‘未分類’ カテゴリーのアーカイブ

ナカノシマ大学の会場、中之島図書館が使いやすくなった!

2025年2月19日 水曜日

担当/中島 淳

ナカノシマ大学の会場である大阪府立中之島図書館は明治37年(1904)竣工の重要文化財。

ナカノシマ大学の会場(3階多目的スペース)へは2階正面玄関から入り、中央の曲線階段を登るか、カフェのある南端から上がるかのどちらかで

カメラやスマホを構えてパチパチ撮りたくなるディテールには事欠かないが、このような「年代物の近代建築物」は反面、使いづらさももちろんある。

「会場の3階まで階段上がるのしんどい」

「トイレ行くのにまた階段下りるの面倒だし」

 

というご意見が寄せられていた。ほんまによう分かります。

私たちスタッフも、会場で本を販売するとか、配布資料がたくさんあるときに階段を上り下りするのはちょっとなぁ……という感じでした。

それがこの2月から改善されました。

正面玄関に入らず、右(南)に歩いて、突き当たりを左折(東へ)してください。

北浜駅や栴檀木橋(せんだんのきばし)を渡って図書館に来られる方は、こちらの入り口の方が近いかもです

そうすると真新しい建物が待っている。こちらが「新館」で、本館とは階上でつながっています。自動ドアを入るとエレベーターがあるので、「本館3階連絡通路」のボタンを押してください。

ナカノシマ大学の会場は「3階多目的スペース」だがここは「4」を

本館連絡通路のフロアに着くと、あとは直進するのみです。

 

 

矢印の誘導に従って直進しましょう

 

 

 

 

 

これまでに見ることのなかった、年代モノの眺めでした

 

 

窓越しに中央のドームが望める新鮮な景色を見ながら、突き当たりを左に入れば会場です。どうぞお試しあれ。

それでは、明日のナカノシマ大学、作家・蓮見恭子さんによる「小説『はにわラソン』の作者が古墳の郷・古市の魅力を語る」、お待ちしております。

受講お申し込みはこちらまで(20日15時で締切)→ https://nakanoshima-daigaku.net/seminar/article/p20250220

 

 

蓮見恭子さん入魂のナカノシマ大学資料109ページ!

2025年2月17日 月曜日

担当/中島 淳

『はにわラソン』の作者、蓮見恭子さんはサービス精神の権化のような人である。

2月20日(木)のナカノシマ大学に投影する資料がありましたら、前日までに送ってください」とお願いしたら、早々と100ページ以上のパワーポイントが到着した。

蓮見さんは現地取材の際にほんまにたくさんの写真を撮っておられて、この画像もナカノシマ大学のタイトルバックとはちょっと違う時期に撮影したもの

内容は当日のお楽しみだけど、中身は「5部構成」になっている。

第1部『はにわラソン』への道

第2部  古墳とマラソンとの出会い

第3部  古市古墳群の衝撃

第4部  マラソン運営の取材

第5部  羽曳野市のもう1つの顔

ナカノシマ大学にはこれまでにいろんな小説家の方に登壇してもらっているが、ここまで自作に対して「頭の中」を見せてくれる人もほんまにレア中のレアで、そういう意味でも今回のナカノシマ大学は、古墳好きマラソン好き古市好きの人だけでなく、文学好きの人にもお薦めしたい講座である。

読売新聞2025年2月11日(祝)朝刊

『はにわラソン』の売れ行きも好調だと聞く。2月11日(祝)には読売新聞の大阪府下全域版に、蓮見さんの写真入りインタビュー記事が掲載された。こちらから全文を読めます→ https://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20250210-OYTNT50120/

最近の蓮見さんは、「駅伝」「マラソン」を題材にした作品が多いので、「高校時代は陸上部?」だと勝手に思っていたがその逆で、作品をよりリアルに着地させるために走りはじめたという。以下、読売の記事から

構想のきっかけは約10年前。高校女子駅伝を題材にした作品の執筆中、登場人物の目標タイムやペースがイメージできず、「書くために走り出した」という。

(中略)雨にぬれながら声をかけてくれるボランティアらの姿が頭をよぎり、走る側ではなく、裏方に光を当てたいと考えた。コロナ禍でマラソン大会が中止となるなど、取材がスムーズには進まない時期もあったが、「スポーツ小説、ご当地小説、お仕事小説。私自身のキャリアの集大成」という形に仕上がったという。

蓮見さんは「近くにありながら、あまり古墳に親しみがなかったが、実際に歩いてみて面白さに気付いた。どうやったら古墳を『エンタメ』にできるか一緒に考えてもらえたら」と語る。

とある。

作品の登場人物は実に多彩で、主人公・倉内拓也が勤務する「土師市(モデルは羽曳野市)」の市長や市役所の面々をはじめ、土師市の北隣「白鳥市(モデルは藤井寺市)」で働く古代コスプレイヤー「白鳥姫子」こと坂口唯、南隣「山城市」の名産、鴨を売り出すべく被り物で有名な「カモネギ部長」、拓也がいた箱根駅伝の出場校「東都大学」の監督やメンバー、マラソン大会を支援するワイナリーのオーナー、マラソンの開催に反対する地元の有力者たち、元中学校社会科教師で退職後は観光ボランティアをやっている古墳ガイドの女性……と、百舌鳥・古市古墳群をご存じの方は「あの人やん!?」とニンマリしてしまうことだろう。

読売の記事はこう締め括られている。うれしゅうございます。

 20日午後6時からは、府立中之島図書館で、蓮見さんが古墳群の魅力や作品の過程などを語る講座(2500円。ナカノシマ大学のウェブサイトで受け付け)も開かれる。

ナカノシマ大学の受講申込はこちらから。

お待ちしております→ https://nakanoshima-daigaku.net/seminar/article/p20250220

 

2月25日(火)の天神寄席に、作家の増山実さんが登場!

2025年2月5日 水曜日

担当/中島 淳

2月25日(火)、天満天神繁昌亭で開かれる月1回恒例の「天神寄席」に作家の増山実さんがゲスト出演します。

増山さんは朝日放送「ビーバップ!ハイヒール」などの人気番組を手がけた放送作家でもあります。

小説は西宮球場と阪急ブレーブスへのオマージュでもある『勇者たちへの伝言 いつの日か来た道』(ハルキ文庫)で2016年「大阪ほんま本大賞」を受賞し、その後も『空の走者たち』『風よ僕らに海の歌を』『波の上のキネマ』『甘夏とオリオン』を発表。『ジュリーの世界』では第10回京都本大賞に輝きました。

天神寄席の鼎談ホストでプロデューサーの髙島幸次先生が考えた2月のお題は「珍談奇談奇話逸文」。増山さんの『今夜、喫茶マチカネで』(集英社)を読んでこのお題をイメージしたそうです。

北摂の方にはピン、と来ると思いますが、そう、あの待兼山です。

増山さんからメッセージもいただいていますので、ご覧ください。

「待兼山」。なんと魅力的な響きの地名でしょうか。
大阪の池田・豊中・箕面市の境、現在は大阪大学豊中キャンパスの敷地になっています。
この駅前の喫茶店を舞台に書いた私の小説が『今夜、喫茶マチカネで』。
街にゆかりの人々が人生で経験した、心温まる「奇談」を集めた連作短編集です。
刊行を記念しての今回の天神寄席は、題して『珍談奇談奇話逸文』。
『今夜、喫茶マチカネで』とどこかシンクロする噺を集めました。
夢の話。人間に化ける動物の話。報恩話。怪談話……。「不思議な話」が大好きな方、
ぜひ一夜限りの「待兼山奇談倶楽部」ならぬ、「天神奇談倶楽部」に参加してみませんか。

2月の繁昌亭は、「大阪天満宮の梅見」と切っても切れません。日のあるうちからお越しください。

天神寄席の申し込みはこちらまで。お待ちしています!

https://nakanoshima-daigaku.net/seminar/article/p20250225

「古市」好きは蓮見恭子『はにわラソン』にヤラレる

2025年2月2日 日曜日

担当/中島 淳

作家の蓮見恭子さんは堺の旧市街の人で、子どもの頃から仁徳天皇陵古墳などが馴染みだったという。

2/20(木)ナカノシマ大学でも販売。税込924円

蓮見恭子『はにわラソン』(双葉文庫)より

その蓮見さんから「古墳のまちを舞台にしたマラソンを題材に小説を書きました」と聞いて、最初は「二つの世界遺産(百舌鳥と古市)を結ぶコースにしたんやろなきっと」と勝手に思っていた。

ところが、最新作『はにわラソン』(双葉文庫)を開けると、いきなりこの地図が出てくる。名前こそ変えているが、どう見ても

「土師市って……羽曳野市やん!?」「隣町の白鳥市って……藤井寺市やん!?」

である。百舌鳥古墳群は登場しない。小学校の終わりから高校までを堺で過ごした筆者もこれには驚いたが、よくよく考えると「そらそやろな」となった。

というのは、筆者も『ザ・古墳群〜百舌鳥と古市 全89基』というガイドブックの編集で「古市古墳群」に何度となく通ったことで「古墳めぐり」の面白さを知ったし、古市を知らなかったら「本を出したらそれでおしまい」になっていたかもしれない。

ナカノシマ大学のタイトル写真と同じ、応神天皇陵古墳の西側、外濠外堤(がいごうがいてい)の景色。秋にはコスモス畑と正面の金剛山(右)・大和葛城山を見ながらのハイキングである

百舌鳥古墳群(堺市堺区・北区・西区)は、確かに大阪市内からとても便利な場所にある。なんばから南海高野線、天王寺からJR阪和線、梅田や新大阪から地下鉄御堂筋線と、3本のルートがある。

それに対して、古市古墳群は大阪阿部野橋(地下鉄天王寺駅直結です)から出る近鉄南大阪線一択。20分は余計にかかる。

けれど断言するが、ここを歩いてみたらあなたの古墳に対する認識はきっと変わると思う。

空が広くて山が近い。カントリーロードを歩きながら古墳をめぐる気持ちの良さは「知らんかったわ〜」の世界だ。百舌鳥古墳群は、政令指定都市の中心部にあるために、「都市型住宅地に囲まれている」感がある。

「墳丘に登れる古墳」も百舌鳥に比べて圧倒的に多いし、ユニークな古墳にも多数会えるし、主要な古墳の近くには「葛井寺(ふじいでら)」「道明寺」「道明寺天満宮」「誉田(こんだ)八幡宮」……と国宝のある寺社が控えていて、そういった重層的な文化集積度も古市に軍配が上がる。

近鉄土師ノ里駅から鍋塚古墳〜仲姫命(なかつひめのみこと)陵古墳を通って15分ほど歩いたらこの景色に出会える。2月には墳丘に梅が見られます

6年前、「世界遺産に登録されたから行ってみよか」と一番大きな仁徳天皇陵古墳の拝所に行って、「中に入られへんのかいな……」と落胆して帰った人は、そのリベンジに古市に足を延ばしてほしい。ダマされたと思って。

例えば、藤井寺市の南、羽曳野市との市境近くにある「古室山古墳」は冬の夕方になるとこんな景色になる。

宮内庁が古墳を囲むように設置している無粋な柵もここにはない。

原っぱを歩いて墳丘に取り付くと、好きな斜面から登るだけ。冬から早春にかけては樹木の葉が抜け落ちて墳丘のラインがよく見えるので、実は一番推しの季節だ。

こんな土地を舞台にして公式フルマラソン大会をやるという小説『はにわラソン』の文中にも古墳がいろいろ出てくる。古墳好きなら「あそこのことや♬」とすぐに分かるはずだが、それは読んでのお楽しみということで。

「河内ワイン」の金銅農園によるシャルドネ畑

『はにわラソン』に登場するのは「土師市(羽曳野市)と白鳥市(藤井寺市)にまたがる古墳群」だけではない。

その東側、石川を渡った山裾エリア(羽曳野市駒ヶ谷)のこともしっかり取材している。

羽曳野市はブドウの生産が盛んで、出荷量も栽培面積も大阪府下でトップ。デラウエアの生産はなんと全国3位だ。

そういう土地柄ゆえにワインも「地場産業」として定着していて、デラウエアやシャルドネのワインが市内で普通に売っている。

デラウエアは5〜8月の出荷。農産物の売店で買える

駒ヶ谷の[河内ワイン館]では地場のワインがあれこれ買えるだけでなく、予約制でワイナリーの見学(7人〜)も受け付けているし、館内の「金食堂」は7人からの貸切オンリーだが、食事とワインの両方をここでゆっくり楽しめてお薦めです 。http://www.kawachi-wine.co.jp/index.html

美味いもん好きワイン好きの蓮見恭子さんは、「土師市」のワイナリーとオーナーも物語の重要な人物として登場させている。

彼女はここ10年、マラソンや駅伝の小説をよく書いているが、蓮見作品の主人公は競馬の女性騎手や女性国際犯罪捜査官、古道具屋に嫁いだ女性、たこ焼き屋のおばちゃんまで、その幅も広すぎるぐらい広い。

『はにわラソン』は、羽曳野市のような地場を舞台にして名産のええネタまでふんだんに盛り込んでいる上に、マラソンコースの設定や大会までの運営プロセスの緻密さが凄まじくリアリティがあって、最後まで面白く読ませてくれるのだ。

主人公は、蓮見小説では珍しく男性。ちょっとイケメンのようであるが、とにかく巻き込まれやすいキャラである。

東京・小金井にある大学生の時には箱根駅伝のメンバーになれず、クラブの「主務」となってチームを支えた。卒業後は地元にUターンして「土師市」の職員となり、市長の無茶ぶりで「マラソン大会プロジェクトリーダー」となって実現のために奮闘する。

……という物語と、「古市古墳群」「羽曳野市の名産」をどうやって結びつけたのであろうか?

蓮見恭子さんの登壇は、『たこ焼きの岸本』の大阪ほんま本大賞受賞にちなんだ2021年11月講座以来、3年3か月ぶり

そのあたりは2月20日(木)のナカノシマ大学でじっくりお聞きしたいものである。申し込みはこちらへぜひ♬

https://nakanoshima-daigaku.net/seminar/article/p20250220

建築イラストレーター・コジマユイさんの連載がスタート

2025年1月15日 水曜日

担当/中島 淳

コジマユイさんの「絵で残したい 船場の近代建築たち」の連載が140B ホームページで始まりました。

https://140b.jp/semba_no_kenchiku/

第1回は、船場の建築めぐりの「出発点」とも言える北浜1丁目交差点の「大阪証券取引所ビル」。

コジマユイさんは昨年10月17日(木)のナカノシマ大学と、その後のイケフェス大阪で来阪された際に、これまでに描いていなかった船場の近代建築物を集中的に取材しているので、この先の作品も楽しみです。

ボールペンでここまで仕上げるコジマユイさんの「建築愛」をこれからたっぷりとご堪能ください。

 

焼酎蔵元5社からナカノシマ大学受講者へプレゼント

2025年1月12日 日曜日

担当/中島 淳

1月16日(木)のナカノシマ大学「焼酎と大阪の 深くて意外な歴史」の講師で「黒瀬杜氏」の子孫の黒瀬暢子さん(焼酎プロデューサー)が、「講義だけでなく実際に飲んで感じてほしい」と、講座当日に受講者にプレゼントする焼酎のミニボトルの提供を、蔵元各社にお願いしてくれました。

薩摩酒造の大阪支店長執行役員の佐野竜三さん(右/北九州市出身)と営業本部の期待の星・山本優香さん(天草出身)のええお顔

すると立て続けに薩摩の5社から連絡が!

①薩摩酒造 芋焼酎「さつま白波」
②濱田酒造 芋焼酎「海童」
③大口酒造 芋焼酎「黒伊佐錦」
④小正醸造 芋焼酎「小鶴」
⑤喜界島酒造 黒糖焼酎「喜界島」

どの焼酎になるかは当日のお楽しみです。ただし……

大阪府立中之島図書館の3階多目的スペースでの講座なので、アルコールは御法度。なので終了後にお渡しいたします。

ほんまは黒瀬さんが講義している最中に香りだけでも嗅いでほしいところですが、「匂いだけ」で我慢できないのが普通の人間なので、講座の閉会までお待ちくださいませ。

お渡しするのはミニボトルなので、賢明なナカノシマ大学受講者のみなさんは、「こんな大きい瓶をいただけるんですか⁉︎」とはゆめゆめ誤解されませぬように(笑)
ナカノシマ大学の受講申し込みはこちらから

小正醸造の大阪支店長、上機嫌でナイスガイの上妻(こうづま)元樹さん

書店イベント参加のお知らせ

2025年1月7日 火曜日

迎春、本年もよろしくお願いいたします

さて、新年早々に開催される尼崎市のTSUTAYA尼崎つかしん店さんでの「独特で面白い出版社フェス」に140Bも参加します。

1/17(金)~3/23(日)の間、約20社の出版社の商品がお店の特設棚で展開、毎月二日間、出版社の担当が直接販売(参加出版社は変わります)に伺います。

3か月連続の店頭イベントは新しい試みで出版社としても、新しい読者さんとの出会いの場として楽しみにしています。
1月は25日(土)と26日(日)に店頭におります。

今年40周年を迎える「つかしん」でお待ちしております(青木)

 

上機嫌で、半端ないフットワークの焼酎伝道者・黒瀬暢子さん

2024年12月30日 月曜日

担当/中島 淳

1月16日(木)、「焼酎と大阪の 深くて意外な歴史」でナカノシマ大学に登壇する黒瀬暢子さんは、このために福岡からわざわざ来阪してくれる。

ナカノシマ大学はお江戸からの登壇も頻繁で、2024年も4回(4月譽田亜紀子さん、9月矢代新一郎さん、10月コジマユイさん、12月岩野裕一さん)を数えたが、九州からはナカノシマ大学15年の歴史の中で初めてである。

テーマが「焼酎」ならやっぱり本場からお呼びせなアカンと思ったので、ご足労いただくことになった。

今回は、薩摩生まれの芋焼酎と黒糖焼酎の誕生と普及に「大阪」が大きく関わっていることを、薩摩藩主である島津家の祖・島津忠久(生年不詳〜1227)が大阪の住吉大社で生まれたという平安時代末期に遡ってひもといていく。

住吉大社の境内。源頼朝の寵愛を受けた丹後局が出産した場所がこの「誕生石」と伝えられ、ここで生まれた子が薩摩藩「島津氏」の始祖・島津忠久公だとされている(黒瀬さん提供)

今日だれもが気軽に焼酎を買ったり、お店で楽しんだりすることができるのは、実は大阪と島津家(薩摩藩)との交流・交易の歴史がベースにある。

さらに明治後期に「黒瀬杜氏」の力によって薩摩で焼酎量産化が成功し、そして「近代焼酎の父」と呼ばれている河内源一郎(1883〜1943)や第一次焼酎ブームを作った薩摩酒造の本坊蔵吉(1909〜2003)ら大阪工業高等学校=大阪帝国大学醸造学科(竹鶴政孝もOB)卒業生たちの活躍で新しい酵母が発見され、新商品が生まれ……そして九州の焼酎がポピュラーな日本の酒となって今に至っている。

そんな大きな歴史の流れを、黒瀬杜氏の子孫である黒瀬暢子さんが大阪で講義してくれる。

黒瀬暢子さんは「焼酎プロデューサー」という名前で活動しているが、これは「焼酎の新商品を企画・開発する」というより、「焼酎のファンを増やす」ことを大きな目標に、日々SNSで蔵元探訪記や焼酎イベントのレポート、新商品紹介、そして新しい飲み方提案などの発信をしている。また、黒瀬さん自身が主宰する、焼酎に親しんでもらうための女性向けの会(焼酎女子会enjoy!)は、なんとこの5~6年の間に130回以上も開催している。

小倉のホテルで開催された「焼酎女子会enjoy!」で挨拶する黒瀬さん。日本経済新聞「本格焼酎・泡盛の日」特集で取材した(2023年8月26日・筆者撮影)

ナカノシマ大学は15年続けているが、やっと200回を過ぎたことを考えると、ひと月に2回(会場のレストランを押さえ、蔵元や行政などにも協力をお願いして参加者を募って……)というのは半端ないエネルギーであろう。

そのようなスゴ腕の伝道師であるが、なんと2018年までは焼酎を一滴も飲んだことがなかったという。

黒瀬さんは早稲田大学を卒業してサンリオに入社、その後は児童向けの大型遊具企画制作会社に勤務して、東南アジアに何度も出張しては、現地のショッピングセンターのスタッフに「遊具の組み立てと設置の仕方」を指導していたらしい。

2018年というのはその会社(東京)にいた頃のこと。以下、黒瀬さんの手記から(福岡県立東筑高校同窓会『東筑會報』2022年10月1日発行号)引用する。

自分の名字と同じ「黒瀬」という名前の飲食店をネットで見つけたわたしは、東京・渋谷の「焼酎バー黒瀬」を訪れました。Facebookに投稿したところ、大学の後輩からメッセージが入ります。

 

後輩のメッセージというのは「先輩って名門の出ですね!?  黒瀬杜氏の末裔でしょう?」というもの。「クロセトウジ」という言葉に黒瀬さんの頭の中は「?」が3つほど付いたらしい。その店でもビールを飲んでいたほどで(何しに焼酎バー行ってんねんと突っ込みが入りまくったであろうが)、ほんまに焼酎には無縁の人だった。

杜氏と言えば、まさにお酒作りのプロフェッショナルです。お酒の話題を母の耳に入れてはいけないと(彼女のお母さんはお酒が大嫌いだったそう)、そーっと父に確認すると、どうも、私は焼酎の歴史を造ってきた「黒瀬杜氏」の血を引いているらしいのです。

 

そこからの行動は早かった。

信じられないわたしは、叔父が持っていた江戸時代から大正時代までの戸籍謄本を借り、家系図を作り始めました。家系図に名前がある方に会いに行っては、家系図を書き足し、書き足し。しかもアポなしで!

今は現役を引退している黒瀬杜氏の人。たぶんこの方も、福岡から訪ねてきた黒瀬さんから家系図を見せられた一人なのではなかろうか(黒瀬さん提供)

相手方にしてみたら、会ったこともない親戚から電話で「会ってください」と急に言われてもなぁ……という感じだったのだろう。

黒瀬さんの実家は北九州市の隣、福岡県遠賀郡だが、そこから「黒瀬杜氏」の里、鹿児島県南さつま市まで家系図を持ってアポなしで行くのである(一日仕事ではぜったいに済まない)。そうこうしているうちに祖母の家系のほうも杜氏がいることが分かり、双方の家系図を作ったらそれぞれ100人ぐらいになったそうだ。

江戸時代から明治、大正、昭和、平成、令和へと一族が順ぐりに託してきた「焼酎造り」のバトンパスを家系図に記した黒瀬さんは、「この焼酎文化を守ることが自分のライフワークになるのではないか」と一念発起するに至る。

東京でのビジネスマンのキャリアを終わらせて福岡に帰り、「焼酎プロデューサー」として活動を始めたのが2019年だった。

最近、「事業承継」という言葉があちこちで聞かれる。

「後を継いでくれる人がいない。どうしよう」という問題解決のためにそれを継続させるために事業を立ち上げた人の話も聞くが、廃業する実例もよく聞く。黒瀬さんの場合は「杜氏」になった訳ではないが、ちょっと形を変えた「伝統的ファミリービジネスの継承」がなされる例はとてもおもしろい。

何よりも、黒瀬杜氏が守ってきた焼酎造りのバトンリレーに「大阪」が大きく関わっていたという話は本当に楽しみである。

家系図を作るために南さつま市まで何度も出向いただけでなく、焼酎の酒蔵にも頻繁に顔を出し、東京や大阪へも取材やイベントのために訪れる。この人の運動量は半端ない。

焼酎の都・福岡で超個性的な焼酎好きを集めて開催された日本経済新聞「本格焼酎・泡盛の日」の座談会で黒瀬さん(イラスト右下)は司会を務めた(2024年11月1日掲載/イラスト&デザイン・神谷利男)

彼女の出身校・早稲田大学では2024年4月から「ラグビー蹴球部 女子部」が正式に発足したが、黒瀬さんはそれに先立つことウン十年前に同好会でラグビーをやっていた。ポジションは右のフランカー(FL7)。

スクラム、ラインアウト、モール、ラックなどのボール争奪戦には必ず顔を出し、相手の強烈な当たりも「上等じゃい」と受けて、バックスにいいボールを供給すれば必ずチャンスが訪れるという「運動量半端ないし汚れ役も多いけどきっと報われる」ポジション。

その話を振ったら黒瀬さんはにっこり笑って「そうですかね」と言った。

機嫌のいい人である。なので、この人の周りにも機嫌のええ人が集まる。焼酎業界はこの人の「上機嫌」のおかげで、かなり得をしているのではなかろうか。

ナカノシマ大学の申し込みはこちらへ→ https://nakanoshima-daigaku.net/seminar/article/p20250116

 

 

 

 

 

 

 

朝比奈隆を追いかけて大阪に通った岩野裕一さん

2024年12月16日 月曜日

担当/中島 淳

12月19日(木)のナカノシマ大学に登壇する岩野裕一さんは、明治30年(1897)創業の出版社「実業之日本社」の社長であるが、それ以上に(というと会社には失礼だが)、朝比奈隆の晩年に寄り添い、大阪に足繁く通ったのみならず満州、シカゴなどへの演奏旅行にも同行し、『王道楽土の交響楽−−−−満州 知られざる音楽史』(音楽之友社/第10回出光音楽賞受賞)、『朝比奈隆 すべては「交響楽」のために』(春秋社)を上梓した音楽ジャーナリストとして知られている。

DVDには『のだめカンタービレ』のベートーベン「7番」第4楽章ほか、ブルックナー、ブラームス、チャイコフスキーなどの名演奏7本を収録

「偉大なる指揮者に貼り付いて取材した音楽ジャーナリスト」というとすごくお堅い感じがするが、実に愛嬌があって茶目っ気に溢れるナイスガイの「鉄ちゃん」である。この人が日本のクラシック音楽に対してもっともっと発言してくれたら、敷居がどんどん低くなっていいのになと思っている。

だから、仮にあなたが少しばかりクラシック音楽に興味があって、「朝比奈隆さんの指揮を聴いたことはないけど、ちょっと気になる」ということであれば、岩野さんはきっと期待に応えることを話してくれるから、ぜひお越しください、と強く言います。

当日、会場で販売するのは写真の本であるが、DVD付きで値段もそれなりにするだけあって、「読みごたえ」も「観ごたえ」も両方ともある。1冊読めば、20世紀の日本史や世界史とリンクして「朝比奈隆はどんな指揮者でありどんな人間であったか」ということを知ることができるし、そんな「20世紀音楽史の生き証人」みたいな人が大阪を舞台に「オーケストラの創業者・経営者・音楽監督・常任指揮者」という激務をこなしながら1ステージ1ステージを燃焼させながら93歳まで生きた、ということを驚かずにはいられない。

同時に、この本を出版社の激務の合間に書き上げたという岩野氏の努力にも頭が下がる。特に最終章の「林元植(イム・ウォンシク) 朝比奈隆 唯一の弟子」が素晴らしい。16ページのブロックなのに、この一項だけで映画が一本出来そうな壮大な人間ドラマを読ませてくれる。著名な日本の歌手や韓国代表のサッカー選手などが次々と登場していて、朝比奈隆という人が日韓の文化交流にも多大な貢献をした人だった知るに至る。

あとは、19日(木)の岩野さんの演奏ならぬ講義を「生で」お聴きください。

かつて朝比奈隆の大阪フィルを聴こうと、慌てて東京駅から新幹線に飛び乗っていた岩野さんが、今度は、朝比奈隆と大阪フィルの話をするために新幹線で来阪する。

朝比奈先生もきっと喜んでおられると思う。

 

最後に、かつて雑誌の『大阪人』に書かれたこちらの一文を。

フェスティバルホールへの旅  岩野裕一

私のオフィスから東京駅までは、ダッシュすればわずか五分。午後三時過ぎからずっと落ち着かない時間を過ごしてきたが、決断するならいましかない。よし、やっぱり行こう。

怪訝そうな同僚の目を振り切って会社を飛び出し、カバンを抱えて一目散に東京駅へ。改札口を抜けてホームに駆け上がると、新大阪行きの新幹線になんとか間に合った。空席を捜し、乱れた呼吸を整えると、ようやく気持ちにゆとりが出てきた。さて、今夜はどんな演奏を聴くことができるのだろうか……。

朝比奈先生が指揮する大阪でのコンサートに、いったい何度足を運んだことだろう。東京で暮らす私にとって、「大阪へ行く」というのは、すなわち「朝比奈先生を聴く」ことだった。とりわけ、中之島のフェスティバルホールで開かれる大阪フィルの定期演奏会は、たいがいが平日の夜七時開演で、会社を抜け出すのに苦労しただけに、ことさら印象深い。

新大阪で御堂筋線の地下鉄に乗り換え、淀屋橋で地上に出ると、目の前に水辺のある風景が広がる。ああ、また大阪に来たな、と実感する瞬間だ。

淀屋橋からホールまで、新旧のオフィスビルを眺めつつ、都心の川べりをのびやかな気持ちでホールに向かうときの気分は、東京のコンサートホールでは味わえない、ちょっとした心のぜいたく。そう、ロンドンのテムズ川沿いにあるロイヤル・フェスティバルホールに向かうときの雰囲気に、どこか似ている。十分ほどの散策を楽しみ、なんとか開演時間に間に合った。

ロビーに飾られた、かつてこのステージで音楽を奏でた巨匠たちの写真が、ホールの永い歴史を無言のうちに物語っている。その主(ぬし)ともいうべき朝比奈先生は、一九五八年の開館以来、実に四十三年間にわたって、大阪フィルと共にこのホールへ音楽を染み込ませてきた。いまでは古色蒼然としたフェスティバルホールだが、その威厳は先生にこそふさわしい。

開幕のベルが鳴り、舞台の上ではチューニングを終えた大阪フィルのメンバーが、指揮者の登場を待っている。一瞬の沈黙ののち、下手のカーテンをひるがえして、背筋をまっすぐに伸ばした朝比奈先生がさっそうと舞台に歩み出る。堂々とした足取りで指揮台に向かいながら、先生は聴衆からの拍手を全身で受け止め、ホールの空気を暖かくも張りつめたものに変えていく。さあ、今夜も音楽会の始まりだ−−−−。

この身の引き締まるような瞬間を、私たちはもはや共有することができないと思うと、たまらなく寂しい。だが、忘れてはならないのは、朝比奈先生が半世紀以上にもわたって育て上げ、大阪の誇りとなった大阪フィルが、いまも私たちと共にある、ということだ。

大阪フィルは、これからもずっと、フェスティバルホールのあの大きな空間を、オーケストラの響きで満たしてくれるに違いない。

先生がこの世にいないのは悲しいけれど、それでも私はまた東京の会社をそっと抜け出し、川沿いの道を急ぎ足で歩いて、大阪フィルの演奏会に向かうことにしよう。

(岩野裕一『すべては「交響楽」のために』から 初出〜雑誌『大阪人』2002年4月号)

朝比奈先生の墓前に、19日(木)に岩野さんが登壇することを報告してきました(神戸市灘区の長峰霊園にて)

岩野さん、死ぬほど忙しい人だから、新大阪で地下鉄に乗っても淀屋橋を乗り過ごさないだろうか(笑)。いや、それ以上に淀屋橋から永年の習性で西側のフェスティバルホールに行ってしまわないか心配だが……。

この日は橋の東側、大阪府立中之島図書館に向かってください。みなさんお待ちかねです。

ナカノシマ大学は12月19日(木)18時からです。申し込みはこちらへ→ https://nakanoshima-daigaku.net/seminar/article/p20241219

 

 

 

阪急電車を運転し、百貨店の売り場にも立っていた指揮者・朝比奈隆のこと

2024年12月11日 水曜日

担当/中島 淳

12月19日(木)のナカノシマ大学で岩野裕一さんにお話しいただくのは、たぶん30代以上の方なら指揮台に立っている姿をリアルタイムでご覧になったであろう、大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督で常任指揮者だった朝比奈隆(1908〜2001)のこと。

©️大阪フィルハーモニー交響楽団・飯島隆

「日本のオーケストラ史」のど真ん中を体現してきたこの指揮者は、戦後の大阪で今日も続いている交響楽団を立ち上げ、作曲家の真髄に迫る音を追求するためにひたすら演奏のクォリティを向上させていっただけでなく、楽団員が「オーケストラの一員として生活ができるように」マネジメントし、楽団に対する社会的支援を求めて駆けずり回った人でもある。

そういう意味で、音楽家としての偉大な業績はもちろんだが、カラヤンやバーンスタインなどの「世界的指揮者」とは違う次元でも、もっと評価されてよいと思う。

朝比奈隆は、工学博士で北越鉄道取締役会長だった渡邊嘉一と内妻の小島さととの間に東京の牛込(現・新宿区市谷砂土原町)で生まれ、ほどなく朝比奈林之助の養子となった。

幼い頃は小児喘息や栄養失調で苦しみ、療養の傍ら学業を続ける日々だったが、7年制の東京高等学校(旧制)に入学した頃から音楽に目覚めてバイオリンを習いはじめ、部活ではサッカーに熱中して(右のサイドバックだったらしい)当時全日本の覇者だった東大を破って話題になる。勉強にも身が入り成績も上がり、昭和3年(1928)春に京都帝国大学法学部への入学を果たす。

京大を選んだのは「東京を離れたい」ということもあったが、当時、音楽部を指導していたエマヌエル・メッテル(1878〜1941)が指揮するオーケストラの演奏に強烈な印象を受けて、「この人に習いたい」と思ったことが第一の理由だった。

「メッテル先生」は、日本のポピュラー音楽史に欠かせぬ作曲家・服部良一(1907〜93)も師事した人で、朝比奈隆はこの厳しい師匠から一つ年上の弟子(服部)を引き合いに出しては「服部君はよくやるのにお前は少しも勉強せん」とさんざん小言を言われたらしい。

朝比奈隆は京大で交響楽団に入って音楽漬けの学生生活を過ごし、そのおかげで高等文官試験(高級官僚の採用試験)に通らず、卒業後は阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)に入社した。実の父や養父、兄たちが鉄道を仕事にしていたことも関係していた。

阪急入社は昭和6年(1931)。大阪の人口が急激に増加し、東京を抜いて世界第6位の都市になった「大大阪」時代の真っただ中で、大阪のシンボル大阪城天守閣が市民の寄付によって再建された年でもあった。

旧い街を縫うようにして路線を敷いた阪神とは違って、人がまだ住んでいない場所に鉄道を通し、その沿線に住宅や行楽施設を開発する阪急の業績はこの時期右肩上がりで、「通勤・通学は電車で、行楽も電車で」というサラリーマンや学生が大量に生まれた時代でもあった。朝比奈隆は電車の運転にも携わる。

昭和4年(1929)開業の世界初のターミナルデパート阪急百貨店(阪急電鉄HPより)

「電車の構造からちょっとした電気知識、運転技術、さらには沿線案内と切符の説明、駅の呼び方に至るまで、教えられた。教習期間がすむと指導員がついて二、三カ月、実際に電車に乗る。ちょうど夏ごろから一人前というわけで、私も相沢(巌夫=陸上選手。当時の男子100m日本記録保持者)君も宝塚線に回された」(朝比奈隆「私の履歴書」より〜『楽は堂に満ちて』所収)

 

ストップウォッチを持っている相沢君と二人で、「梅田から宝塚までの駅名を何秒でいえるか」や、実際に終電に乗務して、「宝塚から池田まで何分何秒でいけるか」などの勝負に明け暮れていたらしい。上司からは大目玉を食ったそうだが、たわいもなく楽しそうである。

入社1年後にはまだオープンして間もなかった梅田の阪急百貨店でも働いた。

「私たちがいるころ、百貨店東側の部分が増築されたが、まだまだ小さい店だったので、店員の名前も顔もすぐ覚えられた。百貨店への異動も相沢君と一緒で、彼は五階、私は六階の家具、陶器、タンスなどの売り場だった。そのころは蓄音機、レコード、ラジオなどの音響部門もあることはあったが、これも六階で扱った。私の売り場は午前中はほとんどお客さんがなく閑散だったので、よく大きな音量でレコードをかけて楽しんだものである」(同)

まさに朝比奈隆が売り場にいた、昭和7年(1932)頃の阪急百貨店(同)

ずいぶんとお気楽な百貨店員だが、それだけでは済まなかったようだ。

京大時代の先輩でチェロ奏者の伊達三郎(1897〜1970)が、バイオリンが弾ける朝比奈隆に「弦楽四重奏をやろう」とやって来た。その誘いにホイホイと乗って、職場を抜け出して大阪中央放送局(JOBK)に駆け込んで、生演奏までしていたらしい。

「当時の放送は NHKだけ。しかもナマ放送なので六階の売り場のラジオが『ただいまから“お昼の音楽”をお送りします。出演は大阪弦楽四重奏団、メンバーはバイオリン朝比奈隆……』とアナウンスしているのだから、どうにも隠しようがなかった。『あいつ、また行っとるで』とすぐわかった。引き立ててもらった伊達さんのせいにしてごまかしていたが、それでも上司からしかられたことはなかった」(同)

世界のクラシック音楽の歴史の中で、都市を代表する交響楽団の音楽総監督としてオーケストラを永く指揮してきた人間が、過去に日々電車を運転し、百貨店の売り場で品物を販売していた、という例は、唯一とは言えないまでも、とてつもなくレアなことではないかと思う。

朝比奈隆という指揮者には、筆者は客席からお目にかかった程度にしか存じ上げないが、威厳に満ちた人だという印象と同時に、「華やかさ」や「大衆性」を感じた。とくに演奏が終わってからの客席に対する挨拶の時に多くの人がステージに近づいては拍手を送る姿を見て、「ほんまにいろんな世代の人から愛されているなこの人は」と感じた。

その明るいキャラクターは阪急時代(2年ちょっとの間ではあったが)にいっそう培われたものと言っても過言ではないと思う。

「運転席の窓越しに見たあの乗客」「売り場にいたあのお客さん」の記憶は、彼の中でそのまま「オーケストラを聴きに来てくれる人たち」につながっていったのだと思う。

朝比奈隆が阪急を辞めたのは昭和8年(1933)。京大へ復学して文学部哲学科に入り、よりいっそう音楽漬けの日々を送って大阪音楽学校(現・大阪音楽大学)に勤務する傍ら、指揮者への階段を一歩一歩登っていった。

昭和16年(1941)に結婚して神戸市灘区に居を構えてからは、戦時中の上海、満州での生活を除けば、死去するまでの60年間、ずっと阪急沿線の神戸市灘区に住み続けた。江戸っ子の彼にとって、阪急の2年間は楽しい思い出ばかりだったようだ。

「やめるときも理由をつけるのに困ったが、やめろともいわれず、意味なくやめ、いまだに阪急から離れられず、その周辺をうろうろしている。私みたいな妙な元“阪急マン”はおそらくいないだろう」(同)

表紙は、舞台を出る巨匠に喝采を贈る観客を捉えている。岩野さんはこの本の解説も執筆

音楽ジャーナリストの岩野さんが12月19日(木)のナカノシマ大学の講義で、阪急時代の話をどの程度されるかは分からないが(欧州にも米国にも満州にも大阪にも朝比奈隆を追いかけて取材した人なので)、きっと言わずにはいられないと思う。

というのも、岩野さんも朝比奈隆と同様に「鉄ちゃん」だからである。

ナカノシマ大学の申し込みはこちらから→ https://nakanoshima-daigaku.net/seminar/article/p20241219