取材がてら[甚五郎]へ。一人ではよう行かんので、北新地の大先輩についてきてもらう。
昭和四年創業、名物胡瓜巻きの店。表の石碑に「元祖 起う里満き 鮓甚五郎」とある。「きうりまき」の登録商標を持っていたそうだ。それに遠慮して「カッパ巻き」という言い方が広まったのもあながち嘘だとは言えない。
その「きうりまき」であるが、ものの本には「紀う里満き」と書かれていたがどう見ても「記う里満き」である。念のため阪大招聘教授の髙島幸次せんせに写真をメールで送って判読していただく。すると、
どっちも間違いです(笑)
「起う里満き」です。
紀・記・起の崩し字を添付しましたので、ご自分で納得ください。
とのこと。この先生の博学はもちろん、こういう時のセリフがおもろい。大阪の学者である。
取材がてら[甚五郎]へ。一人ではよう行かんので、北新地の大先輩についてきてもらう。
昭和四年創業、名物胡瓜巻きの店。表の石碑に「元祖 起う里満き 鮓甚五郎」とある。「きうりまき」の登録商標を持っていたそうだ。それに遠慮して「カッパ巻き」という言い方が広まったのもあながち嘘だとは言えない。
その「きうりまき」であるが、ものの本には「紀う里満き」と書かれていたがどう見ても「記う里満き」である。念のため阪大招聘教授の髙島幸次せんせに写真をメールで送って判読していただく。すると、
どっちも間違いです(笑)
「起う里満き」です。
紀・記・起の崩し字を添付しましたので、ご自分で納得ください。
とのこと。この先生の博学はもちろん、こういう時のセリフがおもろい。大阪の学者である。
この店の胡瓜巻きを含め、大阪の鮨については朝日新聞の記者だった篠崎昌美さんが戦前の大阪を書いている『続・浪華夜ばなし』(朝日新聞社)に、興味深い記述がある。著者・篠崎さんは明治25年(1892)大阪市西区生まれ。
「東京式の握りずしが大阪に現われたのは、大正前期に鉄砲屋がやり始め、関東震災後になって南地に福喜、道頓堀に幸ずしが現われ、これが評判になって南地に立食い専門のすし捨やすし常が繁盛した。料亭化したものに島之内の松ずし、曾根崎の胡瓜巻専門の甚五郎などがあった」
アジのキズシ、炊き合わせ、鉄火巻き、胡瓜巻きと進む。ビールに酒、酒、酒。
いやはやこうして見ると、鉄火や胡瓜巻きの皿が、東京や京都ではなくとても大阪な感じがしてものすごくいい。今日は8つに切られて出てきたが、普通は6つ切りで出てくる。
この店の胡瓜巻きを含め、大阪の鮨については朝日新聞の記者だった篠崎昌美さんが戦前の大阪を書いている『続・浪華夜ばなし』(朝日新聞社)に、興味深い記述がある。著者・篠崎さんは明治25年(1892)大阪市西区生まれ。
「東京式の握りずしが大阪に現われたのは、大正前期に鉄砲屋がやり始め、関東震災後になって南地に福喜、道頓堀に幸ずしが現われ、これが評判になって南地に立食い専門のすし捨やすし常が繁盛した。料亭化したものに島之内の松ずし、曾根崎の胡瓜巻専門の甚五郎などがあった」
アジのキズシ、炊き合わせ、鉄火巻き、胡瓜巻きと進む。ビールに酒、酒、酒。
いやはやこうして見ると、鉄火や胡瓜巻きの皿が、東京や京都ではなくとても大阪な感じがしてものすごくいい。今日は8つに切られて出てきたが、普通は6つ切りで出てくる。