で歌のひとくさりも歌ってから少女歌劇に通うのを日課としていた私は、暫くの間、これが出来ないのが物足りなくて仕様がありませんでした。風呂屋をやめたわけはよくわかりませんが、ひょっとしたら父の道楽から経済が手づまりとなり、借金の抵当にでも取られたのではないでしょうか。」(同)と、淡々と記している。

笠置シヅ子の実家兼銭湯があった(らしい)大正西中学校前から。道は彼女の通学路であり通勤路だった

ドラマでもスズ子は実家の[はな湯]で何度も歌を披露していたが、銭湯は幅広い客層が好き勝手に歌う唄で常に「ごった煮」の状態だったはずである。彼女が銭湯の娘でなかったら歌手にはなっていなかったのではないだろうか。

1月30日(火)のナカノシマ大学で講師を務める輪島裕介さんは、著書『昭和ブギウギ〜笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書)でこのように書いている。

大都市の銭湯は、多様な人々が日常的に行き来する場であり、出身地も生業も異なる人が行き交う中で、さまざまな音曲の交換が起こっていただろう。さらにいえば、笠置は小学校卒業前後の時期を沖縄系移住者のコミュニティの中心となった大正区・南恩加島で過ごしており、そこで何らかの音楽的な交流が起こっていたら、という妄想を禁じえない(ちなみに沖縄音楽を専門に扱う最初のレコード会社マルフクレコードは、笠置が小学校を卒業した一九二七年に大阪で設立されている)

ドラマの劇中でスズ子が歌う「アイレ可愛や」を聴くと、その感を強くする。

地元の酒場で一杯飲んでバスで帰った。麦焼酎のソーダ割り、白菜とタコのピリ辛、ポテサラで1,000円からお釣りが来ました

「南恩加島は三代にわたって住んでいるというお家が多くて、地元の結びつきが強いまちなんです。笠置シヅ子さんのことでも『校長先生、この際だしもっと宣伝したら』と言われるんですよね(笑)」(南恩加島小学校・樋口校長)

南恩加島小学校はこの11月に「創立100周年」が祝われる。ええタイミングでナカノシマ大学を開催できてうれしい。

いよいよ1月30日(火)です。お早めに!

 

拝啓・古地図サロンから40

2023年12月26日 火曜日

2023年11月24日・本渡章より

【今回の見出し】

■2023年11月の古地図サロンレポートと2024年1月の予定

  • 最近と今後の古地図活動
  • 古地図ギャラリー
    東畑建築事務所「清林文庫」コレクションより

■古地図サロンのレポート

開催日:11月24日(金)午後3~5時 御堂筋の大阪ガスビル1階カフェ「feufeu」にて。

皆さま、お元気でいらっしゃいますか。

今年最後の古地図サロンになりました。来年後半は既報のとおり、大阪ガスビルの大改修が始まるため、会場のカフェ閉店の時点でサロンも終了となります。改修工事の開始時期はまだ決まっていませんが、おそらく来年の7月頃までは、これまでどおりサロンを継続できると思います。詳細はあらためて、この場で報告いたします。
今回は東京の市制時代の地図、京都・神戸が大京都・大神戸と名乗っていた頃の地図など、公開しました。明治30年代の「大阪市新地図」は副題が英語です。戦前の「近畿遊覧疼痛略図」の主役は近鉄の路線網でした。それぞれの時代の色が出ています。併せて11月2日付・朝日新聞(鳥取版)に載った井沢元晴・作の鳥観図、戦災画の記事もサロンでご紹介。絵師・井沢元晴の作品はこのブログでも古地図ギャラリーなどで度々とりあげてきました。今後さらに多くの方に知っていただきたい作者です。
というわけで、2024年1月のサロンでまたお会いいたしましょう。

 

 

◉今回のサロンで展示した地図

◆原図
東京市全図 大正11年(1936)龍王堂出版部
大京都市街地図 昭和16年(1941)日本統制地図
大神戸市街地図 昭和16年(1941)和楽路屋
新制東京全図 昭和23年(1948)日本観光
大阪市新地図 NEW MAP OF OSAKA-CITY 明治35年(1902)駸々堂
近畿遊覧交通略図 昭和10年頃 発行者不明

★次回は2024年1月26日(金)午後3~5時開催予定

会場は御堂筋の大阪ガスビル1階カフェにて。私の30分トークは午後4時頃からです。サロン参加は無料(但し、カフェで1オーダーしてください)。途中参加・退出OK。勉強会でもなく会員制でもありませんので、どなたでも気軽にご参加ください。

諸事情により開催中止の場合は、事前にこの場でお知らせします。

 

【最近と今後の古地図活動】12月以降

●朝日カルチャーセンター中之島での講座 12月~3月

12月15日(金)午前10時30分~12時「大正の広重・吉田初三郎の世界」

日本全国の名所鳥瞰図で一世を風靡した吉田初三郎の大ベストセラー、鉄道開通50周年記念『鉄道旅行案内』を読み解き、観光ブームに湧いた大正時代の旅を再現。

1月26日・2月24日・3月23日「古地図地名物語」

東住吉区・住吉区・住之江区の3区の地名について、3回講座でお話します。

 

OCU主催「古地図さんぽ」

2024年1月21日(日)午後1~4時。「大阪湾岸の歴史を深堀り・此花区編」

伝法駅周辺エリアのウォーク&此花区民ホールでの講座をセットで実施。ウォークでは船形と社伝が一体になった鴉之宮などめぐります。講座は伝法と海の向こうの文化伝来の歴史について。

 

サロン「東風(こち)」第3回

2024年2月9日(金)午後2~4時 豆玩舎ZUNZO(宮本順三記念館)/近鉄八戸ノ里駅前

前回(11月10日)は「東大阪の七不思議」続編は、本当にあった「謎の瓢箪山遊園」、その街の中心を意味する地名の「本町」が東大阪市にはいくつもある……など古地図を囲んで街の話題。併せておまけになった古地図の話も。次回も古地図とともに大阪の話題を楽しみましょう。会場はグリコのおまけデザイナーで洋画家の宮本順三のコレクション展示で知られる豆玩舎(おまけや)。

東大阪散策MAP完成

東大阪市の旧街道、旧川筋、地蔵と祠、古社寺、お勧め店など情報満載のイラストマップに名所絵・見どころ解説を添えて、2つの推奨コース「河内永和~布施」「吉田~河内花園」をご紹介。案内役・本渡章。このマップ1枚あれば街歩きの楽しみ2倍。東大阪観光協会発行(東大阪市役所で入手できます)

 

雑誌「歴史人」12月号に執筆

京の都の大通り、「丸太町通・綾小路通」2頁を執筆。歴史人×お通り男史タイアップ企画。

 

歴史発掘・小冊子「玉野市」に執筆

鳥人幸吉の古里・岡山県玉野市の小冊子に「塩の歴史話」など執筆。日本各地の歴史発掘プログラムを展開しているABCアーク制作。2024年初春発行予定。

●「大阪の地名に聞いてみた」ブログ連載、全12回24編

誰よりも大阪を知る「大阪の地名」の声、地名にひかれ地名で結ばれる人の想い。一年間の連載が2023年1月に完結(題字と似顔絵・奈路道程)し、書籍化が決定! 追加取材を加え、ブログの内容を大幅に再構成し、刊行されます。
それまではブログ「大阪の地名に聞いてみた」でお楽しみください。

第12回 ここは水惑星サンズイ圏【前編・後編】
第11回 島の国の島々の街【前編・後編】
第10回 仏地名は難波(なにわ)から大坂、大阪へ【前編・後編】
第9回  人の世と神代(かみよ)をつなぐ神地名【前編・後編】
第8回 語る地名・働く地名【前編・後編】(仕事地名・北摂編)
第7回 古くて新しい仕事と地名の話【前編・後編】(仕事地名・河内編)
第6回 街・人・物・神シームレス【前編・後編】(仕事地名・泉州編)
第5回 場所が仕事をつくった【前編・後編】(仕事地名・大阪市中編)
第4回 花も緑もある大阪【前編・後編】
第3回 桜と梅の大阪スクランブル交差点【前編・後編】
第2回 続・干支地名エトセトラ&その他の動物地名【前編・後編】
第1回 大阪の干支地名エトセトラ【前編・後編】

 

動画シリーズ継続中!
  本渡章の「古地図でたどる大阪の歴史」~「区」150年の歩み

大阪市のたどった道のりを、それぞれの土地の成り立ちと経済、文化など多様な要素を持つ24の「区」から見つめなおすシリーズ。続編はしばらくお待ちを。(制作・大阪コミュニティ通信社)

第2回番外編 府と区と市の関係について再考

第2回その2 西へ西へと流れた街のエネルギーと水都の原風景…西区

第2回その1 「江戸時代の大坂」と「明治以後の大阪」の架け橋となった巨大区…西区

第1回その3 平成の減区・合区が時代のターニングポイント

第1回その2 大正~昭和は人口爆発、増区・分区の4段跳び時代

第1回その1 大坂三郷プラスワン、4つの区の誕生

|古地図ギャラリー|

【大阪新町夕陽廊の賑】安政5年(1859)
松屋喜兵衛・石川屋和助・河内屋平七

新町は大坂夏の陣の後に設けられた幕府公認の遊里。江戸の吉原、京都の島原とともに三大遊廓と称され、江戸時代を通して大坂最大の廓として繁栄しました。「大阪新町夕陽廊の賑」は新町の賑わいを生き生きと伝える俯瞰図です。題名に「夕陽」とあるとおり、この風景は夕暮れ時。図中に提灯を手に持つ人がいます。右下隅に見えるのは、現在は埋め立てられた西横堀川に架かる新町橋で、船場から新町への通り道になっていました。新町橋を渡った人が遊廓の東大門を通り、遊廓に入っていく光景の中に刀をさした武士の姿も見られます。道筋に沿って桜の並木が続きます。新町は桜の名所でもありました。
図の発行は、安政の大獄で世情が不穏になった幕末期と重なっています。明治維新の激動は目の前。図に描かれた夜桜に彩られた遊廓の賑わいは、江戸時代の最後に開いた花のようです。新町遊廓の跡を示す碑は今、西区の新町公園に建っています。

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東畑建築事務所「清林文庫」は、同事務所の創設者東畑謙三が蒐集した世界の芸術・文化に関する稀覯本、約15000冊を所蔵。建築・美術工芸・絵画・彫刻・考古学・地誌など分野は幅広く、世界有数の稀覯本コレクションとして知られる。古地図に関しても国内外の書籍、原図など多数を収め、価値はきわめて高い。
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過去の古地図ギャラリー公開作品

第19回(2023年9月)

①東畑建築事務所・清林文庫より黄華山・画「花洛一覧図」文化5年頃(1808)

 

第18回(2023年7月)

①東畑建築事務所・清林文庫より池田奉膳蔵「内裏図」

 

第17回(2023年5月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「地球萬國山海輿地全図」

②青山大介作品展2023

 

第16回(2023年3月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「天王寺・石山古城図」

 

第15回(2023年1月)

①東畑建築事務所・清林文庫より長谷川圖書「摂津大坂図鑑綱目大成」

 

第14回(2022年11月)

①東畑建築事務所・清林文庫より久野恒倫「嘉永改正堺大絵図」

②鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「私たちの和田山町」

 

第13回(2022年9月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「淀川勝竜寺城跡全図」

 

第12回(2022年7月)

①東畑建築事務所「清林文庫」より秋山永年「富士見十三州輿地全図」

 

第11回(2022年5月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「大日本分境図成」

 

第10回(2022年3月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「新改正摂津国名所旧跡細見大絵図」

③鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「笠岡市全景立体図」

 

第9回(2022年1月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「暁鐘成・浪花名所独案内」

②本渡章所蔵地図より「大阪市観光課・大阪市案内図

③鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「躍進井原市」

 

第8回(2021年11月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「友鳴松旭・大日本早見道中記」

②本渡章所蔵地図より「遠近道印作/菱川師宣画・東海道分間絵図」「清水吉康・東海道パノラマ地図」

③鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「吉備路」

 

第7回(2021年9月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「石川流宣・江戸図鑑綱目坤」「遠近道印・江戸大絵図」

②本渡章所蔵地図より「改正摂津大坂図」

③鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「倉吉市と周辺 文化遺跡絵図」

 

第6回(2021年7月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「石川流宣・日本海山潮陸図」「石川流宣・日本国全図」

②本渡章所蔵地図より「大阪師管内里程図」

③鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「倉敷美観地区絵図」

 

第5回(2021年5月)

①2007清林文庫展解説冊子・2019清林文庫展チラシ

②本渡章所蔵地図より「近畿の聖地名勝古蹟と大阪毎日」

③フリーペーパー「井沢元晴漂泊の絵図師」・鳥観図「古京飛鳥」「近つ飛鳥河内路と史跡」

 

第4回(2021年3月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「大阪湾築港計画実測図」

②本渡章所蔵地図より「大阪港之図」

③鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「福山展望図」

④鳥観図絵師・青山大介の作品より「梅田鳥観図2013」

 

第3回(2021年1月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「江戸切絵図(尾張屋版)」「摂津国坐官幣大社住吉神社之図」

②本渡章所蔵地図より「摂州箕面山瀧安寺全図」

③昭和の伊能忠敬・井沢元晴の鳥観図より「小豆島観光絵図」

 

第2回(2020年11月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「メルカトル世界地図帳」「オルテリウス世界地図帳」

②本渡章所蔵地図より「A NEW ATLAS帝国新地図」「NEW SCHOOL ATLAS普通教育世界地図」

③昭和の伊能忠敬・井沢元晴の鳥観図より「大阪府全図(三部作)」

 

第1回(2020年9月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「ブレッテ 1734年のパリ鳥観図」

②昭和の伊能忠敬・井沢元晴の鳥観図より「ふたつの飛鳥と京阪奈」

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●電子書籍のお知らせ

本渡章の著書(古地図・地誌テーマ)のうち、電子書籍になった10冊(2022年末現在)は次の通りです。
(記載の刊行年は紙の書籍のデータです)

『鳥瞰図!』140B・刊(2018年)

思考・感情・直観・感覚…全感性を目覚めさせる鳥瞰図の世界にご案内。大正の広重と呼ばれた吉田初三郎の作品群を中心に、大空から見下ろすパノラマ風景の醍醐味を味わえます。併せて江戸時代以来の日本の鳥観図のルーツも紐解く、オールカラー・図版多数掲載の決定版。

『古地図で歩く大阪 ザ・べスト10』140B・刊(2017年)

梅田・中之島・御堂筋・ミナミ・天満・京橋・天王寺。阿倍野・住吉・十三・大正・平野の10エリアを古地図で街歩きガイド。さらに博物館、図書館、大書店、古書店での古地図探しの楽しみ方、大阪街歩き古地図ベストセレクション等々、盛りだくさんすぎる一冊。オールカラー・図版多数掲載。

*上記2冊は各電子書籍ストアでお求めください

*下記8冊は創元社(オンライン)の電子書籍コーナーでお求めいただけます

『図典「摂津名所図会」を読む』創元社・刊(2020年)

大阪の地誌を代表する「摂津名所図会」の全図版を掲載。主要図版(原寸大)には細部の絵解きの説明文、その他の図版にもミニ解説を添えた。調べものに便利な3種類の索引、主要名所の現在地一覧付。江戸時代の大阪を知るためのビジュアルガイド。

『図典「大和名所図会」を読む』創元社・刊(2020年)

姉妹本『図典「摂津名所図会」を読む』の大和(奈良)版です。主要図版(原寸大)には細部の絵解きの説明文、その他の図版にもミニ解説を添え、3種類の索引、主要名所の現在地一覧も付けるなど「摂津編」と同じ編集で構成。江戸時代の奈良を知るためのビジュアルガイド。

『古地図が語る大災害』創元社・刊(2014年)

記憶の継承は防災の第一歩。京阪神を襲った数々の歴史的大災害を古地図から再現し、その脅威と向き合うサバイバル読本としてご活用ください。歴史に残る数々の南海トラフ大地震の他、直下型大地震、大火災、大水害の記録も併せて収録。

『カラー版大阪古地図むかし案内』(付録・元禄9年大坂大絵図)創元社・刊(2018年)

著者の古地図本の原点といえる旧版『大阪古地図むかし案内』に大幅加筆し、図版をオールカラーとした改訂版。江戸時代の大坂をエリアごとに紹介し、主要な江戸時代地図についての解説も収めた。

『大阪暮らしむかし案内』創元社・刊(2012年)

井原西鶴の浮世草子に添えられた挿絵を題材に、江戸時代の大坂の暮らしぶりを紹介。絵解きしながら、当時の庶民の日常と心情に触れられる一冊。

『大阪名所むかし案内』創元社・刊(2006年)

江戸時代の観光ガイドとして人気を博した名所図会。そこに描かれた名所絵を読み解くシリーズの最初の著書として書かれた一冊。『図典「摂津名所図会」を読む』のダイジェスト版としてお読みいただけます。全36景の図版掲載。

『奈良名所むかし案内』創元社・刊(2007年)

名所絵を読み解くシリーズの第2弾。テーマは「大和名所図会」。全30景の図版掲載。

『京都名所むかし案内』創元社・刊(2008年)

名所絵を読み解くシリーズの第3弾。テーマは「都名所図会」。全36景の図版掲載。

※その他の電子化されていないリアル書籍(古地図・地誌テーマ)一覧

『古地図でたどる 大阪24区の履歴書』140B・刊(2021年)

『大阪古地図パラダイス』(付録・吉田初三郎「大阪府鳥瞰図」)140B・刊(2013年)

『続・大阪古地図むかし案内』(付録・グレート大阪市全図2点)創元社・刊(2011年)

『続々・大阪古地図むかし案内』(付録・戦災地図・大阪商工地図)創元社・刊(2013年)

『アベノから大阪が見える』燃焼社・刊(2014)

『大阪人のプライド』東方出版・刊(2005)

 

●本渡章(ほんど・あきら)プロフィール

1952年大阪市生まれ。作家。(財)大阪都市協会発行時の「大阪人」編集などを経て文筆業に。1996年第3回パスカル短篇文学新人賞優秀賞受賞。短編が新聞連載され『飛翔への夢』(集英社)などに収録。編著に『超短編アンソロジー』(ちくま文庫)がある。その後、古地図・地誌をテーマに執筆。
著書『鳥瞰図!』『古地図でたどる大阪24区の履歴書』『古地図で歩く大阪 ザ・ベスト10』『大阪古地図パラダイス』(140B)『古地図が語る大災害』『カラー版大阪古地図むかし案内』『図典「摂津名所図会」を読む』『大阪暮らしむかし案内』(創元社)など多数。共著に『大阪の教科書』(創元社)がある。

中原一歩さんの「カツ代ばなし」にシビれた12.16

2023年12月21日 木曜日

担当/中島 淳

12月16日(土)は雨がいつ降るか分からないような天気だったが、平日夜のナカノシマ大学に漂う「仕事帰り」的な感じではなく、「休日に出てきました」的な、ちょっと華やいだ空気があった。

ワンショルダーの黒いエプロン、白ブラウス、ピンヒール、そして赤い口紅でさっそうとキッチンに立っていた料理研究家・小林カツ代さんに因んだものだからというのは、間違いなくあると思う。

よく通る声が中之島図書館3階の多目的スペースに響き渡っていた

通常は、「講義資料を投影し、受講者には簡単なレジュメを配布」というパターンだが、「投影」はカツ代さんにちなんだ動画を10分ほど流すだけで、あとは話だけでいきます、と中原さん。

最近は講義内容をパワポで投影、というパターンが多い。それはそれで講師の話す言葉が「プロジェクターの見出しや写真で強調される」ということで分かりやすい。しかし一長一短はある。

というのも、受講者は「画面」にばかり目が行って、肝心の「講師の姿」を見なくなってしまう。照明を落とすことが多いから余計である。当日の中原さんの選択は正しかったと思う。

話が始まったらすぐにみなさん引き込まれた。

1.中原一歩さんと小林カツ代さんの出会い

 

中原さんの『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る(以下、カツ代伝)』(文春文庫)を読まれた方はご存じだと思うが、この評伝は著者(1977年生まれ)が二十歳の頃、カツ代さんに電話をするところから始まる。用件はとんでもない内容だった。

ピースボートの年越しクルーズ船に乗船してもらい、新年に黒豆を船上で振る舞ってほしい、ただしノーギャラ、ボランティアで……と。しかしカツ代さんは「面白いじゃない、私、行くわ」と即答し、そのあとストーリーが猛烈なスピードで動き出す。けれど読者の一人として私は、この「ホンマかいなの展開」を不思議に思っていた。

筆者の『小林カツ代伝』は肉じゃがを作るそばに置いたりして、もうボロボロである

(普通は、電話を取り次いだ人がこの無茶なリクエストの相手に、『先生は忙しい人なんですよ、無理です!』と言って話を終えるはずなのに、どうしてカツ代さんにつないだのだろうか……?)

その理由もこの講演で明らかになった。

1994年に「料理の鉄人」で陳建一を破って以降、講演や出張料理教室などの依頼が全国から殺到していた。カツ代さんが代表を務めるキッチンスタジオの人たちは依頼内容を彼女に伝え、「OK」が出たらあとは、弟子の本田明子さんをはじめスタッフが依頼者と詳細な打ち合わせをする、という流れで対応していた。

しかし、断らざるを得ない依頼もある。「せっかくのお話ですが……」というときはカツ代さんが直接、電話に出たり訪問客に伝えたりしていた。相手の気持ちをないがしろにしない、律儀な対応をする人だったのだ。

中原さんが電話をした時も、内容を聞いて取り次いだ人(コワい人だと恐れられていた加藤和子さん)はカツ代さんに電話を渡した。通常は「お断りモード」のはずだが、そうはならなかった。

ケニアまで飛行機で行って、インド洋で乗船してもらうということだったんです。動物好きなカツ代さんは、サバンナにも行ける、といった期待もしていたのかもしれませんね。カツ代さんは稼いでおられたから、ノーギャラというのは彼女にとっては重要なことではなかったのでしょう。

わざわざアフリカまで行って、インド洋上で正月に千人分の黒豆を炊くなんて、世界で自分一人しかやらないだろう、ということにわくわくしたのだと思います

カツ代さんは中原さんからの依頼に「ロマン」を感じてOKしたのであろうが、私はそれだけではないと思っている。以前も書いたように、彼の力強い声に、文字通り「ひとつ乗ってみるか」という賭けをしたのではないかと思う(このクルーズの顛末は本書をぜひ読んでください)。

2. 「自己革新」をし続けてきた人の家庭料理哲学

受講者に配布した資料

 

カツ代さんはつねに、“I think”ではなく“I do”の人でした。クルーズの件も即決でしたが、長女のまりこさんが大学受験を控えていた時に、単身で2か月間アメリカに留学するんです、英語の読み書きができないのにもかかわらず(笑)。自分のあたらしい可能性を切り開くためには、躊躇する人ではありませんでした」

彼女の人生哲学は子供時代から一貫して

①興味を持つ ②知識を得る ③行動する ④世界が広がる

ということに貫かれていたという。

中学に入るとマンガを描きはじめ、手塚治虫に手紙を書いたのも(返事も来た!)、専業主婦時代に昼のワイドショーを観ていたらつまらないので「芸能人のゴシップを追うぐらいならお料理のコーナーをつくったらどうですか」と投書したのも(それがきっかけで自らが出演)、すべて同様の行動である。

カツ代さんは調理に際して「お醤油をチャーッとかけて」のような感覚的表現を多用したが、同時に、つねに「理屈」を大事にした。

「カツ代さんの頭の中には常に『?』と『!』の二つの符号がありました。

『?』は『なんでやろ?』『どうしたらいい?』、『!』は『あ、こうなんや』。発見と発明です。カツ代さんにとって、料理は科学、サイエンス(科学)とケミストリー(化学)なんです」

「家庭料理」とは、食べることで命をつなぐ大事なもの。カツ代さんにとっては夫と2人の子供がいる家庭で、時間とのせめぎ合いの中で毎日作り続けねばならないものであったが、いつでも満足できる料理が提供できるわけではない。この悩みが「時短料理」につながった。

「カツ代さんはある時、『料理は残酷や』とつぶやいたことがあります。その中で『おいしい、早い、安い』というところをずっと守り抜いた。家庭料理がレストランの料理と決定的に違うのは、『作る人が食べる人』ということです。天ぷらなら、揚げている人も食卓で熱々を食べるにはどうしたらいいか、と常に考え続けた。そして素材も調味料も、近所のスーパーで手に入るものしか使わなかった。『この料理は石垣島でも作れるかしら?』とよく言っていて、いつでも、どこでも作れるかどうかを常に気にかけていました」

その原則には厳しかったが、ストイックな人ではなく、いつもユーモアを忘れなかった。

「デパ地下で店員さんが『活きのいい車海老が入ってますよ!』と勧めても、カツ代さんは『ありがとう。でも私はいつお亡くなりになったか分からないようなブラックタイガーでいいの』と笑顔でスルーしていました。『塩少々』という表現も『◯グラム』ということではなく、『お焼香の時につまむでしょ? あんな感じ』とレシピ本にも書いていました」

3. 両親と大阪から「祝福」を受けた人が、言葉とレシピで祝福を贈った

投影しなくとも、話に引き込まれる。注意深くノートを取る人も

 

そして、自説に固執することはせず、「自分とは違う見方」を大事にした。

「カツ代さんには「絶対」というこだわりがなく、否定をしない人でした。結婚して東京に移り住んだ頃は甘い玉子焼きや濃いめの味付けが苦手だったそうですが、やがては慣れて、『これはこれで美味しいわよ』と東西両方のいいとこ取りをしていました。また、いつも鉄のフライパンを愛用していましたが、年を重ねると、もっと軽いテフロン加工のフライパンも使い、テフロンならではの料理を考案しました。

それは、否定されることなく育ったからだと思います。裕福な家庭でかわいがられ、ええもんを食べて育ったからこそ、あの味覚が育まれた。大阪・ミナミのカルチャーが小林カツ代を育てたんです。彼女の両親は味覚だけでなく、料理の腕が良かったことも見逃してはいけないと思います。カツ代さんの家庭料理はプロの技術に裏打ちされていました」

食事をすることに対しては、一食たりともおろそかにしない。内容も、その時間も、一緒に過ごす人も大事にした人だからこそ、「食べることを軽んじる人、権力を持ったエラそうな人」とは徹底的に闘った。大阪弁を話すこと、擬音で表現することも押し通したし、一緒に食事をする相手を大事にした。

「行政やテレビ局、出版社などのパーティーなどでカツ代さんがゲストに呼ばれるんですが、大概は、人のぬくもりが感じられないパーティー料理です。カツ代さんはそんな時、夜遅くであろうと僕に『食べ直ししよう』と電話をかけてきて、11時ごろに新大久保のお好み焼き屋に行ったことがありました。ドレス姿で煙モウモウの店に入って、服にも煙の匂いが付くのにお構いなしで、お好み焼きを2枚、汗だくでペロリと食べて『あ〜おいしかった!』なんてこともありました」

カツ代さんが鉄板の前で美味しそうにお好み焼きを食べる姿が彷彿としてくる。

最後に中原さんは、詩を描くことが大好きだったカツ代さんの自作の詩を朗読してくれた。

 らくらくと らくらくと

 料理づくりができたなら

 人生どんなにらくでしょう

 苦しいことや つらいこと

 いっぱい いっぱいあるなかで

 せめて日々のお料理は

 底抜けに 明るく 楽しく作りたい

 まゆにしわ寄せ作るより

 ちょっとインチキしちゃったと

 ウフッと笑って作りたい

 それでも絶対大丈夫

 お味見できる舌を持ち

 おいしく おいしく作ろうと

 思う心と手があれば

(中原一歩『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』〈文春文庫〉より)

講座の冒頭、カツ代さん動画の再生中に私のMacが調子が悪くなり、途中で二度ほど途切れてしまった。ほんまにお恥ずかしい限りである。改めて、中原さんをはじめお越しになったみなさまにおわびいたします。申し訳ありませんでした。

中原さんは、隣の席で動画を再生させようと冷や汗をかきながらもがいている私を横目に……

「こちらの中島さんはOsakaMetroのフリーマガジン(Metrono)にカツ代さんのことを書こうと、わざわざ東京まで取材しに来てくれたんです。それで文藝春秋で会うことになったのですが、結局、コメントがたった2行しか生かされていなかった(笑)。この出版不況のご時世に、たった2行のために東京に来られるとは、なんてコスパの悪い!(場内笑)  でも逆にそれだけ信用できる人だ、と思いまして、今日はこちらに寄せていただきました」

11月10日発行『Metrono』第3号。駅員さんにお問い合わせを

自分が送った動画がちゃんと再生されなかったりすると、講師が機嫌を損ねて、それで場の空気が冷えたりすることがよくある。が、中原さんは私の失敗もネタに笑いをとって会場を温めていただいた。さすが40歳上のカツ代さんから「親友」とリスペクトされた人だけのことはある。手練れの対応にひたすら感謝しかない。ありがとうございました(ほんまは2行より、もうちょいありますw)。

会場には、カツ代さんの弟子で料理研究家の本田明子さんもわざわざ東京から受講しに来られていた。講師の中原一歩さんとはもう四半世紀のお付き合いである。本田さんもカツ代さんも登場するNHKの「きょうの料理〜65年続けたらギネス世界記録に認定されましたSP」は12月31日(日)の17:15に再放送される。お見逃しなく。

カツ代さんの姪の浅野貴子さんも、娘のわかなさんと一緒に受講しに来てくださった。貴子さんはカツ代さんの6歳上の姉・節さんの娘である。

「叔母は娘のまりこさんや息子の健太郎くんと同様に、自分の娘のように接してくれました。間違ったことをしていたら人前であろうとどこでも叱られました。今から思うと、それが本当に良かったのだと思います」

娘のわかなさんは料理人の道を志し、オランダでキャリアをスタートさせるという。

そして、西区北堀江にあったカツ代さんの生家が大阪大空襲で全焼し、一家が疎開した堺市百舌鳥からも、筒井家の谷妙さんと、中原さんを筒井家に紹介した辻要子さんがお越しになっていた。お2人は、中原さんが『カツ代伝』を執筆するにあたって7年前に取材した人である。

大阪市内から京都から神戸から北摂から河内から堺から、そして東京からも「カツ代さん好き」の方々が集結した2023年最後のナカノシマ大学は、これにて終了です。

カツ代さんが大好きだった千日前の[純喫茶アメリカン]でもチラシを置いていただいた。松竹のスターたちの公演チラシを差し置いて一等地に。随喜の涙

最後に、中原さんをご紹介いただいて取材にも立ち会ってくれたのみならず、ナカノシマ大学に合わせて『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』を会場で販売できるようにお骨折りいただいた文藝春秋の池延朋子さんをはじめ、チラシを置いていただいた飲食店、物販店、行政関係者のみなさまに心よりお礼申し上げます。

では、次回1月30日(火)にお会いしましょう。

どうぞ良いお年をお迎えください!

 

 

 

 

 

 

 

カツ代さんの「肉じゃが」を作ってみて

2023年12月13日 水曜日

担当/中島 淳

ノンフィクションライターの中原一歩さんに料理研究家・小林カツ代さんのことを12月16日(土)のナカノシマ大学で話してほしいと思った理由は「波乱万丈の人生がおもしろそう」「大阪生まれ・育ちの人が全国区の料理研究家になったんやし」「大好きな百舌鳥の古墳つながり(前項参照)」などいろいろあるが、決定的な理由は、そのレシピを自分で作ってみて「これはウマいわ!」「こんなに早よできるんや」と思ったからである。

牛肉、タマネギ、ジャガイモしか入っていないが、そのシンプルさがまたヨイ

お恥ずかしい話だが、生まれてこのかた60年以上、肉じゃがというものは作ったことがなかった。

けれど、とても好きな一品なので、居酒屋では必ず頼むし、相方にも「最近肉じゃが食うてへんわ」などと横着をカマして作ってもらっていた。

中原一歩さんの『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る(以下、カツ代伝)』では第一章で、1990年代に絶大なる人気を誇った食の格闘技的対決番組「料理の鉄人」(フジテレビ)に小林カツ代さんが挑戦者として出演し、中華の鉄人・陳建一を破ったスリリングな闘いが記されているが(対戦のテーマは「ジャガイモ」)、この章のキモである「肉じゃが」に大幅に字数が割かれている(以下引用)。

それまでの肉じゃがは、切ったジャガイモ、ニンジン、タマネギ、牛肉を、出汁、醤油、砂糖、みりんとともにゆっくり煮込むスタイルが一般的だった。最後に茹でたサヤインゲンなどがあしらいとして添えられる。

出汁はしっかりと鰹節の利いた二番出汁。ジャガイモやニンジンは面取りをし、ジャガイモは水にさらして準備する。調味の順番は和食の基本「さしすせそ」。荷崩れを防止するために火は鍋全体が沸き立つ程度の弱火。こうした和食の基本を押さえて作る肉じゃがは確かにおいしい。けれども、完成するまでに三十分を要する「手のかかる」料理だった。

それに比べると、カツ代の肉じゃがは自由奔放であり、豪快だ。なにより斬新なのは「出汁」ではなく「水」で煮るということ。(中略)煮物といえば「出汁」という概念を、カツ代は「料理の鉄人」という大舞台であっさりと覆した。ここで、「正調・小林カツ代の肉じゃが」のレシピを紹介しよう。

材料(四人分)

・牛薄切り肉……二◯◯グラム

・タマネギ……一個(二◯◯グラム)

・ジャガイモ……四個(六◯◯グラム)

・サラダ油……大さじ一

【A】砂糖……大さじ一、みりん……大さじ一、醤油……大さじ二と二分の一

・水……一と二分の一カップ(三〇〇ミリリットル)

どういうわけか美しい写真が載っている料理本より、文字だけで書かれたもののほうが自分にとっては印象に残りやすい。それで、この『カツ代伝』を見ながら肉じゃがを作ってみたのである(以下引用、写真は筆者)。

作り方

1 タマネギは半分に切ってから、繊維に沿って縦一センチ幅に切る。牛肉は二つ〜三つに切る。

2 ジャガイモは皮をむいたら、まるごと水につけておく。作る直前に、大きめに一口大に切る。

3 鍋にサラダ油を熱し、タマネギを強めの中火で熱々になるまで炒める。

4 真ん中をあけて肉を置き、肉めがけてAの調味料を加える。

Aの調味料を投入した直後。牛肉食いたさに300g使った(笑)

5 肉をほぐしながら強火で味をからめる。

6 全体にコテッと味がついたら、水気を切ったジャガイモを加えてひと混ぜし、分量の水を注いで表面を平にする。

ジャガイモはこんな後から入れるのが意外だった

 

7 蓋をして、強めの中火で十分前後煮る。途中で一度上下を返すように混ぜる。ジャガイモがやわらかくなったら火を止める。

 

それで10分ちょいで出来上がった肉じゃがを食べた時の感動は忘れない。

自分が作ったものというのは、作っている最中はテンションMAXになるが、出来上がりを食べる頃には沈静化していて、「ま、そこそこ美味しいやん」ぐらいの感じである。しかし、このときは違っていた。

タマネギもジャガイモも飴色になって、たまらん匂いが漂っております

カツ代さんの弟子、本田明子さん(料理研究家)はかつて、カツ代本のレシピ通りに作った料理があまりにも美味しかったので、「私は天才ではないだろうか!?」と思ったそうだが、筆者もドヤ顔をしつつあっちゅう間に皿を平らげたのである。

カツ代さんのレシピ。まだ入り口に足を踏み入れたばかりだけど、なんと全部で10,000点ほどあるらしい。毎日あたらしい料理を作ったとしても、死ぬまでにその3割にも満たないまま人生が終わってしまうだろう。

それでも、「休日、腕によりをかけて」ということではない限られた時間で美味いもんが作れるという幸せは、若い頃には味わえなかったよなぁ……と思うと、いくつになってもあたらしい何かを試して覚えてみるのはほんまに大事ですわ。

きっとカツ代さんは、2005年にくも膜下出血で倒れるまで、「あたらしい自分を拓く」ことを課していたのだと思うと、料理というのは奥が深いし、人が「生きるために命をつなぐ」ものだよなぁとしみじみ感じる。

残った肉じゃがにシラタキを入れて煮てから玉子でとじて丼に。これもオツです

そのカツ代さんの最後の10数年間を、至近距離で見ていた、彼女の戦友とも言える中原一歩さんの話は、ほんとうに楽しみである。

いよいよ間近になった12月16日(土)のナカノシマ大学

あなたのご来場をお待ちしております。

 

 

小林カツ代さんの弟子、本田明子さんも来場

2023年12月8日 金曜日

担当/中島 淳

『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る(以下、カツ代伝)』(文春文庫)の著者でノンフィクションライターの中原一歩さんが登壇する12月16日(土)のナカノシマ大学「大阪が生んだ不世出の料理家・小林カツ代は生きている」に、カツ代さんの弟子で、『カツ代伝』にも度々登場する料理研究家の本田明子さんも来場されることになった。

買い出し→調理準備→リハーサル→オンエアが終わってへとへとになった本田さんの最後のシーンだけ撮りました(すんません)。NHK+でも観られます

本田さんはNHK「きょうの料理」の講師の一人であり、11月3日(祝)に放映された「きょうの料理〜65年続けたらギネス世界記録に認定されましたSP」では、食材の買い出しから食器、調理器具を持参してスタジオ入り、リハーサルであれやこれやのダメ出しや改善点が入って、それを踏まえてオンエア……という超ハードコア密着取材にも登場されている。

「きょうの料理」でテレビに映っていないところでの、カメラマンや調整室の人々、調理助手のみなさんたちの秒単位の苦労が見えて大変面白かったので、見逃した方はぜひ再放送(大晦日の夕方)をご覧になってほしい。

本田さんが小林カツ代さんの門を叩いたのは1982年。この当時のことを中原さんは『カツ代伝』でこのように書いている。

カツ代が『きょうの料理』で披露したのは『うなぎの炊き込みご飯』、乱切りカボチャを胡麻油で炒めた後に醤油、みりん、砂糖で煮る『カボチャの炒め煮』、キュウリ、わかめ、油揚げをお酢で和えた『三色あえ』、熱々の揚げ鶏を、熱いうちに甘酢にジュッと漬ける『揚げ鶏の甘酢がけ』、青じそとパセリの香りが爽やかな『しそのスパゲッティ』など。弟子の本田明子がカツ代の門を叩いたのも、このNHKの放送を見たことがきっかけだった。

『うなぎ一匹で、家族四人で堪能できる。これには驚きました。全く新しいうなぎ料理の提案だったからです。この炊き込みご飯は、スーパーなどで売っているうなぎの食べ方としては、別格のおいしさでした。それまでうなぎといえば、鰻丼のするものと思っていましたから』」(『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』より)

前述の「きょうの料理〜65年続けたら世界記録に認定されましたSP」での、1980年代の蔵出し映像。小林カツ代さんを一気にメジャーにした「20分で晩ごはん」のコーナー

本田さんは高校時代、『小林カツ代のらくらくクッキング』(1980年・文化出版局)に出会う。

それまでは料理を作ってもどこか失敗したり上手く行かなかったりしていたのだが、この本の通り作ってみたら「私は天才だろうか!?」と思ったほど美味しくできたそうだ。「たぶんそういう読者さんは多かったのでは」(本田さん)

本田さんの住む東久留米市には、その「小林カツ代料理教室」があった。短大卒業後の就職先は最大手の証券会社に内定していたが、「この人に弟子入りしたい」という気持ちが高まってくる。でもカツ代さんは「私は弟子はとらない」。それが思わぬところから扉が開く。

うちにね、アコちゃんというゆかいな弟子がいるのですが、だいたい私は弟子をとらない主義だったのに、知り合いの人にたのまれて、会うだけ会いましょうということになったのです。うちへはじめてアコがきた日、マナ(猫)がソファーで寝そべっていました。

彼女、入ってくるなり、あいさつもそこそこに、『アラー、ねこォ!』というなりだきあげました。それを見て、弟子はとらない主義なんか、ふわーっとどこかへいってしまい、『うん、いいよ』

かくてアコはその日から毎日わが家へ」(1984年・小林カツ代『虹色のフライパン』)

この時、「小林カツ代料理教室」に飼い猫のマナがいなかったら、本田明子さんは「きょうの料理」65周年記念番組に出演されるどころか料理研究家にもならず、某大手証券会社で女性役員になっていたかもしれない。

こちらも「きょうの料理〜65年続けたら世界記録に認定されましたSP」で紹介されていた素敵なツーショット。表情が素敵です

そういう意味で、人の運命というのはおもしろいし、小林カツ代さんには「話したくなるエピソード」が多い。

当日は、本田明子さんだけでなく、カツ代さんの姪の浅野貴子さんと、娘のわかなさんも来場されるそうで、カツ代さんファンはぜひお越しいただければと思う。

ナカノシマ大学のお申し込みはこちらへ。

 

料理研究家・小林カツ代さんと堺の百舌鳥

2023年12月4日 月曜日

担当/中島 淳

小林カツ代さんが製菓卸商「浅野商店」の末娘として生まれたのは昭和12年(1937)。

13〜14歳の時に徳島から大阪の船場に奉公に出され、23歳で大番頭に抜擢されるほどになった努力家の父・浅野徳太郎さんは、堀江の地にバターや小麦粉、ベーキングパウダー、食紅などの食用色素などを扱う製菓材料の卸問屋を興す。若くしてこのような商売で独立することが可能だった当時の堀江という街の特異性について、12月16日(土)のナカノシマ大学の講師であるノンフィクションライターの中原一歩さんは、著書でこのように書いている。

「大正から昭和にかけて、日本の近代食文化に大きく貢献した商人が堀江から誕生したことを、多くの日本人は知らない。牡蠣に含まれるグリコーゲンという栄養素に目をつけ、これをキャラメル菓子として商品化。『一粒三百メートル』というキャッチコピーと、おまけ商法で人気を博した、江崎グリコの創始者・江崎利一。そして、日本で初めてイースト菌の国産化に成功し、米国式連続自動釜を導入した、マルキ号製パンの水谷政次郎だ。」(『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』文春文庫)

大阪市立中央図書館は昭和36年(1961)に開館。平成8年(1996)に全面改築を果たして今日にいたる

生家である浅野家は大阪市西区御池通(みいけどおり)5丁目にあった。現在の西区北堀江3〜4丁目。戦後、南北を結ぶ幹線道路「新なにわ筋」が開通し、西側には大阪市立中央図書館が誕生する。

この巨大図書館にはご当地生まれのカツ代さんの著書も所蔵されているが、ふだん目にするのはほんの一部。しかし広大な書庫には約150点のタイトルが揃い(レシピ本だけでなく名作エッセイも)、もちろん閲覧も貸出も可能。蔵書はWEB検索できるのでぜひ窓口で尋ねてほしい。

 

大阪大空襲ですべてが灰になり、百舌鳥へ

 

両親の愛情をめいっぱい受けて育ったカツ代さんは昭和19年(1944) に大阪市立堀江国民学校(現・堀江小学校)に入学したが、内弁慶な彼女は学校に友達がいなかった。みんなが遊んでいるときに、ぽつんと一人遊びをしているような子供で、かつ不登校の常連だった。しかし、母の笑(えみ)さんは鷹揚に見守り、学校へ行くのを無理強いしなかったという。

カツ代さんが小学校に入った頃から、大阪の市街地はたびたび米軍の空襲に見舞われ、翌昭和20年(1945)3月13日深夜には、あの「大阪大空襲」が起きる。B29を100機以上連ねての絨緞爆撃だった。

「この空襲によって、木造家屋が集中していた堀江は壊滅した。大阪を代表する色町、堀江遊郭も、東洋一のマルキ号製パンの大工場も、江戸元禄の時代からこの地に根を張り生きてきた歴史ある商家も、そして徳太郎が一代で築きあげた浅野の家も、みんな灰になってしまったのである。」(同)

一家は、近所で食堂を営んでいた朝鮮人の友達のつてで、堺市百舌鳥の、戦国武将・筒井順慶(1549〜84)の子孫である「筒井家」の離れに疎開することになった。商家や問屋、工場などが密集する堀江から、町の大半が田んぼで、いたるところに自然が残る百舌鳥への環境の変化が、カツ代さんの人生を決定的に変えたといっても過言ではないと思う。

筒井家のシンボル、大クスノキ(堺市北区中百舌鳥町4-535)。内部は非公開

転校した堺市百舌鳥小学校では、当初「都会から来た垢抜けた女の子」に対する風当たりが強く、上級生からよく目をつけられていじめられたらしい。しかし、自然の生態系そのもののような筒井家の広大な敷地で思う存分に遊び回るだけでなく、戦中戦後の「ひもじさ」とはほとんど無縁の筒井家からもたらされる豊富な食材を使って母と姉が作る料理は、育ち盛りのカツ代さんにとって何よりの楽しみだった。学年が上がるごとに「成績優秀で、正義感の強い人気者」へと自己変革がはじまる。

「体がじょうぶになるにつれ、友だちもどんどん増えていきました。学校は、あいかわらず休みがちでしたが、友だちができはじめると、もともとは明るい性格なので、外交的になっていきました。五年生くらいになると、弱いものいじめしている男の子をポカリとやるくらい、ツヨークなっていました。」(小林カツ代『虹色のフライパン』国土社)

中原一歩さんも著書で筒井家の方に話を聞いている。

『実は生前、カツ代さん本人がたずねてこられたことがありました。堺での暮らしは動物や自然が大好きだった自分にとって、町よりも楽しかったとおっしゃっていました。友だちや先生に恵まれて、同窓会のたびに、プライベートで足を運ばれているようでした』。カツ代は料理研究家としてデビューした後も、筒井家に対する恩義を忘れることはなかった。晩年まで、筒井家とは年賀状のやりとりがあったという。

(中略)結局、堺には三年ほど身を寄せていたが、その後、カツ代は再び大阪市内へと移り住む。しかし、よほどこの小学校の居心地が良かったのだろう。戦後、カツ代は大阪市内から、再建されたばかりの地下鉄と電車を乗り継いで、卒業まで、この小学校に通った。」(『小林カツ代伝』)

筒井家の敷地には、百舌鳥古墳群に属する「御廟表塚(ごびょうおもてづか)古墳」がある。カツ代さんの姉の節さんは、「裏山」と呼んでいたこの古墳にもカツ代さんとしょっちゅう登っていたと、弟子で料理研究家の本田明子さんが教えてくれた。

百舌鳥の中でも珍しい、街道沿いの登れる古墳

 

ここから先は筆者の話であるが、弊社刊のガイドブック『ザ・古墳群〜百舌鳥と古市 全89基』で89基の古墳を取材した際に、百舌鳥古墳群44基の中で最も印象に残ったのが、この御廟表塚古墳だった。

筒井家の、クスノキの近くにある「御廟表塚古墳」の石碑。この頃は墳丘に樹木があった(2017年12月1日・内池秀人撮影)

筆者は小学校6年の秋から高校卒業までの6年半、「百舌鳥夕雲町」「百舌鳥梅町」といずれも「百舌鳥」と名の付く町に住んでいた。前者は国内1位の「仁徳天皇陵古墳」、後者は同7位で美しい墳丘のシルエットに定評のある「ニサンザイ古墳」からいずれも徒歩3分の距離に自宅があった。古墳好きにとっては「世界遺産のスーパースター」のそばで、さぞかし羨ましい場所であることだろう。

しかし、10代のガキにそんなものの値打ちが分かるはずもない。

広大な古墳はたしかに自然の宝庫ではあったが、住民にとってほとんどの墳丘は「柵の向こう、濠の向こう」であり、その恩恵には与れない。周囲を歩くと四季の移ろいが感じられ、鳥や虫たちの声が聞こえて風情はあるのだが、それを「風情」と実感できるには若すぎた。

そんな少年時代は遥か昔になった2017年の12月に、古墳本の取材で初めて御廟表塚古墳を訪れた。

意外なことに、高校通学に利用した南海中百舌鳥駅からわずか徒歩5分の距離、自転車でたびたび前を通っていた「西高野街道」沿いにあったが、道からはよく見えなかった(というより、意識していなかった)。

百舌鳥で初めて「登れる古墳」を体験した日のことは忘れられない。44基ある百舌鳥古墳群の中で、墳丘に登れるのはわずか4基。その中でも墳丘長約85メートルの御廟表塚古墳はナンバーワンの大きさだ。

ライターの郡麻江さんもカメラマンの内池秀人さんも、それまで「見る」しかなかった古墳に「登れる」という要素が加わって興奮している。案内していただいた堺市博物館の学芸員・橘泉さんも、はしゃぐ取材班を見ながら楽しそうにしていた。

百舌鳥古墳群が世界遺産に登録され、案内板も設置された。山火事を避けるために、墳丘の樹木が伐採されたのは少し残念(2023年8月28日)

『ザ・古墳群〜百舌鳥と古市 全89基』が出版されて以降も、この御廟表塚古墳には用事のないときも何度も訪れては墳丘に登り、頂上から百舌鳥の集落や他の古墳を眺めて悦に入っていた。

こんな経験が子供時代に味わえていたら、百舌鳥に対する印象も少しは変わっていたかもしれない。あの時の興奮と墳丘のほっこり感を、小林カツ代さんは実は70年以上前に味わっていたのかと知ると、ちょっと他人とは思えなくなった。

小林カツ代さんと筒井家や百舌鳥とのつながりについては、中原さんの著書『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』をぜひ。

12月16日(土)のナカノシマ大学では、その中原一歩さんが東京から来阪して、とっておきのエピソードを話してくれます。

人に伝えたくなる「料理研究家・小林カツ代さん」のこと

2023年11月24日 金曜日

担当/中島 淳

12月16日(土)のナカノシマ大学では、料理研究家・小林カツ代さん(1937〜2014)の凄さ、非凡さ、おもしろさをたっぷりと取り上げたいと思っている。

それはカツ代さんがこの1月で「没後10周年」を迎えるというのもあるが、生まれも育ちも大阪の人だし(だとご存じない人も結構いる)、大阪の街の歴史を体現しているような彼女の人生がほんまに「掘り甲斐のある」ヒストリーなので、「そんなにおもしろい話ならみなさんに聞いてもらわんと」ということで今回、講座開催になった次第。

カツ代さんは昭和12年(1937)生まれ。美空ひばりや加山雄三、阿久悠、ジェーン・フォンダと同い年である。現在は大阪市立中央図書館のある西区北堀江(当時は御池通=みいけどおり=という地名)の、製菓材料卸商の末娘として誕生した。

「美味しいもの好き」と「人を差別しない」以外は性格も家庭環境も正反対の両親から優しく見守られるように育った生い立ちや、少女時代に大阪大空襲で疎開した堺市百舌鳥の「筒井家」での生活が気に入って(「裏山」だった同じ敷地内の御廟表塚〈ごびょうおもてづか〉古墳が遊び場だった)、一家が大阪に転居した後も堺市立百舌鳥小学校に卒業まで通学したこと、マンガに夢中になって手塚治虫から「将来は必ずマンガ家になりなさい」と手紙をもらい、短大卒業後に専業主婦になってからも漫画学校に通ったこと、お昼のワイドショーを観て「つまらないからお料理のコーナーを新設しては?」とテレビ局に投書したところ「すぐに会いたい」と言われ、「カツ代さんがテレビでお料理を作ってください」と無茶振りされてそれが料理研究家のスタートとなったこと……人生これ、エピソードの宝庫のような人と言ってもいい。

この本はナカノシマ大学当日、大阪府立中之島図書館ミュージアムショップで販売

今回のナカノシマ大学の講師は、ノンフィクションライターの中原一歩さん(1977〜)。『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』(文春文庫)の著者で、政治・経済から街や名店の話まで実に幅広いフィールドで雑誌やWEBに頻繁に寄稿している。著書に『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社)や『マグロの最高峰』(NHK出版新書)などの力作がある。

中原さんが小林カツ代に会ったのは彼がまだ二十歳の頃。

『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』は、1990年代の後半に「ピースボート」のスタッフだった中原さんが、「料理の鉄人」で鉄人・陳建一を破ってますます忙しくなり、分刻みのスケジュールをこなしていた超売れっ子の料理研究家のカツ代さんに電話をするところからはじまる。

「もしもし、突然なんですけどお正月に船上のキッチンで黒豆を炊いてもらえないでしょうか。そうです。黒豆です。作る場所は海外です。成田から飛行機に乗ってもらって、ビューっと。二十時間ぐらいかな。そこから船に乗って。あっそうそう。船といっても、クイーン・エリザベス号とか豪華客船じゃないですよ。えっ、ギャラですか。ギャラはなくてボランティアでお願いします」

カツ代さんは「無茶振りされやすい人」なのだろうか?

筆者は、この偉大な料理研究家には映像や著書でしかお目にかかったことがない。が、たぶん彼女は子供の頃から「おもしろそうなこと」に対して直感で反応する人であったのだろう。案の定、会ったこともない青年からの、すぐ電話を切られてもおかしくない依頼に対して

ところが耳を疑ったのは私のほうだった。カツ代さんは、話が終わるか終わらないかのうちに何の躊躇もなく、こう態度を表明した。

「面白いわね、私、行くわ」

中原さんのリクエストを承諾した、この後のカツ代さんと中原さんのインド洋上での顛末は、『小林カツ代伝』でたっぷり楽しんでいただきたいが(ドラマにしたらホンマにおもろいと思う)、筆者はカツ代さんが単に「おもしろそうな話だから乗った」だけではなかったのではないか……と思った。

それで、筆者が連載をしているOsakaMetroの沿線PR誌『Metrono』で小林カツ代さんのことを書くにあたって、『小林カツ代伝』の著者である中原一歩さんから話を聞きたいと思い、お世話になっている文藝春秋の方に紹介をお願いし、お会いすることができた。

『Metrono』Vol.3(2023年11月10日発行)は現在OsakaMetro全駅や大阪シティバスのターミナルで配架中(p9「あの人がいた場所。」)

思ったとおり、とても声のいい人だった。

人に何かお願いごとをする際には、手紙もあるしメールもあるし、いまならSNSもある。

電話は、こちらが「出るタイミングかどうか」はお構いなしにかかってくるリスクの高いコミュニケーションツールだけど、「相手の声を聞くと信頼すべき人間かどうかがなんとなく分かる」というツールでもある。

力強くて歯切れのいい中原さんの受け答えを聞きながら思ったのは「この声で頼まれたらなかなかイヤとは言われへんやろなぁ」。

カツ代さんの直感は正しかったと思うし(彼女が亡くなるまで友人としての付き合いが続いた)、メールではなくいきなり電話をした中原さんの読みは正しかったと思う。

……そんなことを考えながら、筆者も初対面でありながら中原さんに無茶振りしてしまった。

「ナカノシマ大学で、小林カツ代さんのことを話してもらえませんか?」

12月16日(土)は、それに応えて東京から来阪していただける。

お題は「大阪が生んだ不世出の料理家・小林カツ代は生きている」。

カツ代さんファン、料理好きの方、そして大阪の歴史や人物のエピソードが何よりも好きな人、請うご期待です!

若き日の宮本常一を変えた、大阪の街と山村

2023年11月10日 金曜日

担当/中島 淳

前回のブログに書いたように、父の「10の伝言」を胸に15歳で周防大島(山口県)から大阪に出てきた宮本常一は、逓信講習所(桜宮)の生徒募集を目にして叔父の勧めに従って受験し、合格する。

翌大正13年(1924)には大阪高麗橋郵便局で宮本の社会人生活が始まるのだが、郵便局員として採用された彼が、どのようなプロセスを経て「民俗学者」へと成長していったのか……。

とりあえずは宮本常一『民俗学の旅』(講談社学術文庫)に登場する大阪の地名を列記する。

釣鐘町の長屋(郵便局員時代に間借り)

大正14年(1925)の『大阪市街図:實地踏測』(国際日本文化研究センター所蔵)より。大阪の市街図は今とほとんど変わらないが、釣鐘町(オレンジの線)には長屋があった

東区と呼ばれていた範囲の街路ほとんど

堂島川、土佐堀川、安治川、天保山

松屋町筋(駄菓子屋・玩具屋)天神橋六丁目、天王寺公園

長柄橋、都島橋

大阪府天王寺師範学校(天王寺区南河堀町)

泉南郡有真香小学校(現・岸和田市立修斉小学校)

釘無堂(孝恩寺観音堂・貝塚市木積)

泉南郡田尻小学校(田尻町嘉祥寺)

泉北郡北池田小学校(和泉市池田下町)

大阪朝日新聞

南河内郡高向村滝畑(河内長野市滝畑)……etc.

といった大阪市内・府下の各地に、1920年代、30年代における宮本常一の「足跡」がある。

1920年代には、大阪の都心から天保山まで市電でアクセスできていたが、宮本常一は安治川沿いに歩いて、ここまで来ていた

それらの場所でしかきっと会えなかったであろう人間や事物と出会うことによって、宮本常一は民俗学者への扉を開き、後世「旅する巨人」として日本の民俗学や人の記憶に残ることになるのだが……

若き日の宮本常一は大阪のこれらの場所で、どんな人や事物に出会って「覚醒」したのであろうか。

11月17日(金)のナカノシマ大学「フィールドワーカー・宮本常一を覚醒させた大阪の日々」で、畑中章宏さんが詳しくお話しします。

どうぞお楽しみに!

100年前、少年・宮本常一が大阪に来たことの幸運

2023年11月2日 木曜日

担当/中島 淳

宮本常一(つねいち)という名前を聞いたのはもう30年ほど前のこと。

『忘れられた日本人』(岩波文庫)などの名著を残した、20世紀の日本を代表する民俗学者・宮本常一(1907〜81)。没後40年以上経過した今でも、「曲がり角」にいる日本と日本人が「見落としてはいけない道しるべ」のようなものとして、年々存在感が増しているように思う。

宮本は「民俗学者」という範疇には決してとどまらない人だった。戦前から戦後、高度成長の時代にかけ、日本全国を足で歩いて各地に住む人びとの暮らしを訪ね、民話や日々の生業を細部まで聞き取って記録を残しただけでなく、「もっとこうしたら作物が増えるのではないか」「この土地ならこんな産業を興したら生活が楽になるのではないか」という助言や指導も忘れなかった人である。

「野」の人であったが多くの自治体などが彼の働きぶりに対して仕事を依頼した。

大河ドラマ『蒼天を衝け』のモデルとなった渋沢栄一の孫で、日銀総裁や大蔵大臣を経験した渋沢敬三(1896〜1963)は宮本のパトロンとして支援を惜しまなかった。昔の日本にはそんな財界人もいたのである。

宮本が73歳でその生涯を閉じるまでに歩いた総距離は地球4周分(約16万㎞)に及ぶという。1日1万歩(約7㎞)を1年間続けると2,555㎞。16万㎞歩くにはまるまる62年以上をこのペースで歩かなければならず、人生のほとんどが歩きっぱなしの人であったことが分かる。

筆者の家にも宮本の著書や、宮本をリスペクトした佐野眞一や毛利甚八の本がある。それらはすべて「書物」の中の体験でしかなく、「昔はスゴい人がおったんやなぁ」的なレベルだった。そういう訳なので、宮本常一をずっと研究対象として追いかけていた人から話が聞けるのは、とても興味深い。

11月のナカノシマ大学の講師である、大阪生まれ大阪育ちの民俗学者・畑中章宏さんは今年、宮本常一についての著書を上梓した。タイトルは、『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』(講談社現代新書)。

5月に刊行されたが、この本に込められたメッセージに共感する人が増え、早くも4刷を迎えた。

とくにこの中で触れられていた、「宮本の民俗学がほかの民俗学者の民俗学と際立って違うのは、フィールドワークの成果が実践に結びついていった」ということと、「庶民の歴史を探求するなかで、村落共同体が決して共同性に囚われてきただけではなく、『世間』という外側と絶えず行き来し流動的な生活文化をつくってきたことも明らかにする。そしてそれは、公共性への道が開かれていたと解釈することができる」ということはとても重要な指摘だと思う。

畑中さんは災害伝承・民間信仰から、最新の風俗・流行現象まで幅広いテーマに取り組んでいて、著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『天災と日本人』『廃仏毀釈』(ちくま新書)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)、『死者の民主主義』(トランスビュー)、『日本疫病図説』(笠間書院)、『五輪と万博』(春秋社)などがある。

宮本常一の故郷で開かれる「周防大島郷土大学」でもたびたび講師を務めている人で、ナカノシマ大学では「大阪における宮本常一」をテーマに講義をしてくれることになった。

周防大島で生まれ育った宮本常一の転機は15歳の時に訪れる。

高等小学校を卒業してからは「一年ほど郷里で百姓をした」のだが、翌年の大正12年(1923)3月に祖母が他界する。大阪から葬式のために帰省してきた叔父(父の弟)は「常一も田舎で百姓させるのでなく、大阪へでも出して勉強させてみては?」と父に言ったという。

すると父は、「一年間百姓させてみてもう大丈夫だと思う。何をさせてみても一人前のことはできるだろう」と常一の大阪行きを認め、翌4月に大阪へ出ることになった。

宮本常一の父親・善十郎の凄さについて、宮本常一『民俗学の旅』(講談社学術文庫)から引用する。

出るときに父からいろいろのことを言われた。そしてそれを書いておいて忘れぬようにせよとて私は父のことばを書きとめていった。

(1)汽車に乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

(2)村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。

(3)金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

(4)時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。

(5)金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。

(6)私はおまえを思うように勉強させてやることはできない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。

(7)ただし病気になったり、自分で解決のつかないことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。

(8)これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

(9)自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。

(10)人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。

 大体以上のようなことであったと思う。私はこのことばにしたがって今日まであるき続けることになる。

父の人生で培われた、力強いメッセージを胸に宮本常一が旅立った先は、空前の近代化で膨張する1923年の大阪だった。あの宮本常一が初めて体験した「世間」とは大阪のこと。今からちょうど100年前で、100年というのは遠い昔のようでもあるが……

ナカノシマ大学の会場である大阪府立中之島図書館も、隣の大阪市中央公会堂も、御堂筋を挟んだ日本銀行大阪支店もこの時すでに建っていたと思うと、実は「ほんの昨日のこと」でもある。

大阪にやって来た若き日の宮本常一の奮闘ぶりを、畑中章宏さんが詳しくお伝えします。タイトルは「フィールドワーカー・宮本常一を覚醒させた大阪の日々」。お楽しみに!