昨日始まった新連載「みちのくフード記」、早くも2回目更新です。
文末に「※関西で開催予定の東北関連物産展」つきです。
「みちのくフード記」http://t.co/dUSWu97upM 本日はプロローグ後編。25年近く経て浮かび上がってきた東北との縁について。相変わらず「おっさんの自分語り注意!」ですが、3・11を挟んで京阪神各地で開かれる東北関連の物産展情報も載せてるので、そちらはぜひどうぞ。
— 松本創 (@MatsumotohaJimu) March 3, 2015
昨日始まった新連載「みちのくフード記」、早くも2回目更新です。
文末に「※関西で開催予定の東北関連物産展」つきです。
「みちのくフード記」http://t.co/dUSWu97upM 本日はプロローグ後編。25年近く経て浮かび上がってきた東北との縁について。相変わらず「おっさんの自分語り注意!」ですが、3・11を挟んで京阪神各地で開かれる東北関連の物産展情報も載せてるので、そちらはぜひどうぞ。
— 松本創 (@MatsumotohaJimu) March 3, 2015
【新連載】140Bのスタッフでもある松本創 氏のweb連載「みちのくフード」が本日より始まりました。
311を起点に過去未来の双方向につながり出した松本と東北との関わり合いを「食」を中心に語っていきます。
「みちのくフード記」という連載始めました→http://t.co/dUSWu97upM 東北通いで出会った食べ物の話を1、2週間ごとに書いていきます。本日1回目とあす更新の2回目は連載のプロローグ。桃の節句にぶつけて、おっさんが思いっきり自分語りをしてますので、臭気にご注意を!
— 松本創 (@MatsumotohaJimu) March 3, 2015
前回、[バー・ウイスキー]のときに、「酒場ライター」バッキー井上のことを書いて、
「酒場ライター」があるとしたら「酒場フォトグラファー」というのもアリちゃうか、などと考えてしまったのである。
しかし、この日この夜でやめた。
理由はまた次の機会にでも。
と書いたら、多くの人から「ナンで、酒場フォトグラファーはやらないんですか」という声が届いた。
「早く書きなさい」ということである。
とくに新連載が始まって、昨日2回目の原稿を入れたばかりの『あまから手帖』の安藤副編集長などは、ほんま急かす急かす。
それについて書く。
その前にまず、酒場ライターについて違う話をば。
酒場の記事の難しくもおもろいところは、「人間は変容する」というところに軸足を置かないとつまらないからだ。極端に言うと、下戸や素面では書けない、ということになる。
つまり、酒は酔うから酒なのであって、それによって「人間は変容」する。その変容の仕方の記述こそ「書くこと」、今流でいうところのコンテンツなのだろう。
たとえば[堂島サンボア]のビールはとてもうまい。書けば、キリンのラガー小瓶で600円、鍵澤秀都さんが栓を抜いてグラスに注いで客に出す。
その同じラガーがどうしてコンビニの205円(税別)の缶と違うのか。それに加えて大瓶で600円の行きつけのお好み焼き屋のそれと、足の綺麗な別嬪がいる北新地のラウンジの2000円の小瓶と、中身が同じラガーなのに値段がこうも違うのはなぜか。
そんなことを言い出すと、それは「付加価値なんです」などといったしょぼくて眠たい答えが返ってきたり、「そんなのは個人の価値観だから、どうでもいいんじゃないの(アホかおまえは)」といったクールな返答がされたりするが、そういう発想こそが鈍臭いのである。
人間は変容する。味覚も当然変容するのだ。
堂島のサンボアのビールは、同じ中身でも家で飲むビールよりもうまいのだ。同様に北新地のラウンジ云々のビールも、また違った味がする。
こんなのは誰もが知っている。けれどもそういうことを言うのはナシなのである。何でか知らんけど。
養老孟司先生と一度、ご一緒に飲む機会があって、その時教わったのは、「人はいつでも変わる。同じ自分なんていない」ということだ。
わたしは「そらそうやな」などと思ってたが、その後、『読まない力』という新書を読んでいたら、いきなり「まえがき」でそのあたりについて執拗に書かれていた。
読んで一気にわかった。つまりその時、まだまだオレは考えが浅かった。
情報とは「時間が経っても変化しないもの」を指す。そんな定義は学校では教えてくれない。じつは私が勝手に定義した。でもそれで十分だと思っている。写真の自分は、いつまで経っても歳をとらない。情報だからである。学校から成績証明書を取り寄せると、若い頃より知恵がついているはずなのに、いつでも同じ成績が返ってくる。情報だからである。血圧が一四〇などといっているが、測ってみれば、うっかりすると毎回違うとわかるはずである。測ったときの血圧がたまたま一四〇だったのである。
養老先生独壇場の語り口である。
情報化社会というのは「私は私、同じ私」という自我とか自己とかを措定したうえでの「脳化社会」、つまり「意識のみ」を扱う社会のことだ。もちろん人間は意識じゃない。寝ているときなどを考えればわかる。
意識は情報しか扱えない。言葉は情報の元だから、意識は言葉なら扱える。それだけのことである。私はスキーを習っているときに、スキーの本を数冊、読んだ。でもスキーは上手にならなかった。当たり前で、スキーは情報じゃないからである。
さて、酒場ライターとしての井上は、酒場ではいっつも酒を大量に飲む。意識が飛んでしまうことがあるのだ。
著書『たとえあなたが行かなくても店の明かりは灯ってる。』の内田樹せんせの解説(これだけでも買う価値ありの本だ)にある、
バッキーさんの書くものの過半は京都の町のさまざまな店で「気が遠くなるほどおそろしいくらい飲む」話である。
である。しかしババ酔いしてしもて完全に意識がなくなったら、これは書けない。仕事にならんのである。
だからそうならないためのひとつの方法として、コースターの裏にメモをして持って帰るのだ。
井上はそのスレスレ状態のとこ、紙一重をやってるから「日本初の酒場ライター」なんである。
その井上によって書かれたものは情報にほかならないだろうが、飲みまくって酔いまくって、書こうとして言葉がもつれたり、ほとんど言葉を言葉として運用できない、つまり何を書いてるか自分でもわからん(アホ状態に違いない)状態の時は、意識が変容するから情報も変容する。
だからこそ酒場ライターなのだし、そのスタンスからいけば、当然のこととして「取材などしないで書く」ということになる。
しっかし考えてみれば「取材(だけ)では書けない」というのは、これはキッツい背理である。
先の著書『たとえあなたが行かなくとも店の明かりは灯ってる。』の115ページにはこう書いてある。
飲みに行けば失うことばかりだ。お金も時間も愛も失うし頭も体も悪くなる。失言、失態、失禁、失敗だらけだ。けれどもそうすることによって大きなココロのケガから回避しているのかも知れない。
(略)
酒場への道 その5「負けてなあかん」
例えば、金があっても酒場では簡単に勝利投手になれない。街の手練れはお世辞という犠牲バントをしてみたり、急にフリーエージェント宣言を勝手にしてその時だけカネ持ちチームに入ったり、勝つ可能性が低くなっても高くなっても深酒泥酔没収試合という方向に持って行ったり、野球から将棋や野球拳に変わるように試合そのもののルールや形式を突然変えたりするからだ。
なかなかに魅惑的な「変容するスタンス」である。
そして今一度、養老先生にご登場願おう。
人間が「同じ」なわけはない。歳をとり、ついには死ぬ。どこが「同じ私」か。諸行無常と古人がいったとおりなのである。いつまで経っても同じなのは、情報なんですよ。でも人間は情報でない。それを取り違えたから、言葉が重いような、重くないような、変なことになったのである。変わらないのは私、情報は日替わりだ、などと思ってしまう。とんでもない、百年経っても、今日の新聞記事はそのままですよ。
毎日数時間インターネットに頭を突っ込んで、「新しいこと」を知ったと思っている。それはそれでいいけれど、インターネットの中にあるもの、つまり情報とは、つねに過去である。「済んでしまったこと」しか、あそこには入っていない。
情報化された酒はどこでも同じ味の酒である。
それがアイラ島のスコッチだとか、格付け銘醸ワインだとかというのは、何でも情報化して、それを「わたしという客が消費してやろう」という社会で通用するだけだ。
その情報はいったん記号化、データ化されると上書きされない限り変化しない。いつどこにいってもそのまま同じである。だから情報誌の酒やグルメの記事はひとつも面白くないのだ。
「わたしはわたし、同じ自己、同じ自我だ」というのもそれにほかならない。
繰り返すが人間は情報でない。
わたしが言ってるのではなく、養老孟司先生も内田樹せんせも、バッキー井上も言っている。
「頭の人ばかり ダメネ 人間は肉でしょ 気持いっぱいあるでしょ」(『全東洋街道』藤原新也)なのである。
ということで今回は、人さまの引用でほとんど書いてしまった。
もうおわかりだとは思うが、カメラは機械でありスペックだ。
それは変容しないから、そんなもの扱っても、いっこもおもろないから、酒場フォトグラファーを1日でやめてしまったのだ。
わたしとて残念だが、どうかわかってほしい。
昨年発売した『大阪名所図解』では、大阪市中央公会堂や大阪府立中之島図書館といったシンボル的建築をはじめ、橋や駅、長年愛されてきた老舗や喫茶・バーなど、大阪の「名所」を線画によって図解しています。
この本に掲載されている綱本武雄さんが描いた線画の原画展を、スタンダードブックストア@心斎橋にて開催します。原画で見ると、ペンのタッチの隅々までじっくり眺めることができ、線画の持つ細密さと奥行きをいっそう感じられます。
また、展示初日の2015年1月30日(金)には、解説の著者の一人でもある建築家の髙岡伸一さんとのトークショーも開催。建築を設計あるいは研究する立場の髙岡さんと、描く立場の綱本さん、それぞれの視点から大阪の建築の見方・楽しみ方を紹介します。
酒場を情報誌やガイドブックに書くことは難しい。とくに酒だけが店の商品であるバーについては文章技術とかでは書けない。
ある店を雑誌のバー特集に載せるとする。
それはきっといい店だから掲載されていて、その店が「選ばれている」、というのが特集全体のなかでの大きな情報の一つであるが、それ以上は、店に取材に行って何かを聞いてきて書いても一つも面白くない。
たとえバーAではうまいビールはキリンかアサヒかサントリーかサッポロかヱビスビールだし、しびれるマティーニはゴードンかタンカレーかで、ベルモットはノイリーかチンザノといったところで、そのレシピは…、というようなのを書いてもしょうがないのだ。
ラーメンの特集みたいに麺の加水率だとかスープは豚骨50%、鶏ガラ30%、煮干し20%とかのデータではないのだ(これもこれでしょうもないと思うが)。
隣のページに載せるバーBもまったく酒の銘柄とレシピが同じだったりして「これではあかん。誌面になれへん」となる。
その店に飲みに行くと、「この銘柄です」と使った酒はカウンターに置かれるが、そのラベルは初めて行っても誰にも見える。料理屋と違うところはそこのところだ。
店は「行ってないと書けない」。取材だけでは書けないのだ。
つまりその酒場でどう過ごしたのかなど、客(自分)とその店の関係性によってでしか読むに値する文章は書けないからだ。
だからこそ、その酒場に初めて行った書き手は「物語」つくる。これはライターにとって非常にハードな仕事となる。
その店で出すシングルモルトの蒸留所やハイランドやアイラ島の物語(正しくは蘊蓄)を書いたとて、マニアの人には面白いかも知れないが、基本的にその酒場やその店がある街の話ではないから的外れなことになる。
「その店の物語」の場合だと、それがイケてない話になってしまうと、目も当てられない。
そういうことはMeets誌をやり始めた頃から、なんとなくわかっていた節があって、だからか特集タイトルは「酒場実況中継」だった。
わたしがミーツをやっていた頃、この「酒場実況中継」は毎年恒例のように特集していて結構売れた。
街場ではとくに反響が大きかった。
その4分の1ぐらいが、「なんでこの店、出てるんや」と「書いてること違うやん」というブーイングだった。
そんな中でミーツの書き手や編集者たちは手足をばたつかせていた。
そして後に「日本初の酒場ライター」と言われることになるバッキー井上らは、確かにある種のある部位の筋肉が鍛えられるように「書ける」ようになっていく。
独特のその文体やメッセージ的なコンテンツは、それまで類がなかったので、たちまちファンを獲得した。
それを真似る新人ライターも多かったが、まだそこのところの筋肉の使い方を知らないライターの書く酒場の記事は、新聞のコラムを読まされているようで、少々イタかった。
街の雑誌にはその雑誌の手触りや体温や匂いがあるのだ。
バッキー井上が書いた[バー・ウイスキー]。
バーで何かを求めない。ただ喉が鳴る。
バー[バー・ウイスキー](大阪・道頓堀)
ミナミに行く用事があるとそのスケジュールが夕方の5時近くに終わるように必ず段取りする。道頓堀の[バー・ウイスキー]に行きたいからだ。俺はこのバーが好きだ。だからこのバーには男女を問わず大好きな奴としか行ったことがない。だからたくさんの奴と行ったがそのすべての顔をハッキリと覚えている。その時にどんなことを話して何を飲んだかもほぼ覚えている。
バーで何かは生まれない。生まれると思うのは錯覚に過ぎない。バーは何かを失いにいくところだ。知ってか知らずかそれを潜在的にわかっている奴と飲む酒はうまい。それが[バー・ウイスキー]であれば至福である。マスターの小野寺さんもそれを知っているからだ。だからマスター小野寺さんのシャツのカフスが長い。ピールを宙でふる。バーは空気だと言いたげだ。
大人という単語をむやみに使っている雑誌は気色悪いのは、物欲しげだからだ。いいバーに行きたい相手は「もういらん」と言いたげな奴だ。雨が降っているからバーに行こう。寒いからバーに行こう。気分がいいからバーに行こう。したいことなどないからバーに行こう。マスター、今宵また我々をよろしくおねがいします。我々は何も言いません。
とても「行儀が良い」文章だ。視点からして、そう思う。
そして井上は単行本化するにあたってこう書き足した。
[バー・ウイスキー]
ずいぶん昔にこの店に取材に行ったことがある。その時こんなやり取りがあった。
「創業は何年ぐらい前ですか」
「昔のことは振り返りませんけどな」
「失礼しました。お酒を注文させてもらっていいですか」
「いけるくちですな」
などのやり取りから始まって俺はこの手練れマスターからの貴重な言葉をたくさん引き出しコースターにメモしていた。曰く、
「同じオーダーでもお客さんのアレで微妙にバランスを変えますわな」
「お客さんもノドを鳴らすわけですわな」
「酒飲みの気持ちとかにならんと全然ダメですわな、こういう仕事は」
「バーなんていうのは商売やないからね。ひとりの生き方やからね」
「そら自分が酒飲みやないと意味がないですわな」
こんなことを俺はメモしていた。俺はこの店の、コースターが世界一好きだ。そして今まで何枚持ち帰ったかわからない。小野寺さんすみません。
ウォッカマティーニは体の中を流れていくのが感じられる頃に飲むと格別。無理して飲んじゃいけないと小林幸子の歌だったが。俺はマスター小野寺の信者である。俺もマスターになりたい。大阪市中央区道頓堀2-4-1 シモウラビル地下1階
電話:06-6211-9625
営業時間:5・00PM〜0・00AM
定休日:日曜休
『京都店特撰 たとえあなたが行かなくても店の明かりは灯ってる。』著/バッキー井上
この文章を読んで、いてもたまらなくなったわたしは、カメラを持って[バー・ウイスキー]へ行った。
というのは嘘で、実は自分がたまたま撮った写真を見て、「酒場ライター」があるとしたら「酒場フォトグラファー」というのもアリちゃうか、などと考えてしまったのである。
しかし、この日この夜でやめた。
理由はまた次の機会にでも。
西成・釜ヶ崎の三角公園のそばの[なべや]。よその街に類を見ない「一人鍋」の店であり、大阪至高の居酒屋であることは間違いない。
わたしはこの店について、17年間かかわった『ミーツ』でも取材したり記事を掲載したことがない。
ここ数年『料理通信』に「安くて旨くて、何が悪い!」という連載していて、それに関してこの店の右に出る店はないが、ここでも未紹介である。
理由は釜ヶ崎という場所についてであり、「なんでガイド本で知らん読者を仕向けて、牡蠣やとか肉やとかごっつぉを食べさせに、わざわざこんなとこまで来させなあかんのや」ということだ。
インターネットの時代になって、この店のことが「食べログ」や「ぐるなび」でもばんばん紹介されるようになった。クールに安くてうまいメニューのことを紹介したグルメ・レビュー、はたまた西成という土地柄をからめて書かれていたりでさまざまだ。
冬になるとすぐとなりの三角公園で、メシにありつけない人たちが炊き出しで、全然違う鍋を食べている、みたいなことを書いている人もいる。
Googleマップのストリートビューで見ると、この店がある街がどういう街なのかがよく分かる(昼の風景だが)。
今回はこのブログの1回目 https://140b.jp/blog3/2014/10/p1328/ にてちらっと触れた奈路画伯がまた予約を入れてくれていて、西桐玉樹さん、河田潤一さんをあわせて「街的画家」3人衆と行く。
河田さんは地下鉄の運転手をしながら絵を描いている変わり種だ。
釜ヶ崎にある[なべや]には現地集合だ。
何に乗ってどこで下車して、どう歩くのかをあらかじめ考えてしまう。
もう10年以上前だったが、平日の昼間に西成署に行く用事があって、地下鉄動物園前から歩いて行ったことがある。
このあたりには何回も来てわかっていることだが、堺筋を南へ向かい西成署側の1〜2本の筋を入ると、簡易宿泊施設(ドヤ)街の様相が強くなってくる。その日仕事にありついてない人(してへん人も)や、すでに仕事なんか出来ない状態になっている人がたくさん外に出ていて、ワイルドなストリートライフを送っている。
わたしはそのとき履いていたイタリア製のビットモカシンを見つめながら、これはあかんやろ、場違いだなと思った。逃げるようにして鉄扉に囲まれた西成署に入った。
あるいはある夜、ツレとこの店に行くために高野線の駅しかない萩ノ茶屋で下りて、いきなりガード下で段ボールと化繊綿のコタツ布団みたいなのにくるまって横向きに寝ころんでる年寄りたちを見て、大変申し訳ないような気持ちになった。
女性も一人いた。
「電車賃だけ残してカネ渡して、帰ってお前とこで飲もか」などとツレと話しながら、そんなことしても何の解決にならへんやんけ、と思った。
が結局は、いやもちろん[なべや]に行って、鮪のすき身とクジラベーコン、そして牡蠣の味噌鍋と鉄鍋のすき焼き、鶏の水炊きをビールや酒でたらふく食べた。飲んで食うて二人で5千円、「ほな2千5百円な。安っすう〜」と言って、ゴキゲン状態で堺筋を動物園前まで歩いて帰った。
正確には途中で「ミナミで飲もや」ということで、タクシーに乗って道頓堀まで向かったということである。
全然「正義」とほど遠いわたしは、そういうことを思い出しながら、ちょっとサンデル教授(ちょっと古いか)の授業を聴講しているような気分になりながら、今回は地下鉄花園町から堺筋がドン突きになる天下茶屋ロータリー跡の方角へと向かい、数年ぶりに[なべや]に行った。
このコースで行くと、キッツい光景がだいぶ緩和されるのだ。不幸な人のさまを見て、もし立場が入れ替わって自分がそういう境遇に置かれることを想像するのはツラい。
釜ヶ崎や新世界に来ると、「西成のアンコ(日雇い労務者)」や「あいりん地区路上生活者」がまる出しでバーンと露出していて、それにリンクした「ソース2度づけお断り」とか「かすうどん」とかの大阪の食がポピュラーに流通している。
集合時間は午後7時である。
一番先に着いて店に入ると、背中にケース付きのリュックサックを背負ったテニス帰りの6人中年客グループ、東京弁のスーツ姿4人客やOL混じりのグループもいる。
他所からの人にも入りやすくなったのは、ネットのおかげだと思う。
おきまりの瓶ビールとまずは鮪すき身と鯨ベーコン、山芋短冊を注文する。
鯨ベーコンは、辛子か生姜かと訊かれる。辛子とウスターで行こかと一瞬思ったが、何かイヤらしく粋がってるような気がして、生姜をたのむ。
それにしても鮪が50代のわれわれ4人分なら十分な、この量で280円。一人70円かぁ。
一人鍋が看板の店なので、テーブルにはあらかじめ人数分のタコ(むき出しのガスコンロ)が用意されていて、迫力満点であるが、先輩の西桐画伯が「牡蠣の味噌と鶏の水炊き、1つずつでええわ。後追加しますわ」と言うたので、4つのうち2つのタコが片づけられる。
店の若い女性が「水炊きのポン酢1つですけどどうします?」と訊いてくる。「頭数、たのむわ」と返答する。
てきぱきとポン酢4つ、そして鍋がセットされる。どちらもすごい量やわ。
牡蠣の味噌鍋は若い女性がうまく味噌を溶かしながら鍋にしてくれる。
てっちりにしろ寄せ鍋にしろ、寄合や祭りの準備で一年中だれかと鍋を食うていることが多いわたしは、即座にかれらが自分よりは鍋体質でないことを見抜いて、火加減や(岸和田人は てっちり・水炊きのたぐいは決してグラグラ状態に沸かさない)、具を良い具合、良い量で鍋に入れたりの世話人になる。
鶏の水炊きがうまい。
ビリッとくる西成仕様の濃いポン酢が丸く切った鶏の切り方とマッチしてたまらん。鍋はその日その時の体調や気分で味が著しく変わるし、メンバーによっても全然変わってくるが、そんなものを超越するてっちりも顔負けのかしわに化けさせるポン酢だ。
麦焼酎の水割り酒のあと冷酒にする。
これはよう飲んでしまうパターンだ。
「センジュとキクマサ、どっちにします」と訊かれて「せんじゅ」と答えた。
あらら「千寿(久保田)」と違って、「貴仙寿」という銘柄が出てくる。そらそやな、と思うがそんなんは全然構わない。
鶏の水炊きをもう1人前注文する。
満腹にて雑炊やうどんは注文しない。
さて帰りはどう帰るかなどと思いながら、勘定を済ます。
4人で8,600円。2,150円通し。十円単位まできっちり割り勘。
街は情け深い。
「お好み焼きとうどんと鮨(たまに洋食も)は近所のがいちばんうまい」などとキーボードを叩いてしまったのは、NHK出版新書の『「うまいもん屋」からの大阪論』のあとがきだった。
[甚六]さんに行くのはもう2年ぶりくらいになる。
大阪のキタやミナミは近所だと思う。実際この店へはオフィスから歩いて2分の北新地駅からひと駅・大阪天満宮駅で降りて、そこから天神橋筋商店街へ入って南へ、天満宮への入口を越え、ちょうどアーケードが終わるところにある。
電車のタイミングが合えば、30分はかからない。

梅田や堂島や中之島ではない、ものすごくキタな街がそこにある。
よそからの人に「お好み焼きを食べたい」と言われて困るのは、難波心斎橋や梅田の店を知らんこともあるのだが、生まれ育った岸和田の地元160世帯の町内にお好み焼き屋が4軒あり、そこのバターとケチャップまみれの焼きそばや、ヒネのかしわとミンチ状の牛脂を具にした「かしみん」で育ち、今は神戸元町山手の家の近所の「すじコン」に親しんだ身体になっているからだ。
それぞれの街のお好み焼きは、そのまちのかけがえのない街の味や匂いや温度そのものである。
そう考えてちょっと縮尺を大きくとって、大阪キタでいちばん大阪らしいお好み焼き屋が[甚六]さんである。
生野の[オモニ]もまことに大阪らしいお好み焼きおよびお好み焼き屋であり、グランフロント大阪にも店を出して、行くと客が並んでいて入れないこともあるほどだが、やはりお好み焼きは「その場所」がいちばんだ。
お好み焼きおよびお好み焼き屋は、移動させることは出来ないのかも知れない。
最もテーマパーク的でない「うまいもん屋」のジャンルだ。
「大阪でお好み焼きを」と言われて、よその街の人などをお連れする場合、[甚六]さんがいちばんだと思う。唯一「予約」ということをするお好み焼き屋さんである。
そういう場合はひと通り食べる。
トップバッターはゲソ焼きである。そしてほうれん草 とかその時の気分やコンディションで行って、絶対ピーマンの肉詰めをたのむ。ここまで進むとすでに酒になっている。ビールはチェイサー代わり。
そしてお好み焼きになるのだが、ここのお好み焼きはベースにダシを使っている。おまけにぶ厚いまぜ焼きだ、だから蓋をかぶせて中まで火を通す。
遠くからのお客だし、せっかくだからと、豪華最高バージョンを「いっとく」場合がある。店名を冠した「甚六焼き」である。
ぶ厚いお好み焼きの生地に表面のみを焼いたホタテの貝柱、皿に海老を重ね、その表面に溶き卵を流し込む。さらにその上に牛肉を広げ、少し厚めの豚バラを覆うようにのせ、最後にまた溶き卵をかける。
蓋をしてじっと辛抱するように中まで火を通し、こんがり焼けた豚肉に辛子を塗り、ケチャップ、ソース、マヨネーズを塗り重ね、バターを置く。
なんぼなんでもトゥーマッチ、やり過ぎとちゃうんかと思うが、驚くほど具材が調和してうまい。
81年開店当初から2,300円。「30年前からしたらえらい高かったと思いますわ」とご主人。元アイスホッケー選手にして指導者という、キタのモダンボーイ。
淀屋橋の南詰めに[かき広]という店がある。
正確には土佐堀川に浮かぶ牡蠣舟の店だ。
『あまから手帖』の10月号の「京阪電車の始点・終点」というエリアコラムでこう書いた。
京阪淀屋橋駅の1番出口、淀屋橋の南詰東側から地上へ上がると「季節料理 かき広」という看板が目に入る。すぐ右側下に土佐堀川の流れが見え、川に張り出した建物の屋根に看板が出ている。「椅子席 鰻まむし 天丼 一品料理」「川魚料理 鮮魚 天ぷら」。かと思えば「出入口につきお立ちにならぬよう」という表記もある。
ある夕刻、東京の物書きの先輩と「淀屋橋駅の1番出口で」と待ち合わせをしたことがあった。彼はわたしより5分ぐらい早く着いて、まわりをきょろきょろしていたが、わたしが到着するや開口一番「これ屋形船の店だよね。大阪ってやっぱりすごいわ」と言う。わたしは淀屋橋駅のこの出入口をそれこそ何百回も使っているが、それまでこの店の様子や看板の文句をしっかり見たことがない。淀屋橋を形成しているいつもの風景のなかの一つだからだ。
大阪は河口に発達した街で、かつては秋から冬になると川筋には牡蠣料理を提供する牡蠣舟が留まる風景がよく見られたらしい。
今では大正9年(1920)創業のこの[かき広]のみになったということを『あまから手帖』が書いている。
牡蠣舟ではないが、震災前まで神戸の元町山手のコープの山側に[かき十]という牡蠣料理専門の店があった。
旅館みたいな2階建て日本建築の店で、いくつも大部屋があって、そこで鍋やらコキールやらかき飯やら、牡蠣づくしの料理を出していた。牡蠣のおからまぶしというのが、へえ面白い食べ方だな、と思っていた。
この店は10月から3月頃までしか営業してなく、シーズンになると必ず2〜3回は行っていた。わたしはこの季節営業の店の近くに住んでいて毎日前を通っていたから、黒光りした木造の立派な建物ははっきり覚えている。
自分が編集担当した古い『ミーツ』誌を引っ張り出してきて[かき十]の記事を見つけた。創刊号(90年1月)の最後の方の「今、食べ頃主義」というレギュラーページだ。
書き出しはこうだ。
明治6年創業当時、かき十の当主は10月になると、広島からかき船に乗ってやって来た。当時の店は兵庫の弁天浜。戦後、店は現在の場所に移ったが、かきづくしの料理は、そのまましっかり受け継がれている。
何の変哲もない店紹介のベタ記事だが、大阪でも神戸でももう見かけない牡蠣のシーズンしかやってない池田の[かき峰]に行って、牡蠣を食いまくっている最中に思い出し、帰ったらミーツ見てみよ、そう思ったのだ。
しかしながら明治6年(1873)はすごい古いな。間違いだということはないと思うが、文明開化の時期、神戸でもまだ電気なんかなかったんちゃうか。
さて。[かき峰]は阪急池田駅からすぐそばにある。

2回行った記憶がある。どちらももう10年以上前のことだが、1回はダイハツ工業の宣伝担当の人に連れられて行った。2回目は取材だったが、いつの号で何を書いたかは忘れてしまった。
「十」と「峰」とどっちがうまいとかまずいとかではない。よく行ってた店のことは、書いたことまで覚えている。
普段行ってない店の取材で聞いて帰って書けることというのはその程度のことだ。
ブロガーが決定的にダメなところはそこのところで、写真に撮るため、評価するために店に行くというのは、倒錯であり変態じみている。
この[かき峰]などは季節営業のユニークな店だけに、食べログの餌食になりやすい。
では順を追って、フルコースの中身を紹介していこう。
●酢がき いわゆる”突き出し”だ。 根本的に酢の物が苦手なので、特段の感想はない。
●かきフライ
かなり大きめのもの。 非常に硬めで、かきのジューシーさはあまり感じられない。
(かずひこにゃん 40代前半・男性・兵庫県)
結果、ちょっと残念な感じで終わってしまいました。
まず、あんまりジューシーな牡蠣じゃなかった。
そして、めちゃ小ぶり。
とはいえ、たくさんの牡蠣を食べれて満足はしました。
(☆AKIKO☆ 大阪府)
昔ながらのという感じの調理が多いように感じるのは事実。逆に言うと、年配の人だと安心感を感じると思うので、年配者への接待には良いと思う。具体的に言うと、酢牡蠣が締められすぎ、カキフライの衣が厚すぎ&冷めてる&火が通りすぎ。
超老舗なので、一回行ってその雰囲気を知っておくのは吉。行かないで文句を言うのはね!
(sakanasakelove 女性)
しっかりとしたワインがあるともっとよいのに… 残念です。
シャブリだけでも 置いてもらえたら 高評価になりますし
(チョコ・バナナ 30代前半・女性・大阪府)
そう書くことの何が目的かは知らないが、こんなことばかり脱糞するように書いてある。
匿名やったらなんでも書けると思てるのがあまりにもアレで気分悪い。店はホンマに気の毒だ。
これ以上読むと、たまたまカキフライとかを食うときに思い出してメシがまずくなるからやめておくし、ツッコミはこれを読んでいただいてる人にお任せする。
というより、食べログの「レビュー」(なあにがレビューじゃ)を「チェック」してから[かき峰]に行かなかったのが何よりも幸運だ。
酢牡蠣から順番に出てくる。
今年は温(ぬく)いから、まだ牡蠣は小ぶりやんなあ。オレはそう思った。
この日は、わがラテンバンド「ワンドロップ」の仲間と行ったのだが、バンマスはライターの堀埜コージくんで、かれによると「ここのは広島のやから、ちっさいし余計な水分抜いてある。そこがうまいんや」とのこと。
鍋に入る。
仲居さんが丁寧に「して」くれる。
おっと、カメラを持っていた。それを出すと、仲居さんは撮りやすいように置いてくれる。コージくんは笑っている。
すき焼きみたいでうまい、そう言うと、コージくんは、「その感じ、その感じ。味噌の具合がええんですわ」。
確か讃岐の白味噌だったと思う。
続いてのカキフライはどかんと3人分一皿で出てくる。
ウスターソースのみで出てくる。余計なことを考えずにがんがん楽しく食えるな。うちのメンバーは趣味の悪いブロガーみたいに「タルタルソースがあれば」なんて誰も言わない。
なるほど小ぶりで味の密度が詰まった感じだ。
コージくんが言うように、1斗缶を横切りしたのに丸い蓋をつけたような緑色の四角い缶に入ってた「広島かき」は、昔からずっとこんなだった。
オレらやコージくんが育った大阪の街場の串カツ屋ではカキを「ひろしま」と言うていた。ちなみに「牛」は「カツ」や。
「カキをジューシーとか言いだしたん、誰や」「ウォーカーとかのライターちゃうか。あいつらマグロの造りでもなんでもジューシーやんけ」
などと二人で言って皆を笑わせる。
牡蠣からいいダシがどっさり出ている。それを食べたれとばかり豆腐を追加注文すると、菊菜がついてきた。やっぱりすき焼きや。
ダシを注いでワサビと食べる牡蠣飯はこの店 独特の料理だといってよい。とくに焦げがうまい。
この店は創業大正13年。ご主人は広島ご出身だったとはるか昔の取材を一気に思い出した。
取材では「広島菜です」は聞けなかったと思う。
そこらへんを分からんとな。
関西で現存する最古の喫茶店、平岡珈琲店は船場のど真ん中にある。瓦町3丁目、御堂筋から一本東に入った角の手前にある。
大阪商人の根拠地といえる船場は、ここ四半世紀のところ景気動向とシンクロするように様相がめまぐるしく変わった。バブル期に次々と新しいビルに建て替わり、近年は高層マンションも増えてきた。
オフィスビルの1階や角地にはドトールコーヒーなどのセルフ系チェーン店やシアトル系カフェが目立つが、そんな動きをどこ吹く風とばかりに、小さいながらしっとりした町家の佇まいを見せながら、まことに船場らしいトラディショナルなコーヒーを出し続けている[平岡珈琲店]。
その歴史話をすこし。
現店主・小川清さんは3代目。祖父にあたる初代が喫茶店を始めたのが大正10年(1921)。その数年前は輸入食料品店だった。扱う商品はビスケットやパン、ワインやウイスキーなど。そのアイテムの中にコヒー豆もある、グロッサリーだったらしい。
一番売りたかったのはコーヒーだが、洋酒などと比較すると売れなかった。販促にと実演販売をしたりしたが、それでも売上は上がらなかったという。
それじゃあ「その場で飲める店を」すなわち喫茶店を始めた。当初はほかの食料品の販売も兼ねていたが、徐々に珈琲店一本にシフトしていった。
コ ーヒーの淹れ方は、自家焙煎した深煎り豆を一度鍋で沸騰させてから天竺木綿で漉す。3代目店主の小川清さんが、繊細な手つきで見せる昔ながらの「ボイリング法」である。「余分な成分を逃がしてほしい成分だけ抽出できる」トルココーヒーや欧州の原始的な抽出法である。
初代から継承する英国製シチュー鍋で炊き出したコーヒーを、濾しながらホーローのクラシックな細長ケトルに移し替え、そして青い染め付けのカップにたっぷりと淹れられたコーヒーは、何だか健康的な感じがする。
執筆や編集の徹夜仕事でがぶがぶ、とは絶対違うし、フレンチやイタリアンをたらふく食べてさらにデザートと一緒にとか、飲んだ酔いさましに1杯とかではない。
だから一人でも数人のときでも、わざわざこの店に出かけて飲みたくなる。
その昔、高度経済成長期を経て円が強くなるまでは、とても贅沢だったコーヒー。それをよりおいしく飲んでもらおうとの考えから、シンプルなドーナツが開店当時からつくられてきた。ただし、当時の大阪の喫茶店ではドーナツはあたり前のように出されていて、珍しいメニューではなかったようだ。
銀座の老舗喫茶店[カフェーパウリスタ](明治43年創業)の支店が大阪にあり、その真似をしたのかも知れないが真偽のほどは分からない。
ドーナツは毎日約100個作る。今なお、一口ガスコンロの火にかけたフライパンで揚げられている。ひとつずつ揚げるから、仕込みは朝早く5時半から始める。
7時半の開店までには、なんとか20個ほどが出来上がる。そこから10時半くらいまで、だいたい午前中いっぱいを使って揚げ続けられるが、テイクアウトも多いのでランチ後には売り切れてしまうこともある。
ドーナツの材料はごくごく基本的なもの。小麦粉、砂糖、卵、メレンゲ、ベーキングパウダーを混ぜ、冷めてもふっくらと美味しく食べられるように仕上げている。油は日清のサラダ油。これが一番軽い仕上がりになるのだという。
特別なものは何も使わず、余計なことはしない。最高のカスタマイズである。
わたしの場合、オフィスから近いので、誰かがドーナツをどっさり買って帰ったりして、「おお平岡珈琲のドーナツか、ええなあ」とお茶の時間にしたりしてそれは当然おいしいが、この店のホットコーヒーと一緒に食べるのが世界一うまい(当然か)。
ホットコーヒーは330円。濃い舌触り、味覚だがすっきり。ブラックを好む客が多い。カフェオレもあって値段は350円。ドーナツは130円。
いっとかなあかん、というのは「その店に行かないといけない」とのことではない。
たとえば鮨屋で「今日のウニは淡路のええのん入ってますよ」などと、抜群の旬の魚介を見せられ薦められた時に「それ、いっときますわ」、行為遂行の即座の選択みたいなものだ。同時にゴクリと唾も飲み込んでしまうわな。
「知ること」と「行い」は分離不可能、という境地。「知行合一」である。知って行わないのは、未だ知らないことと同じである。そういう思いで街に出たいし店にも行きたい。
その「いっとかなあかん店」は「いっとかなあかんとこ」にあればあるほど、リアルな街の楽しみになる。
ただその店に行って飲んだり食べたりそれ単一のことなら、ミシュランなどグルメガイドやタウン情報誌を見て、アクセスすれば良いだけだ。
それは単なる消費行為である。おいしい食べものやいいお酒をただ対価を払って買うことだけにすぎなくなる。
「いっとかなあかん店」は「いっとかなあかん街」を微分したものであって、その複数の店が同じ通りに並んでいたり、さらにその通りがタテヨコにクロスするなら一つの街になる。
複数のいっとかなあかん店が、ダマでかたまってある街こそが、ほんまにいっとかなあかん街である。
新梅田食道街は、阪急梅田駅の3階改札口への大エスカレーターのすぐ手前、JR大阪駅東側のガード下にある。たこ焼き、うどん、串カツから寿司、洋食、中華料理、バーや居酒屋まで約100店舗が縦横斜めの細い路地状の通路に並び、「最も大阪らしい飲食街」といわれている。
77年に阪神間の大学へ通うようになって、地下鉄梅田駅から阪急神戸線に乗り換える際、よく「おおさかぐりる」で洋食のセットを食べた。
岸和田から南海本線で難波、そこから地下鉄御堂筋線を乗り継いで梅田へ。1時間あまり、どちらも満員電車の立ち詰めだから、結構腹が減る。
店は朝から開いていて、フライ類とライスに味噌汁が付いたセットは学食並みに安かった(確か350円だった)と記憶する。
今は新しく改装されて当時の面影は薄いが、衣がハムの3倍くらいの厚さのハムカツが絶品だった。
エスカレーター前の「[珈琲通の店ニューYC]で待ち合わせをしたり、[松葉総本店]で串カツを立ち呑みの生ビールで流し込んだり、[大阪一とり平]のカウンターに一人で座って焼鳥を注文するようになった頃は、梅田という大ターミナルを迷わず歩けるようになっていた。
この飲食街の入口にあたる場所(何と「珈琲通の店ニューYC」の隣)にマクドナルド、そして吉牛とチェーン店がテナントとして入って来たのはずっとずっと後。気がつけば30年以上、この新梅田食道街に通っている。
ちょうどど真ん中あたりの角地にある赤いタイルの中華[平和楼]、鴨鍋定食の[新喜楽]。
おっと[マルマン]の「ライトランチ600円(11時〜2時半)」や。現物サンプルが店頭に出ていて、「おー、うまそうやな、安いな」となる。この日はデビルチキン、ポークカツだった。
ここ数年は昼前昼過ぎに梅田に着くと、「ビフテキ・欧風料理」と入口ドア上と置き看板に書いてある[スエヒロ](ビフテキは高いと思って食うたことがない)のサービスランチを食うて、シュークリームのヒロタとA-1ベーカリーの細い通路から阪急デパート前へ抜けて堂島へ歩いて帰るパターンも多い。
このところ一番よく行く[大阪一とり平本店]は、昼時に前を通ると、ランチ客でごった返すのを無視するかのように、スタッフ3がカウンター席に座り、通りに背中を向けて串に鳥を刺している。
開店まだやなあ、夜、仕事帰りにいっとかなあかんなあ、なんせ大阪一やもんな、などと思う。
横に細長いカウンターだけの奥行きのない店で10数席。まことに新梅田食道街の店らしい焼鳥屋であるが、やり方はユニークだ。
座ればまず大根おろしと辛子の小皿が出てくる。そして何も注文しなくても合鴨の身と皮が炭火にかけられる。「お通し」の合鴨のタレ焼き4本だ。
お通しの合鴨の身にはネギ、皮には玉ネギ。大根おろしは焼鳥の口直しでスプーンで食べる。
昭和26年(1951)創業時は、まだまだ食料物資が不足していた時代だったが、合鴨の飼育から精肉販売までを行う業者にツテがあった。それが今や「河内鴨」で有名なツムラ本店であり、その贅沢な合鴨を店の目玉メニューとして、まず初めに「お通し」として出す。ユニークな伝統である。
鴨とアヒルを交雑させた「合鴨」は大阪発祥だということは、この店で初めて知った。
カウンター内のスタッフは、客がこの一皿を食べる様子をしっかり観察する。その客が空腹なのか、好みは何なのか。
壁の木札には「ネオドンドン」「ネオポンポン」などと突拍子もないメニューが書かれてある。初めての客なら必ず「それは一体、何?」と訊く。
狙いはそこだ。会話の糸口になるようにと初代が考えた。ネオドンドンは心臓で、鼓動の「どんどん」にかけてある。まことに大阪のおっさんのシャレ的感覚だが、職人的符牒っぽくもある。
コンロからあふれんばかりにふんだんに使われる備長炭の火の強さはカウンターからも感じる。その強火の焼き方の特徴は、ネオドンドンすなわち心臓でわかる。外側を強めに焼き内側を浅く。
それで焼きの状態がアンバランスになり、「ぶりっ」とした食感になる。
一瞬レアかと思うが、醤油ベースのすっきりしたタレに実によく合う。だから七味や山椒ではなく辛子をつける。
この店は一切伝票を使わない。焼き手はカウンターに腰掛ける客の注文を頭に入れる。勘定は焼き場の横でマッチの数と向き、ビールの王冠の裏表などでつける。ソロバン勘定がしやすいからだ。
三代目中村元信さんは「初代が無駄をそぎ落とした結果そうなった」と語る。シブい台詞だ。
元信さんは学生の頃から大手外食チェーン店でアルバイトをしたりしていたが、大バコチェーン店系の飲食はおもろない、と思っていた。
大学を出て商社に就職した。2代目の父親に「うちは客はサラリーマンが多いから、その世界を勉強してこい」とのことからだ。3年間の会社勤めの後、家業に入る。何と暑い仕事やなあと思った。父には「まず客の顔を覚えなあかん」と言われた。だから伝票など書かない流儀なのだ。もちろんマニュアルなんてない。常連のこの人はビールはキリンでグラスではなくジョッキやとか、焼き加減、塩の量など好みも。
「顔を覚える」ということはそういうことなのだ。旧い鮨屋や割烹のような世界である。
またここで乗車時刻を調整する大阪出張帰りの客が多くて、鴨のもも焼きを「おみや」にして、新大阪からの帰りの新幹線であけてビールと…、というファンも多い。
この店に行ってから、2階にある[梅田サンボア]にミニはしご酒は、わたしの定番である。
こういう深くて渋い店が新梅田食道街に実に多い。
そして小さなこれらの店が、経済合理性とグローバル・スタンダードを押し出すファストフード・チェーンと互角以上の勝負をしている限り、この飲食街はまだまだ「大阪スタンダード」の街のあじを守っている。