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カツ代さんの「肉じゃが」を作ってみて

2023年12月13日 水曜日

担当/中島 淳

ノンフィクションライターの中原一歩さんに料理研究家・小林カツ代さんのことを12月16日(土)のナカノシマ大学で話してほしいと思った理由は「波乱万丈の人生がおもしろそう」「大阪生まれ・育ちの人が全国区の料理研究家になったんやし」「大好きな百舌鳥の古墳つながり(前項参照)」などいろいろあるが、決定的な理由は、そのレシピを自分で作ってみて「これはウマいわ!」「こんなに早よできるんや」と思ったからである。

牛肉、タマネギ、ジャガイモしか入っていないが、そのシンプルさがまたヨイ

お恥ずかしい話だが、生まれてこのかた60年以上、肉じゃがというものは作ったことがなかった。

けれど、とても好きな一品なので、居酒屋では必ず頼むし、相方にも「最近肉じゃが食うてへんわ」などと横着をカマして作ってもらっていた。

中原一歩さんの『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る(以下、カツ代伝)』では第一章で、1990年代に絶大なる人気を誇った食の格闘技的対決番組「料理の鉄人」(フジテレビ)に小林カツ代さんが挑戦者として出演し、中華の鉄人・陳建一を破ったスリリングな闘いが記されているが(対戦のテーマは「ジャガイモ」)、この章のキモである「肉じゃが」に大幅に字数が割かれている(以下引用)。

それまでの肉じゃがは、切ったジャガイモ、ニンジン、タマネギ、牛肉を、出汁、醤油、砂糖、みりんとともにゆっくり煮込むスタイルが一般的だった。最後に茹でたサヤインゲンなどがあしらいとして添えられる。

出汁はしっかりと鰹節の利いた二番出汁。ジャガイモやニンジンは面取りをし、ジャガイモは水にさらして準備する。調味の順番は和食の基本「さしすせそ」。荷崩れを防止するために火は鍋全体が沸き立つ程度の弱火。こうした和食の基本を押さえて作る肉じゃがは確かにおいしい。けれども、完成するまでに三十分を要する「手のかかる」料理だった。

それに比べると、カツ代の肉じゃがは自由奔放であり、豪快だ。なにより斬新なのは「出汁」ではなく「水」で煮るということ。(中略)煮物といえば「出汁」という概念を、カツ代は「料理の鉄人」という大舞台であっさりと覆した。ここで、「正調・小林カツ代の肉じゃが」のレシピを紹介しよう。

材料(四人分)

・牛薄切り肉……二◯◯グラム

・タマネギ……一個(二◯◯グラム)

・ジャガイモ……四個(六◯◯グラム)

・サラダ油……大さじ一

【A】砂糖……大さじ一、みりん……大さじ一、醤油……大さじ二と二分の一

・水……一と二分の一カップ(三〇〇ミリリットル)

どういうわけか美しい写真が載っている料理本より、文字だけで書かれたもののほうが自分にとっては印象に残りやすい。それで、この『カツ代伝』を見ながら肉じゃがを作ってみたのである(以下引用、写真は筆者)。

作り方

1 タマネギは半分に切ってから、繊維に沿って縦一センチ幅に切る。牛肉は二つ〜三つに切る。

2 ジャガイモは皮をむいたら、まるごと水につけておく。作る直前に、大きめに一口大に切る。

3 鍋にサラダ油を熱し、タマネギを強めの中火で熱々になるまで炒める。

4 真ん中をあけて肉を置き、肉めがけてAの調味料を加える。

Aの調味料を投入した直後。牛肉食いたさに300g使った(笑)

5 肉をほぐしながら強火で味をからめる。

6 全体にコテッと味がついたら、水気を切ったジャガイモを加えてひと混ぜし、分量の水を注いで表面を平にする。

ジャガイモはこんな後から入れるのが意外だった

 

7 蓋をして、強めの中火で十分前後煮る。途中で一度上下を返すように混ぜる。ジャガイモがやわらかくなったら火を止める。

 

それで10分ちょいで出来上がった肉じゃがを食べた時の感動は忘れない。

自分が作ったものというのは、作っている最中はテンションMAXになるが、出来上がりを食べる頃には沈静化していて、「ま、そこそこ美味しいやん」ぐらいの感じである。しかし、このときは違っていた。

タマネギもジャガイモも飴色になって、たまらん匂いが漂っております

カツ代さんの弟子、本田明子さん(料理研究家)はかつて、カツ代本のレシピ通りに作った料理があまりにも美味しかったので、「私は天才ではないだろうか!?」と思ったそうだが、筆者もドヤ顔をしつつあっちゅう間に皿を平らげたのである。

カツ代さんのレシピ。まだ入り口に足を踏み入れたばかりだけど、なんと全部で10,000点ほどあるらしい。毎日あたらしい料理を作ったとしても、死ぬまでにその3割にも満たないまま人生が終わってしまうだろう。

それでも、「休日、腕によりをかけて」ということではない限られた時間で美味いもんが作れるという幸せは、若い頃には味わえなかったよなぁ……と思うと、いくつになってもあたらしい何かを試して覚えてみるのはほんまに大事ですわ。

きっとカツ代さんは、2005年にくも膜下出血で倒れるまで、「あたらしい自分を拓く」ことを課していたのだと思うと、料理というのは奥が深いし、人が「生きるために命をつなぐ」ものだよなぁとしみじみ感じる。

残った肉じゃがにシラタキを入れて煮てから玉子でとじて丼に。これもオツです

そのカツ代さんの最後の10数年間を、至近距離で見ていた、彼女の戦友とも言える中原一歩さんの話は、ほんとうに楽しみである。

いよいよ間近になった12月16日(土)のナカノシマ大学

あなたのご来場をお待ちしております。

 

 

小林カツ代さんの弟子、本田明子さんも来場

2023年12月8日 金曜日

担当/中島 淳

『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る(以下、カツ代伝)』(文春文庫)の著者でノンフィクションライターの中原一歩さんが登壇する12月16日(土)のナカノシマ大学「大阪が生んだ不世出の料理家・小林カツ代は生きている」に、カツ代さんの弟子で、『カツ代伝』にも度々登場する料理研究家の本田明子さんも来場されることになった。

買い出し→調理準備→リハーサル→オンエアが終わってへとへとになった本田さんの最後のシーンだけ撮りました(すんません)。NHK+でも観られます

本田さんはNHK「きょうの料理」の講師の一人であり、11月3日(祝)に放映された「きょうの料理〜65年続けたらギネス世界記録に認定されましたSP」では、食材の買い出しから食器、調理器具を持参してスタジオ入り、リハーサルであれやこれやのダメ出しや改善点が入って、それを踏まえてオンエア……という超ハードコア密着取材にも登場されている。

「きょうの料理」でテレビに映っていないところでの、カメラマンや調整室の人々、調理助手のみなさんたちの秒単位の苦労が見えて大変面白かったので、見逃した方はぜひ再放送(大晦日の夕方)をご覧になってほしい。

本田さんが小林カツ代さんの門を叩いたのは1982年。この当時のことを中原さんは『カツ代伝』でこのように書いている。

カツ代が『きょうの料理』で披露したのは『うなぎの炊き込みご飯』、乱切りカボチャを胡麻油で炒めた後に醤油、みりん、砂糖で煮る『カボチャの炒め煮』、キュウリ、わかめ、油揚げをお酢で和えた『三色あえ』、熱々の揚げ鶏を、熱いうちに甘酢にジュッと漬ける『揚げ鶏の甘酢がけ』、青じそとパセリの香りが爽やかな『しそのスパゲッティ』など。弟子の本田明子がカツ代の門を叩いたのも、このNHKの放送を見たことがきっかけだった。

『うなぎ一匹で、家族四人で堪能できる。これには驚きました。全く新しいうなぎ料理の提案だったからです。この炊き込みご飯は、スーパーなどで売っているうなぎの食べ方としては、別格のおいしさでした。それまでうなぎといえば、鰻丼のするものと思っていましたから』」(『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』より)

前述の「きょうの料理〜65年続けたら世界記録に認定されましたSP」での、1980年代の蔵出し映像。小林カツ代さんを一気にメジャーにした「20分で晩ごはん」のコーナー

本田さんは高校時代、『小林カツ代のらくらくクッキング』(1980年・文化出版局)に出会う。

それまでは料理を作ってもどこか失敗したり上手く行かなかったりしていたのだが、この本の通り作ってみたら「私は天才だろうか!?」と思ったほど美味しくできたそうだ。「たぶんそういう読者さんは多かったのでは」(本田さん)

本田さんの住む東久留米市には、その「小林カツ代料理教室」があった。短大卒業後の就職先は最大手の証券会社に内定していたが、「この人に弟子入りしたい」という気持ちが高まってくる。でもカツ代さんは「私は弟子はとらない」。それが思わぬところから扉が開く。

うちにね、アコちゃんというゆかいな弟子がいるのですが、だいたい私は弟子をとらない主義だったのに、知り合いの人にたのまれて、会うだけ会いましょうということになったのです。うちへはじめてアコがきた日、マナ(猫)がソファーで寝そべっていました。

彼女、入ってくるなり、あいさつもそこそこに、『アラー、ねこォ!』というなりだきあげました。それを見て、弟子はとらない主義なんか、ふわーっとどこかへいってしまい、『うん、いいよ』

かくてアコはその日から毎日わが家へ」(1984年・小林カツ代『虹色のフライパン』)

この時、「小林カツ代料理教室」に飼い猫のマナがいなかったら、本田明子さんは「きょうの料理」65周年記念番組に出演されるどころか料理研究家にもならず、某大手証券会社で女性役員になっていたかもしれない。

こちらも「きょうの料理〜65年続けたら世界記録に認定されましたSP」で紹介されていた素敵なツーショット。表情が素敵です

そういう意味で、人の運命というのはおもしろいし、小林カツ代さんには「話したくなるエピソード」が多い。

当日は、本田明子さんだけでなく、カツ代さんの姪の浅野貴子さんと、娘のわかなさんも来場されるそうで、カツ代さんファンはぜひお越しいただければと思う。

ナカノシマ大学のお申し込みはこちらへ。

 

料理研究家・小林カツ代さんと堺の百舌鳥

2023年12月4日 月曜日

担当/中島 淳

小林カツ代さんが製菓卸商「浅野商店」の末娘として生まれたのは昭和12年(1937)。

13〜14歳の時に徳島から大阪の船場に奉公に出され、23歳で大番頭に抜擢されるほどになった努力家の父・浅野徳太郎さんは、堀江の地にバターや小麦粉、ベーキングパウダー、食紅などの食用色素などを扱う製菓材料の卸問屋を興す。若くしてこのような商売で独立することが可能だった当時の堀江という街の特異性について、12月16日(土)のナカノシマ大学の講師であるノンフィクションライターの中原一歩さんは、著書でこのように書いている。

「大正から昭和にかけて、日本の近代食文化に大きく貢献した商人が堀江から誕生したことを、多くの日本人は知らない。牡蠣に含まれるグリコーゲンという栄養素に目をつけ、これをキャラメル菓子として商品化。『一粒三百メートル』というキャッチコピーと、おまけ商法で人気を博した、江崎グリコの創始者・江崎利一。そして、日本で初めてイースト菌の国産化に成功し、米国式連続自動釜を導入した、マルキ号製パンの水谷政次郎だ。」(『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』文春文庫)

大阪市立中央図書館は昭和36年(1961)に開館。平成8年(1996)に全面改築を果たして今日にいたる

生家である浅野家は大阪市西区御池通(みいけどおり)5丁目にあった。現在の西区北堀江3〜4丁目。戦後、南北を結ぶ幹線道路「新なにわ筋」が開通し、西側には大阪市立中央図書館が誕生する。

この巨大図書館にはご当地生まれのカツ代さんの著書も所蔵されているが、ふだん目にするのはほんの一部。しかし広大な書庫には約150点のタイトルが揃い(レシピ本だけでなく名作エッセイも)、もちろん閲覧も貸出も可能。蔵書はWEB検索できるのでぜひ窓口で尋ねてほしい。

 

大阪大空襲ですべてが灰になり、百舌鳥へ

 

両親の愛情をめいっぱい受けて育ったカツ代さんは昭和19年(1944) に大阪市立堀江国民学校(現・堀江小学校)に入学したが、内弁慶な彼女は学校に友達がいなかった。みんなが遊んでいるときに、ぽつんと一人遊びをしているような子供で、かつ不登校の常連だった。しかし、母の笑(えみ)さんは鷹揚に見守り、学校へ行くのを無理強いしなかったという。

カツ代さんが小学校に入った頃から、大阪の市街地はたびたび米軍の空襲に見舞われ、翌昭和20年(1945)3月13日深夜には、あの「大阪大空襲」が起きる。B29を100機以上連ねての絨緞爆撃だった。

「この空襲によって、木造家屋が集中していた堀江は壊滅した。大阪を代表する色町、堀江遊郭も、東洋一のマルキ号製パンの大工場も、江戸元禄の時代からこの地に根を張り生きてきた歴史ある商家も、そして徳太郎が一代で築きあげた浅野の家も、みんな灰になってしまったのである。」(同)

一家は、近所で食堂を営んでいた朝鮮人の友達のつてで、堺市百舌鳥の、戦国武将・筒井順慶(1549〜84)の子孫である「筒井家」の離れに疎開することになった。商家や問屋、工場などが密集する堀江から、町の大半が田んぼで、いたるところに自然が残る百舌鳥への環境の変化が、カツ代さんの人生を決定的に変えたといっても過言ではないと思う。

筒井家のシンボル、大クスノキ(堺市北区中百舌鳥町4-535)。内部は非公開

転校した堺市百舌鳥小学校では、当初「都会から来た垢抜けた女の子」に対する風当たりが強く、上級生からよく目をつけられていじめられたらしい。しかし、自然の生態系そのもののような筒井家の広大な敷地で思う存分に遊び回るだけでなく、戦中戦後の「ひもじさ」とはほとんど無縁の筒井家からもたらされる豊富な食材を使って母と姉が作る料理は、育ち盛りのカツ代さんにとって何よりの楽しみだった。学年が上がるごとに「成績優秀で、正義感の強い人気者」へと自己変革がはじまる。

「体がじょうぶになるにつれ、友だちもどんどん増えていきました。学校は、あいかわらず休みがちでしたが、友だちができはじめると、もともとは明るい性格なので、外交的になっていきました。五年生くらいになると、弱いものいじめしている男の子をポカリとやるくらい、ツヨークなっていました。」(小林カツ代『虹色のフライパン』国土社)

中原一歩さんも著書で筒井家の方に話を聞いている。

『実は生前、カツ代さん本人がたずねてこられたことがありました。堺での暮らしは動物や自然が大好きだった自分にとって、町よりも楽しかったとおっしゃっていました。友だちや先生に恵まれて、同窓会のたびに、プライベートで足を運ばれているようでした』。カツ代は料理研究家としてデビューした後も、筒井家に対する恩義を忘れることはなかった。晩年まで、筒井家とは年賀状のやりとりがあったという。

(中略)結局、堺には三年ほど身を寄せていたが、その後、カツ代は再び大阪市内へと移り住む。しかし、よほどこの小学校の居心地が良かったのだろう。戦後、カツ代は大阪市内から、再建されたばかりの地下鉄と電車を乗り継いで、卒業まで、この小学校に通った。」(『小林カツ代伝』)

筒井家の敷地には、百舌鳥古墳群に属する「御廟表塚(ごびょうおもてづか)古墳」がある。カツ代さんの姉の節さんは、「裏山」と呼んでいたこの古墳にもカツ代さんとしょっちゅう登っていたと、弟子で料理研究家の本田明子さんが教えてくれた。

百舌鳥の中でも珍しい、街道沿いの登れる古墳

 

ここから先は筆者の話であるが、弊社刊のガイドブック『ザ・古墳群〜百舌鳥と古市 全89基』で89基の古墳を取材した際に、百舌鳥古墳群44基の中で最も印象に残ったのが、この御廟表塚古墳だった。

筒井家の、クスノキの近くにある「御廟表塚古墳」の石碑。この頃は墳丘に樹木があった(2017年12月1日・内池秀人撮影)

筆者は小学校6年の秋から高校卒業までの6年半、「百舌鳥夕雲町」「百舌鳥梅町」といずれも「百舌鳥」と名の付く町に住んでいた。前者は国内1位の「仁徳天皇陵古墳」、後者は同7位で美しい墳丘のシルエットに定評のある「ニサンザイ古墳」からいずれも徒歩3分の距離に自宅があった。古墳好きにとっては「世界遺産のスーパースター」のそばで、さぞかし羨ましい場所であることだろう。

しかし、10代のガキにそんなものの値打ちが分かるはずもない。

広大な古墳はたしかに自然の宝庫ではあったが、住民にとってほとんどの墳丘は「柵の向こう、濠の向こう」であり、その恩恵には与れない。周囲を歩くと四季の移ろいが感じられ、鳥や虫たちの声が聞こえて風情はあるのだが、それを「風情」と実感できるには若すぎた。

そんな少年時代は遥か昔になった2017年の12月に、古墳本の取材で初めて御廟表塚古墳を訪れた。

意外なことに、高校通学に利用した南海中百舌鳥駅からわずか徒歩5分の距離、自転車でたびたび前を通っていた「西高野街道」沿いにあったが、道からはよく見えなかった(というより、意識していなかった)。

百舌鳥で初めて「登れる古墳」を体験した日のことは忘れられない。44基ある百舌鳥古墳群の中で、墳丘に登れるのはわずか4基。その中でも墳丘長約85メートルの御廟表塚古墳はナンバーワンの大きさだ。

ライターの郡麻江さんもカメラマンの内池秀人さんも、それまで「見る」しかなかった古墳に「登れる」という要素が加わって興奮している。案内していただいた堺市博物館の学芸員・橘泉さんも、はしゃぐ取材班を見ながら楽しそうにしていた。

百舌鳥古墳群が世界遺産に登録され、案内板も設置された。山火事を避けるために、墳丘の樹木が伐採されたのは少し残念(2023年8月28日)

『ザ・古墳群〜百舌鳥と古市 全89基』が出版されて以降も、この御廟表塚古墳には用事のないときも何度も訪れては墳丘に登り、頂上から百舌鳥の集落や他の古墳を眺めて悦に入っていた。

こんな経験が子供時代に味わえていたら、百舌鳥に対する印象も少しは変わっていたかもしれない。あの時の興奮と墳丘のほっこり感を、小林カツ代さんは実は70年以上前に味わっていたのかと知ると、ちょっと他人とは思えなくなった。

小林カツ代さんと筒井家や百舌鳥とのつながりについては、中原さんの著書『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』をぜひ。

12月16日(土)のナカノシマ大学では、その中原一歩さんが東京から来阪して、とっておきのエピソードを話してくれます。

人に伝えたくなる「料理研究家・小林カツ代さん」のこと

2023年11月24日 金曜日

担当/中島 淳

12月16日(土)のナカノシマ大学では、料理研究家・小林カツ代さん(1937〜2014)の凄さ、非凡さ、おもしろさをたっぷりと取り上げたいと思っている。

それはカツ代さんがこの1月で「没後10周年」を迎えるというのもあるが、生まれも育ちも大阪の人だし(だとご存じない人も結構いる)、大阪の街の歴史を体現しているような彼女の人生がほんまに「掘り甲斐のある」ヒストリーなので、「そんなにおもしろい話ならみなさんに聞いてもらわんと」ということで今回、講座開催になった次第。

カツ代さんは昭和12年(1937)生まれ。美空ひばりや加山雄三、阿久悠、ジェーン・フォンダと同い年である。現在は大阪市立中央図書館のある西区北堀江(当時は御池通=みいけどおり=という地名)の、製菓材料卸商の末娘として誕生した。

「美味しいもの好き」と「人を差別しない」以外は性格も家庭環境も正反対の両親から優しく見守られるように育った生い立ちや、少女時代に大阪大空襲で疎開した堺市百舌鳥の「筒井家」での生活が気に入って(「裏山」だった同じ敷地内の御廟表塚〈ごびょうおもてづか〉古墳が遊び場だった)、一家が大阪に転居した後も堺市立百舌鳥小学校に卒業まで通学したこと、マンガに夢中になって手塚治虫から「将来は必ずマンガ家になりなさい」と手紙をもらい、短大卒業後に専業主婦になってからも漫画学校に通ったこと、お昼のワイドショーを観て「つまらないからお料理のコーナーを新設しては?」とテレビ局に投書したところ「すぐに会いたい」と言われ、「カツ代さんがテレビでお料理を作ってください」と無茶振りされてそれが料理研究家のスタートとなったこと……人生これ、エピソードの宝庫のような人と言ってもいい。

この本はナカノシマ大学当日、大阪府立中之島図書館ミュージアムショップで販売

今回のナカノシマ大学の講師は、ノンフィクションライターの中原一歩さん(1977〜)。『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』(文春文庫)の著者で、政治・経済から街や名店の話まで実に幅広いフィールドで雑誌やWEBに頻繁に寄稿している。著書に『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社)や『マグロの最高峰』(NHK出版新書)などの力作がある。

中原さんが小林カツ代に会ったのは彼がまだ二十歳の頃。

『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』は、1990年代の後半に「ピースボート」のスタッフだった中原さんが、「料理の鉄人」で鉄人・陳建一を破ってますます忙しくなり、分刻みのスケジュールをこなしていた超売れっ子の料理研究家のカツ代さんに電話をするところからはじまる。

「もしもし、突然なんですけどお正月に船上のキッチンで黒豆を炊いてもらえないでしょうか。そうです。黒豆です。作る場所は海外です。成田から飛行機に乗ってもらって、ビューっと。二十時間ぐらいかな。そこから船に乗って。あっそうそう。船といっても、クイーン・エリザベス号とか豪華客船じゃないですよ。えっ、ギャラですか。ギャラはなくてボランティアでお願いします」

カツ代さんは「無茶振りされやすい人」なのだろうか?

筆者は、この偉大な料理研究家には映像や著書でしかお目にかかったことがない。が、たぶん彼女は子供の頃から「おもしろそうなこと」に対して直感で反応する人であったのだろう。案の定、会ったこともない青年からの、すぐ電話を切られてもおかしくない依頼に対して

ところが耳を疑ったのは私のほうだった。カツ代さんは、話が終わるか終わらないかのうちに何の躊躇もなく、こう態度を表明した。

「面白いわね、私、行くわ」

中原さんのリクエストを承諾した、この後のカツ代さんと中原さんのインド洋上での顛末は、『小林カツ代伝』でたっぷり楽しんでいただきたいが(ドラマにしたらホンマにおもろいと思う)、筆者はカツ代さんが単に「おもしろそうな話だから乗った」だけではなかったのではないか……と思った。

それで、筆者が連載をしているOsakaMetroの沿線PR誌『Metrono』で小林カツ代さんのことを書くにあたって、『小林カツ代伝』の著者である中原一歩さんから話を聞きたいと思い、お世話になっている文藝春秋の方に紹介をお願いし、お会いすることができた。

『Metrono』Vol.3(2023年11月10日発行)は現在OsakaMetro全駅や大阪シティバスのターミナルで配架中(p9「あの人がいた場所。」)

思ったとおり、とても声のいい人だった。

人に何かお願いごとをする際には、手紙もあるしメールもあるし、いまならSNSもある。

電話は、こちらが「出るタイミングかどうか」はお構いなしにかかってくるリスクの高いコミュニケーションツールだけど、「相手の声を聞くと信頼すべき人間かどうかがなんとなく分かる」というツールでもある。

力強くて歯切れのいい中原さんの受け答えを聞きながら思ったのは「この声で頼まれたらなかなかイヤとは言われへんやろなぁ」。

カツ代さんの直感は正しかったと思うし(彼女が亡くなるまで友人としての付き合いが続いた)、メールではなくいきなり電話をした中原さんの読みは正しかったと思う。

……そんなことを考えながら、筆者も初対面でありながら中原さんに無茶振りしてしまった。

「ナカノシマ大学で、小林カツ代さんのことを話してもらえませんか?」

12月16日(土)は、それに応えて東京から来阪していただける。

お題は「大阪が生んだ不世出の料理家・小林カツ代は生きている」。

カツ代さんファン、料理好きの方、そして大阪の歴史や人物のエピソードが何よりも好きな人、請うご期待です!

若き日の宮本常一を変えた、大阪の街と山村

2023年11月10日 金曜日

担当/中島 淳

前回のブログに書いたように、父の「10の伝言」を胸に15歳で周防大島(山口県)から大阪に出てきた宮本常一は、逓信講習所(桜宮)の生徒募集を目にして叔父の勧めに従って受験し、合格する。

翌大正13年(1924)には大阪高麗橋郵便局で宮本の社会人生活が始まるのだが、郵便局員として採用された彼が、どのようなプロセスを経て「民俗学者」へと成長していったのか……。

とりあえずは宮本常一『民俗学の旅』(講談社学術文庫)に登場する大阪の地名を列記する。

釣鐘町の長屋(郵便局員時代に間借り)

大正14年(1925)の『大阪市街図:實地踏測』(国際日本文化研究センター所蔵)より。大阪の市街図は今とほとんど変わらないが、釣鐘町(オレンジの線)には長屋があった

東区と呼ばれていた範囲の街路ほとんど

堂島川、土佐堀川、安治川、天保山

松屋町筋(駄菓子屋・玩具屋)天神橋六丁目、天王寺公園

長柄橋、都島橋

大阪府天王寺師範学校(天王寺区南河堀町)

泉南郡有真香小学校(現・岸和田市立修斉小学校)

釘無堂(孝恩寺観音堂・貝塚市木積)

泉南郡田尻小学校(田尻町嘉祥寺)

泉北郡北池田小学校(和泉市池田下町)

大阪朝日新聞

南河内郡高向村滝畑(河内長野市滝畑)……etc.

といった大阪市内・府下の各地に、1920年代、30年代における宮本常一の「足跡」がある。

1920年代には、大阪の都心から天保山まで市電でアクセスできていたが、宮本常一は安治川沿いに歩いて、ここまで来ていた

それらの場所でしかきっと会えなかったであろう人間や事物と出会うことによって、宮本常一は民俗学者への扉を開き、後世「旅する巨人」として日本の民俗学や人の記憶に残ることになるのだが……

若き日の宮本常一は大阪のこれらの場所で、どんな人や事物に出会って「覚醒」したのであろうか。

11月17日(金)のナカノシマ大学「フィールドワーカー・宮本常一を覚醒させた大阪の日々」で、畑中章宏さんが詳しくお話しします。

どうぞお楽しみに!

100年前、少年・宮本常一が大阪に来たことの幸運

2023年11月2日 木曜日

担当/中島 淳

宮本常一(つねいち)という名前を聞いたのはもう30年ほど前のこと。

『忘れられた日本人』(岩波文庫)などの名著を残した、20世紀の日本を代表する民俗学者・宮本常一(1907〜81)。没後40年以上経過した今でも、「曲がり角」にいる日本と日本人が「見落としてはいけない道しるべ」のようなものとして、年々存在感が増しているように思う。

宮本は「民俗学者」という範疇には決してとどまらない人だった。戦前から戦後、高度成長の時代にかけ、日本全国を足で歩いて各地に住む人びとの暮らしを訪ね、民話や日々の生業を細部まで聞き取って記録を残しただけでなく、「もっとこうしたら作物が増えるのではないか」「この土地ならこんな産業を興したら生活が楽になるのではないか」という助言や指導も忘れなかった人である。

「野」の人であったが多くの自治体などが彼の働きぶりに対して仕事を依頼した。

大河ドラマ『蒼天を衝け』のモデルとなった渋沢栄一の孫で、日銀総裁や大蔵大臣を経験した渋沢敬三(1896〜1963)は宮本のパトロンとして支援を惜しまなかった。昔の日本にはそんな財界人もいたのである。

宮本が73歳でその生涯を閉じるまでに歩いた総距離は地球4周分(約16万㎞)に及ぶという。1日1万歩(約7㎞)を1年間続けると2,555㎞。16万㎞歩くにはまるまる62年以上をこのペースで歩かなければならず、人生のほとんどが歩きっぱなしの人であったことが分かる。

筆者の家にも宮本の著書や、宮本をリスペクトした佐野眞一や毛利甚八の本がある。それらはすべて「書物」の中の体験でしかなく、「昔はスゴい人がおったんやなぁ」的なレベルだった。そういう訳なので、宮本常一をずっと研究対象として追いかけていた人から話が聞けるのは、とても興味深い。

11月のナカノシマ大学の講師である、大阪生まれ大阪育ちの民俗学者・畑中章宏さんは今年、宮本常一についての著書を上梓した。タイトルは、『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』(講談社現代新書)。

5月に刊行されたが、この本に込められたメッセージに共感する人が増え、早くも4刷を迎えた。

とくにこの中で触れられていた、「宮本の民俗学がほかの民俗学者の民俗学と際立って違うのは、フィールドワークの成果が実践に結びついていった」ということと、「庶民の歴史を探求するなかで、村落共同体が決して共同性に囚われてきただけではなく、『世間』という外側と絶えず行き来し流動的な生活文化をつくってきたことも明らかにする。そしてそれは、公共性への道が開かれていたと解釈することができる」ということはとても重要な指摘だと思う。

畑中さんは災害伝承・民間信仰から、最新の風俗・流行現象まで幅広いテーマに取り組んでいて、著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『天災と日本人』『廃仏毀釈』(ちくま新書)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)、『死者の民主主義』(トランスビュー)、『日本疫病図説』(笠間書院)、『五輪と万博』(春秋社)などがある。

宮本常一の故郷で開かれる「周防大島郷土大学」でもたびたび講師を務めている人で、ナカノシマ大学では「大阪における宮本常一」をテーマに講義をしてくれることになった。

周防大島で生まれ育った宮本常一の転機は15歳の時に訪れる。

高等小学校を卒業してからは「一年ほど郷里で百姓をした」のだが、翌年の大正12年(1923)3月に祖母が他界する。大阪から葬式のために帰省してきた叔父(父の弟)は「常一も田舎で百姓させるのでなく、大阪へでも出して勉強させてみては?」と父に言ったという。

すると父は、「一年間百姓させてみてもう大丈夫だと思う。何をさせてみても一人前のことはできるだろう」と常一の大阪行きを認め、翌4月に大阪へ出ることになった。

宮本常一の父親・善十郎の凄さについて、宮本常一『民俗学の旅』(講談社学術文庫)から引用する。

出るときに父からいろいろのことを言われた。そしてそれを書いておいて忘れぬようにせよとて私は父のことばを書きとめていった。

(1)汽車に乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

(2)村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。

(3)金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

(4)時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。

(5)金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。

(6)私はおまえを思うように勉強させてやることはできない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。

(7)ただし病気になったり、自分で解決のつかないことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。

(8)これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

(9)自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。

(10)人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。

 大体以上のようなことであったと思う。私はこのことばにしたがって今日まであるき続けることになる。

父の人生で培われた、力強いメッセージを胸に宮本常一が旅立った先は、空前の近代化で膨張する1923年の大阪だった。あの宮本常一が初めて体験した「世間」とは大阪のこと。今からちょうど100年前で、100年というのは遠い昔のようでもあるが……

ナカノシマ大学の会場である大阪府立中之島図書館も、隣の大阪市中央公会堂も、御堂筋を挟んだ日本銀行大阪支店もこの時すでに建っていたと思うと、実は「ほんの昨日のこと」でもある。

大阪にやって来た若き日の宮本常一の奮闘ぶりを、畑中章宏さんが詳しくお伝えします。タイトルは「フィールドワーカー・宮本常一を覚醒させた大阪の日々」。お楽しみに!

本日11.1(水)だけは「日経」を買ってください

2023年11月1日 水曜日

担当/中島 淳

本日11月1日(水)の日本経済新聞朝刊別刷(第二部)は「11月1日は、本格焼酎・泡盛の日」特集(10ページ)です。この表紙からp7までの編集紙面を弊社で担当しました。

新聞は全国紙(大阪本社)からのお仕事をこれまでにもやっていましたが、「紙面デザインも含めて一切」というのは初めてで、気合が入りましたな。

そこでデザインとイラストは、OsakaMetroのシニア向けフリーマガジン『アルキメトロ』などのビジュアルでおなじみ、神谷利男さんを起用。「焼酎の 熱源に出合う 秋の旅」という題字と1面の大部分を占めるイラストや、各ページの挿絵的イラストをすべて万年筆で描いてもらいました。

〈1〜3面〉

去年の1面は多くの取材写真をスクエアに分割した感じでデザインされていて、それはそれで分かりやすかったのですが、タイトルキャッチの世界観が一発で提示できるようなインパクトのある1面にしないと「最後まで読んでもらわれへんな」と感じ、「イラスト一発で」とお願いしました。

神谷さんは、日経さんへの提案用にカラーイラストと、万年筆イラストの2種類をテスト版として描いてくれたのですが、担当K氏の「もう絶対こっち!」とのセレクトに「これはおもしろいことになりそうやな」の予感。

というのも、「おもしろいページ」というのは現場の作り手だけがノッていてもダメで、発注者がある場合はその担当者のセンスや熱意で決まります。日経のK氏(たぶん社内の調整がほんまに大変だったと思いますが)をはじめ西部支社、大阪本社のみなさんは、よくこんなへそ曲がりの会社を指名して最後までやらせてくれたなぁとほんまに頭が下がります。

神谷さんの、60年代の平凡パンチのような感じのイラストは、シニア層には懐かしいけど(神谷さん自身も同時代人ではない)若い人たちには新鮮かも。彼らがどんな反響を示すかが楽しみです。

2-3面は「『焼酎の熱源』が集まる福岡から目が離せない」。

やっぱり福岡は、九州各県の焼酎産地を控えているから焼酎を売っているor焼酎が飲めるお店のバリエーションもほんまにたくさんあります。その福岡でお酒と食、そしてラグビーのことならまかさんかい、の寺脇あゆ子さんが、「香り系×ソーダ割り」「焼酎ブックバー」のネタを、その熱源である[とどろき酒店][ブックバーひつじが]を取材・執筆してくれました。

そして「焼酎プロデューサー」として女性がもっと焼酎に親しめる場所を積極的に開き、そこに蔵元や食材の生産者、地方自治体なども巻き込んで盛り上げていこうとしている黒瀬暢子さんのことも紹介しています。彼女は明治期後半に焼酎の量産化に貢献した鹿児島の「黒瀬杜氏」の子孫で、各地で「焼酎女子会」を開いていますが、「女子会」という言葉とはええ意味で裏腹に、「伝道師」として焼酎の素晴らしさを日々発信しまくっているほんまに「熱源」そのものの人です。

〈4〜7面〉

「焼酎の熱源を旅する」というお題で、東京・大阪・京都・福岡の「美味くてクセがスゴい店」を、いつも記事をお願いしている地元の強者ライターに紹介してもらいました。

どれも「取材のために行った」のではなく、「ふだん通っている店の魅力を伝えたい」ということで、四人四様の気合が入っています。

東京:譽田亜紀子さん(古代ライター)→世田谷区成城[季節料理 藤]

 

 

 

 

 

 

大阪:奥村康治さん(放送作家)→福島区福島[がじゅまる食堂]

 

 

 

 

 

 

京都:郡 麻江さん(京都&歴史ライター)→中京区四条富小路[薩摩焼酎バー 琥珀]

 

 

 

 

 

 

福岡:寺脇あゆ子さん(食&酒ライター)→中央区平尾[BAR スンクジラ]

どんなお店なのかを書こうと思いましたが、よくよく考えたら今からコンビニか駅売店、あるいは新聞販売店に行けばぜんぜん買えますので、読んでのお楽しみ。

日経はいま1部売りで200円ですが、この別刷10ページに本紙も読めて200円なら安い! たまには新聞を買うのもええですよ。

 

 

 

10/28-29 神保町ブックフェスティバル出展のお知らせ

2023年10月25日 水曜日

140Bは今年も神保町ブックフェスティバルに出展します。

10/28(土)-29(日)
10:00~18:00

出展ブースの場所は昨年とほぼ同じ場所< B-北-9 >になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

何度かの出展でここでしかお会い出来ないないお客さまも増えてきました、再会も新しい出会いも楽しみです。

そして今年もひとり店主ですので、差入れ大歓迎! この2日だけは厚かましくないと倒れてしまいますので!!

今年もたくさんのお運びお待ちしております。(青木)

 

 

 

 

 

昨年の出展ワゴンと140Bの出展イベント守護神ライオンさま

拝啓・古地図サロンから39

2023年10月16日 月曜日

2023年9月22日・本渡章より

【今回の見出し】

■9月の古地図サロンレポートと次回予定

  • 最近と今後の古地図活動★10月~12月
  • 古地図ギャラリー第20回
    東畑建築事務所「清林文庫」コレクション〈その20〉

■古地図サロンのレポート

開催日:9月22日(金)午後3~5時 御堂筋の大阪ガスビル1階カフェ「feufeu」にて。

すっかり秋らしくなりました。皆さま、お元気でいらっしゃいますか。

古地図がテーマのサロンなのに、今回のメイン展示は令和の鳥観図になりました。作品は「岡山カルチャーゾーン鳥瞰絵図」で北・南に分割された2部作。作者は岡本直樹さん(倉敷市)。今夏、岐阜市で2日間にわたって開催された日本地図学会定期大会の「鳥瞰図セッション」でパネリストとして同席した鳥観図絵師です。もう一人のパネリストで鳥観図絵師の青山大介さん(神戸市)はこのレポートで何度か紹介しました。岡本さんは縮尺500分の1で街並みを手描きする細密な作風で知られている絵師。「岡山カルチャーゾーン鳥瞰絵図」は縮尺1200分の1ですが、後楽園や岡山城など岡山市の文化施設が集まるエリアの街並みや旭川の水辺、花咲く木々、道行く人の姿まで、筆をとった当時の見たままを描いているのは同じです。サロンでおなじみの古地図とは一見、異質の世界のようですが、描き手の視点と手技(てわざ)がものを言う点で、鳥瞰図は同じフィールドに属しています。見る人の想像力しだいで、その世界はどこまでも広がります。この日のサロンでも岡本さんの鳥観図が話題の中心になりました。

最近、岡山市の隣の玉野市の歴史発掘プログラムの仕事をしたばかりの私。岡山市にも興味が湧いてきました。

というわけで、11月のサロンでまたお会いいたしましょう。

◉今回のサロンで展示した地図

◆原図
岡山カルチャーゾーン鳥瞰絵図・NORTH 令和2年(2020) 岡本直樹
岡山カルチャーゾーン鳥瞰絵図・SOUTH 令和2年(2020) 岡本直樹
京都近郊(地形図) 大正9年(1920) 大日本帝国陸地測量部

◆復刻
五機内掌覧 天保12年(1841) 作・飄々山人 復刻年不明 古地図史料出版
摂州平野大絵図 宝暦13年 昭和41年(1966)中尾松泉堂
日本海山潮陸図(東日本)元禄4年(1691) 作・石川流宣 復刻年不明 人文社
日本海山潮陸図(西日本)元禄4年(1691) 作・石川流宣 復刻年・復刻者不明

◆絵葉書
御大典記念・奉祝「花電車」6枚組 昭和3年

★次回は2023年11月24日(金)午後3~5時開催予定

会場は御堂筋の大阪ガスビル1階カフェにて。私の30分トークは午後4時頃からです。サロン参加は無料(但し、カフェで1オーダーしてください)。途中参加・退出OK。勉強会でもなく会員制でもありませんので、どなたでも気軽にご参加ください。

諸事情により開催中止の場合は、事前にこの場でお知らせします。

 

【最近と今後の古地図活動】10月~12月

●「近代大阪の記憶が息づく大正区古地図さんぽ」★終了

10月1日(日)午後2~5時。
大阪24区で最も大規模な土地改造が行われた大正区で近代大阪の足跡をたどりつつ語るウォーク。大正橋を飾る「歓喜の歌」の楽譜の意味、尻無川畔のタグボート大正がなぜ船なのか、明治生まれの三泉商店街の現在、人工丘の昭和山、リトル沖縄のルーツを語る大阪沖縄会館と沖縄文庫、内港大開発の名残のはしけ桟橋など、大阪の近代化の光と影。昭和山の頂上で聞こえた三線の音色が沁みました。

朝日カルチャーセンター中之島での講座10~12月

「梅田の歴史、平安期から語りなおす」10月23日(月)・11月13日(月)午前10~12時
 ビル街に残る平安時代以来の梅田の歴史の数々。教室での座学と町歩きの2回講座。

「大正の広重・吉田初三郎の世界」12月15日(金)午前10時30分~12時
 日本全国の名所鳥瞰図で一世を風靡した吉田初三郎の大ベストセラー、鉄道開通50周年記念『鉄道旅行案内』を読み解き、観光ブームに湧いた大正時代の旅を再現。

サロン「東風(こち)」第2回

11月10日(金)午後2~4時 豆玩舎ZUNZO(宮本順三記念館)06-6725-2545 近鉄八戸ノ里駅前の山三エイトビル3階。東大阪観光協会後援。
「東大阪の七不思議」をテーマに、船場もあれば島之内もあった東大阪、ラグビー神社と日本書紀の遠くて近い関係、猫橋跡地蔵とカーネルの呪いなど、七つの謎解きで大いに盛り上がった第1回(9月8日)。その日は未解決だった「瓢箪山遊園の謎」が、後日の調査で解き明かされましたので、11月の第2回サロンで報告します。会場はグリコのおまけミュージアムとして知られる豆玩舎(おまけや)。

謎の「瓢箪山遊園」が載っている「奈良生駒ゆき電車路線案内」(東大阪市所蔵)の部分図。

街の話「江戸から明治へ~古地図の天満はこんな街」

11月23日(祝)15~16時30分 北勝堂 北区西天満3丁目7-7
 チラシの天満クイズ5問、解けた方も解けなかった方も、古地図を見るのが初めての方も大丈夫!親子連れもお一人様もみんなで昔の街をのぞいてみよう。西天満に根をおろしたまちライブラリー「北勝堂」さんにて、古地図を囲んでの気軽なお話の会です。

雑誌「歴史人」で3回連載(10~12月号)

京の都の大通り、「河原町通・烏丸通」の歴史の話(10月号)に続いて、「四条通・御池通」(11月号)、「丸太町通・綾小路通」(12月号)を執筆します。各2頁。歴史人×お通り男史タイアップ企画。

北海道の標茶町立中学校からのお便り

前回お知らせした岐阜市での日本地図学会定期大会「鳥瞰図セッション」登壇の後日談です。セッションで北海道標茶町(しべちゃちょう)の標茶中学校が、地元に残る吉田初三郎「標茶町鳥瞰図」を今年から鑑賞教育教材(写真)として活用しているとの話題を報告したところ、標茶中学校からお礼のメールが届きました。ネット公開されたセッションもご覧いただき、校内掲示のニュースで生徒さんたちも共有されたとのこと。嬉しいお知らせでした。先述のレポートで紹介の「岡山カルチャーゾーン鳥瞰絵図」は、鳥瞰図セッションで同席した岡本直樹さんの作品です。

養老天命反転地に行った

日本地図学会の会場から足をのばし、養老鉄道に乗って、かねてより興味のあった養老天命反転地を訪問。緑の丘陵に「極限で似るものの家」「日本列島」「精緻の棟」「楕円形のフィールド」「死なないための道」など奇妙な名前の建造物群がうねうねと連なり、人はゴールのない曲線と斜面の谷間や十字路をひたすらくぐり抜ける……異色の体感型アート。楽しめました。

●「大阪の地名に聞いてみた」ブログ連載、全12回24編

誰よりも大阪を知る「大阪の地名」の声、地名にひかれ地名で結ばれる人の想い。一年間の連載が2023年1月に完結(題字と似顔絵・奈路道程)し、書籍化が決定! 追加取材を加え、ブログの内容を大幅に再構成し、刊行されます。
それまではブログ「大阪の地名に聞いてみた」でお楽しみください。

第12回 ここは水惑星サンズイ圏【前編・後編】
第11回 島の国の島々の街【前編・後編】
第10回 仏地名は難波(なにわ)から大坂、大阪へ【前編・後編】
第9回  人の世と神代(かみよ)をつなぐ神地名【前編・後編】
第8回 語る地名・働く地名【前編・後編】(仕事地名・北摂編)
第7回 古くて新しい仕事と地名の話【前編・後編】(仕事地名・河内編)
第6回 街・人・物・神シームレス【前編・後編】(仕事地名・泉州編)
第5回 場所が仕事をつくった【前編・後編】(仕事地名・大阪市中編)
第4回 花も緑もある大阪【前編・後編】
第3回 桜と梅の大阪スクランブル交差点【前編・後編】
第2回 続・干支地名エトセトラ&その他の動物地名【前編・後編】
第1回 大阪の干支地名エトセトラ【前編・後編】

 

動画シリーズ継続中! 本渡章の「古地図でたどる大阪の歴史」~「区」150年の歩み

大阪市のたどった道のりを、それぞれの土地の成り立ちと経済、文化など多様な要素を持つ24の「区」から見つめなおすシリーズ。続編はしばらくお待ちを。(制作・大阪コミュニティ通信社)

第2回番外編 府と区と市の関係について再考

第2回その2 西へ西へと流れた街のエネルギーと水都の原風景…西区

第2回その1 「江戸時代の大坂」と「明治以後の大阪」の架け橋となった巨大区…西区

第1回その3 平成の減区・合区が時代のターニングポイント

第1回その2 大正~昭和は人口爆発、増区・分区の4段跳び時代

第1回その1 大坂三郷プラスワン、4つの区の誕生

|古地図ギャラリー|

【花洛一覧図】文化5年頃(1808) 黄華山・画 風折政香・発行

京都を俯瞰した一覧図の初期の成果として知られる作品。西方から街並みと東山を見渡す構図は、その後の俯瞰図でも踏襲され、都の風景のイメージをつくっていきます。記された地名は三条、四条河原、五条、八坂、キタノテンジン(北野天神)など一部のみ。碁盤の目の街路もゆるやかなカーブを描いています。地図よりも絵画に近いタッチが、古都の印象をやわらかに表現しているといえるでしょう。同じ頃、江戸では鍬形蕙斎が「江戸一目図」で富士山を遠景に隅田川に抱かれた江戸の街並みを描き、後の作品に大きな影響を与えました。「花洛一覧図」「江戸一目図」は近代の鳥観図流行の先駆にもなったと考えられます。
作者の黄華山(横山華山)は江戸時代後期の京都の絵師。晩年まで旺盛な創作意欲を示し、祇園祭を緻密に描写した代表作「祇園祭礼図巻」などの作品を残しました。

 

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東畑建築事務所「清林文庫」は、同事務所の創設者東畑謙三が蒐集した世界の芸術・文化に関する稀覯本、約15000冊を所蔵。建築・美術工芸・絵画・彫刻・考古学・地誌など分野は幅広く、世界有数の稀覯本コレクションとして知られる。古地図に関しても国内外の書籍、原図など多数を収め、価値はきわめて高い。
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過去の古地図ギャラリー公開作品

①東畑建築事務所・清林文庫より池田奉膳蔵「内裏図」

 

第17回(2023年5月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「地球萬國山海輿地全図」

②青山大介作品展2023

 

第16回(2023年3月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「天王寺・石山古城図」

 

第15回(2023年1月)

①東畑建築事務所・清林文庫より長谷川圖書「摂津大坂図鑑綱目大成」

 

第14回(2022年11月)

①東畑建築事務所・清林文庫より久野恒倫「嘉永改正堺大絵図」

②鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「私たちの和田山町」

 

第13回(2022年9月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「淀川勝竜寺城跡全図」

 

第12回(2022年7月)

①東畑建築事務所「清林文庫」より秋山永年「富士見十三州輿地全図」

 

第11回(2022年5月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「大日本分境図成」

 

第10回(2022年3月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「新改正摂津国名所旧跡細見大絵図」

③鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「笠岡市全景立体図」

 

第9回(2022年1月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「暁鐘成・浪花名所独案内」

②本渡章所蔵地図より「大阪市観光課・大阪市案内図

③鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「躍進井原市」

 

第8回(2021年11月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「友鳴松旭・大日本早見道中記」

②本渡章所蔵地図より「遠近道印作/菱川師宣画・東海道分間絵図」「清水吉康・東海道パノラマ地図」

③鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「吉備路」

 

第7回(2021年9月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「石川流宣・江戸図鑑綱目坤」「遠近道印・江戸大絵図」

②本渡章所蔵地図より「改正摂津大坂図」

③鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「倉吉市と周辺 文化遺跡絵図」

 

第6回(2021年7月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「石川流宣・日本海山潮陸図」「石川流宣・日本国全図」

②本渡章所蔵地図より「大阪師管内里程図」

③鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「倉敷美観地区絵図」

 

第5回(2021年5月)

①2007清林文庫展解説冊子・2019清林文庫展チラシ

②本渡章所蔵地図より「近畿の聖地名勝古蹟と大阪毎日」

③フリーペーパー「井沢元晴漂泊の絵図師」・鳥観図「古京飛鳥」「近つ飛鳥河内路と史跡」

 

第4回(2021年3月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「大阪湾築港計画実測図」

②本渡章所蔵地図より「大阪港之図」

③鳥観図絵師・井沢元晴の作品より「福山展望図」

④鳥観図絵師・青山大介の作品より「梅田鳥観図2013」

 

第3回(2021年1月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「江戸切絵図(尾張屋版)」「摂津国坐官幣大社住吉神社之図」

②本渡章所蔵地図より「摂州箕面山瀧安寺全図」

③昭和の伊能忠敬・井沢元晴の鳥観図より「小豆島観光絵図」

 

第2回(2020年11月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「メルカトル世界地図帳」「オルテリウス世界地図帳」

②本渡章所蔵地図より「A NEW ATLAS帝国新地図」「NEW SCHOOL ATLAS普通教育世界地図」

③昭和の伊能忠敬・井沢元晴の鳥観図より「大阪府全図(三部作)」

 

第1回(2020年9月)

①東畑建築事務所・清林文庫より「ブレッテ 1734年のパリ鳥観図」

②昭和の伊能忠敬・井沢元晴の鳥観図より「ふたつの飛鳥と京阪奈」

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●電子書籍のお知らせ

本渡章の著書(古地図・地誌テーマ)のうち、電子書籍になった10冊(2022年末現在)は次の通りです。
(記載の刊行年は紙の書籍のデータです)

『鳥瞰図!』140B・刊(2018年)

思考・感情・直観・感覚…全感性を目覚めさせる鳥瞰図の世界にご案内。大正の広重と呼ばれた吉田初三郎の作品群を中心に、大空から見下ろすパノラマ風景の醍醐味を味わえます。併せて江戸時代以来の日本の鳥観図のルーツも紐解く、オールカラー・図版多数掲載の決定版。

『古地図で歩く大阪 ザ・べスト10』140B・刊(2017年)

梅田・中之島・御堂筋・ミナミ・天満・京橋・天王寺。阿倍野・住吉・十三・大正・平野の10エリアを古地図で街歩きガイド。さらに博物館、図書館、大書店、古書店での古地図探しの楽しみ方、大阪街歩き古地図ベストセレクション等々、盛りだくさんすぎる一冊。オールカラー・図版多数掲載。

*上記2冊は各電子書籍ストアでお求めください

*下記8冊は創元社(オンライン)の電子書籍コーナーでお求めいただけます

『図典「摂津名所図会」を読む』創元社・刊(2020年)

大阪の地誌を代表する「摂津名所図会」の全図版を掲載。主要図版(原寸大)には細部の絵解きの説明文、その他の図版にもミニ解説を添えた。調べものに便利な3種類の索引、主要名所の現在地一覧付。江戸時代の大阪を知るためのビジュアルガイド。

『図典「大和名所図会」を読む』創元社・刊(2020年)

姉妹本『図典「摂津名所図会」を読む』の大和(奈良)版です。主要図版(原寸大)には細部の絵解きの説明文、その他の図版にもミニ解説を添え、3種類の索引、主要名所の現在地一覧も付けるなど「摂津編」と同じ編集で構成。江戸時代の奈良を知るためのビジュアルガイド。

『古地図が語る大災害』創元社・刊(2014年)

記憶の継承は防災の第一歩。京阪神を襲った数々の歴史的大災害を古地図から再現し、その脅威と向き合うサバイバル読本としてご活用ください。歴史に残る数々の南海トラフ大地震の他、直下型大地震、大火災、大水害の記録も併せて収録。

『カラー版大阪古地図むかし案内』(付録・元禄9年大坂大絵図)創元社・刊(2018年)

著者の古地図本の原点といえる旧版『大阪古地図むかし案内』に大幅加筆し、図版をオールカラーとした改訂版。江戸時代の大坂をエリアごとに紹介し、主要な江戸時代地図についての解説も収めた。

『大阪暮らしむかし案内』創元社・刊(2012年)

井原西鶴の浮世草子に添えられた挿絵を題材に、江戸時代の大坂の暮らしぶりを紹介。絵解きしながら、当時の庶民の日常と心情に触れられる一冊。

『大阪名所むかし案内』創元社・刊(2006年)

江戸時代の観光ガイドとして人気を博した名所図会。そこに描かれた名所絵を読み解くシリーズの最初の著書として書かれた一冊。『図典「摂津名所図会」を読む』のダイジェスト版としてお読みいただけます。全36景の図版掲載。

『奈良名所むかし案内』創元社・刊(2007年)

名所絵を読み解くシリーズの第2弾。テーマは「大和名所図会」。全30景の図版掲載。

『京都名所むかし案内』創元社・刊(2008年)

名所絵を読み解くシリーズの第3弾。テーマは「都名所図会」。全36景の図版掲載。

※その他の電子化されていないリアル書籍(古地図・地誌テーマ)一覧

『古地図でたどる 大阪24区の履歴書』140B・刊(2021年)

『大阪古地図パラダイス』(付録・吉田初三郎「大阪府鳥瞰図」)140B・刊(2013年)

『続・大阪古地図むかし案内』(付録・グレート大阪市全図2点)創元社・刊(2011年)

『続々・大阪古地図むかし案内』(付録・戦災地図・大阪商工地図)創元社・刊(2013年)

『アベノから大阪が見える』燃焼社・刊(2014)

『大阪人のプライド』東方出版・刊(2005)

 

●本渡章(ほんど・あきら)プロフィール

1952年大阪市生まれ。作家。(財)大阪都市協会発行時の「大阪人」編集などを経て文筆業に。1996年第3回パスカル短篇文学新人賞優秀賞受賞。短編が新聞連載され『飛翔への夢』(集英社)などに収録。編著に『超短編アンソロジー』(ちくま文庫)がある。その後、古地図・地誌をテーマに執筆。
著書『鳥瞰図!』『古地図でたどる大阪24区の履歴書』『古地図で歩く大阪 ザ・ベスト10』『大阪古地図パラダイス』(140B)『古地図が語る大災害』『カラー版大阪古地図むかし案内』『図典「摂津名所図会」を読む』『大阪暮らしむかし案内』(創元社)など多数。共著に『大阪の教科書』(創元社)がある。

「イケフェス大阪」の顔・2人のトークをたっぷりと!

2023年10月12日 木曜日

担当/中島 淳

この10月28日(土)、29日(日)に大阪市内各所で開催される「生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪2023」の開催に先駆けて、その立役者の2人である髙岡伸一先生と倉方俊輔先生が、10.17(火)のナカノシマ大学に登壇する。

開催まで2週間を切ったこのタイミングで登壇するのはお二方とも正直な話、「それどころやないわ」の状況だと思うが(よくぞ今年も!)、それだけに値打ちがありますので、建築好きの人はぜひご参加くださいませ。

筆者自身、大阪の近現代建築物のとてつもない集積についてはホンマに無知だった。知っているのはナカノシマ大学の会場である大阪府立中之島図書館(1904年)や大阪市中央公会堂(1918年)、綿業会館(1931年)、そして弊社の設立後に入居した(140Bというのはこの部屋番号である)旧ダイビル本館(1925年)ぐらい。

そんな状況であったが、中之島のフリーマガジン『島民』(2008〜21年)の発行を重ねるうちにこちらも建築物のことを少しずつ学習するようになるし、これまでにお付き合いのなかった人とも交流ができる。その一人が髙岡伸一先生だった。

「説明」ではなく「建築愛」を感じさせた髙岡伸一先生の街案内とテキスト

 

実は2011年4月から2012年3月まで、140Bは戦前から続く雑誌『大阪人』(発行・財団法人大阪市都市工学情報センター)の編集を1冊まるごと行っていて、1年間で隔月刊誌を6冊、増刊号を4冊企画・編集した。

思い出深い号の一つがこちらの2012年4月号増刊「ザ・大阪のデザイン」である。

表紙は弊社のWEB連載「阪急沿線 あの駅のこと」で駅前風景を描き続ける綱本武雄さんの、四天王寺五重塔の線画。デザインは『島民』『Wao! Yao! 八尾の入り口』『堺を歩けば。』『ザ・古墳群〜百舌鳥と古市 全89基』の山﨑慎太郎さん

特集の一つ「街のかたち。グッドデザインの散歩道」として、船場の近現代建築の「いちばん美味しいところ」を通る三休橋筋の、名建築の集積ぶりを髙岡先生に案内してもらった。歩きながらの案内だけでなく、北は重要文化財の適塾、大阪市立愛珠幼稚園から南は綿業会館(重文)、70年代らしい超高層ビルの大阪国際ビルまでなんと20の建築物。

それを実に楽しそうに、かつ初心者にもよく分かるように案内してくれて、かつ建築物への愛がたっぷりの原稿を書いてくれるので、いっぺんに髙岡先生のファンになった。「建築物を見るって、楽しいもんなんや」感化されていったのである。

髙岡先生の写真が見えへん(汗)。この2年後に「生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪」が始まる(同左)

 

『大阪人』2012年4月号増刊「ザ・大阪のデザイン」より。この頃の三休橋筋は電柱と電線が気になっていた

 

 

 

 

 

「陽気な人たらし」倉方俊輔先生の人間力

 

倉方先生は、イケフェス大阪が始まった2014年以降に出会うのだが、ナカノシマ大学では、この人の醸し出す「華」と明るさで会場がどんどんほぐれていくのを、いつも目の当たりにした。

弊社の販売隊長アオキは、「生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪」の公式ガイドブック(同実行委員会発行)を書店でも扱ってくれるように倉方先生と一緒に書店営業をした2016年のことを「版元ドットコム」のブログに書いている。以下はそこからの抜粋。

 販売初年度の2016年は実行委員会さんとの直取引ということで大阪の主要書店さんに「イケフェス大阪」とガイドブックの必要性を説明するところから始まった。(中略)倉方さんはまず、売場担当の書店員さんへの挨拶もそこそこに、いきなり「イケフェス大阪」について説明し出すのだが、倉方さんは大学の先生であり、実行委員会のメンバーであり、イケメンでもある。大方の書店員さんは、はじめ「イケフェス大阪」ってなんぞやとかなり怪訝な、しかし緊張した表情で説明を聞いているのだけど、次第に倉方さんの熱量溢れる隙のない、そして何よりも楽しそうなセールストークに心を掴まれ、「イケフェス大阪」が大阪の街中をミュージアムに見立てて公開された建築物を見て歩く企画だとわかると、途中からほとんど全員が笑顔になっていく。特に建築に興味がなくても、大阪の人でなくても、ほぼ例外なくみなさん「楽しそうですね」と声に出してもらったり、笑って話を聞いてくれる。

現在、『生きた建築ミュージアムフェスティバル大阪公式ガイドブック(OPEN HOUSE OSAKA 2023)』はトーハン、日販、楽天ブックスネットワーク販売会社経由で書店に並んでいるが、初年度の2016年だけは違っていた。「直取引」というと書店さんにとっては「めんどくせえなぁ」と思う人もいる。だから相当のハードルだったと思うが、それを楽々とクリアする倉方先生、おそるべしである。

このような無敵のコンビが登壇するイケフェス大阪2023直前の、10.17(火)ナカノシマ大学は18時から19時45分まで。おもしろくないはずがないと断言します。満席にならないうちに、こちらへお申し込みよろしく

定価990円(生きた建築ミュージアム大阪実行委員会)

会場である大阪府立中之島図書館(重要文化財)2階のミュージアムショップでは、一般書店と同様に、すでにこの公式ガイドブックを販売中。ナカノシマ大学当日はもちろん、イケフェス当日の10/28(土)までずっと販売しているので、先にご購入していただくと、2日間の予定が考えられますよ。

イケフェス大阪の上機嫌コンビ、倉方先生(左)と髙岡先生。ご両人がナカノシマ大学に揃って登壇するのは、なんと4年ぶりです。請うご期待♬